~0-2~ 冠水都市の水柱
左手でダイアルを操作しながら
望は右手で限界までアクセルを開けてバイクを更に加速させてゆく。
過剰なスピードのせいか車体が数回跳ね
そのたびにピシャッという水切り音が望の耳を突いた。
望はタイミングを計るようにその音を聞く。
わずか十数秒の間に彼女が進む道路の水位は数十センチ以上も下がっていた。
下手をするとバイクの底部が水底に触れそうだ。
それだけではなく、「ミラージュ改」で操作された水の範囲は既に冠水地区全体にまで及んでいた。
彼女がここまで大量の水を動かす理由はただ一つ。道づくりだ。
「突っ切る!」
望はそう吠えると「高さ」のダイアルを全開にした。
次の瞬間、豪雨のような音が響き、
高さ七、八メートルほどの水柱が彼女の前方に一気に吹き出した。
吹き出た水柱は滑り台の階段部分だけを取ったような構造で、
坂を飛び出すと遠くまで飛べるようになっている。
その坂の入り口に向けて望はハンドルを切った。
ハンドルを切った勢いで車体は再び跳ね上がり
バイクはそのまま坂道の入り口部分に乗り上げる。
スピードまかせに突っ込んだせいで、バイクが水柱に沈み込みそうだ。
しかし、望は慌てることなく左でダイアルを、
右手でハンドルを操作して崩れた体勢を立て直した。
そして、そのまま坂の頂上へ突進する。
バイクが立てたしぶきが望の腕に、肩に、胸に、バチバチという音を立てて当たり、
弾けるように彼女の後方へと滑っていった。
坂を登り始めてから数秒で坂のてっぺんが見えてくる。
進行方向斜め下には住宅街に並ぶ家々が見えた。
続いて望は二つ目の足場を作り始める。
五本の指それぞれで別々のダイアルを微細に動かす、
その間、望はただ前だけを見つめていた。
やがて、住宅街の合間からゴゥと音を立て新たな水柱が立ちのぼる。
望は奥歯を噛みしめ、狙いを定めるようにハンドルを握りしめた。
彼女の視線の先には水の坂の果て、断崖が見えた。
望は最後の仕上げとばかりに、
バイクの鼻面を水底に沈めるようにハンドルの上からグイと力を入れてバイクを押さえ込む。
すると、水の反発によってバイクの前身が浮き上がった。
バランスが崩れたバイクはさながら暴れ馬のように揺れ動き望を振り落とそうとする。
だが、望は手慣れた様子でそれをいなすと、バイクの前身を浮かせたまま断崖へと突っ込んだ。
あと十メートル、五メートル、三、二、一、……!バッシャンッ!
まるで炭酸水の塊が弾けたような音と共に、望は空を駆けた。
心臓が体の底から跳ね上がる。その快感で望は口元を緩め、笑い、そして堪えきれず張り上げた。
「いやっほおおおう!」
その声が尽きると同時に、バイクは次の水柱に着水した。
着水の衝撃で水柱の一部が望の体を抱きしめるようにしぶきを上げて散る。
望は「ふぅ」と一息をつくと、次の水柱の準備を進めた。
このままのペースだと問題なく到着できそうだ。
「何とか減給は免れるかなー」
――――
ちょうど午前六時ピッタリに望はインターホンのスイッチを押した。
今朝の配達先は冠水地区の外れにある古びた一軒家だった。
冠水地区の端にあるからか足下の水嵩も数ミリ程度の浅さだ。
それはまるで、透明なカーペットがそこらの道路に敷かれているようにも見えた。
家主が出てくるまでに、望は先程の全力疾走で乱れた服装をサッと整える。
そして、望が最後に自分のシャツの裾をピッと張った瞬間、
玄関のドアが開き、一人のお婆さんがのそりとドアの影から現れた。
「あらぁ、のぞみちゃん。おはよぉ。今日は早いのねぇ」
「おはようございまーす……」
受取人のお婆さんは今まさに起きたばかりのようで、
地味な灰色のパジャマの上に白い肩掛けを羽織っている。
「なんか、今日は特別に指定が入ってました」
望はそう言うと脳内で「窓」のプログラムを実行した。
すると、足下で揺らいでいた水の一部が望の手元に吸い上げられる。
そのまま、水は板状へと変化し空中に浮かぶ。
板状の水には、今日の配達予定や細かい備考などが記された文字が黒く浮かび上がっている。
望はその中にある備考の部分をお婆さんに見せた。
『早朝指定六時まで』
「ね」
「あらぁ、ほんとうねぇ。送り主は誰?」
「えーと……旦那さんですね」
「えぇ? ……あぁ!」
心当たりが見つかったのか、お婆さんは両手をパンと鳴らし
くしゃっとした顔ではにかむ。
その一連の様子を望は冷めた表情でながめていた。
「あの人ったらぁ……もぅ……」
「あのー、サインか指紋いいですか?」
「その前に聞いてよのぞみちゃん。
今日はね、今日はね、なんとね、私と旦那の結婚記念日なのよぉ」
「はぁ」
望はハッキリ言ってそういうのに興味はない。
「そうですか、それはよかったですね」
「うふふ……。旦那とのなれそめは中学時代でねぇ……。
私はパソコン部、旦那は野球ってスポーツの部活だったのよぉ」
野球というスポーツは知らないが、パソコンという単語は望も聞いたことがあった。
たしか数十年前に流行した情報端末の一つだ。
今では骨董として愛でられており一部の愛好家の手で
細々とした伝統芸能らしきものが受け継がれているらしい。
「若い頃の旦那はねぇ、それはもう格好良かったのよぉ。
なんていうのかしらねぇ、スポークスマンっていうのぉ」
「……スポーツマンですか」
「そうとも言うかもねぇ」
「全然違いますけど」
「まぁ、それはいいのよぉ。やっぱりねぇ、男の人が運動で汗を流す姿って惚れ惚れするじゃない?」
「……そういうものですかね」
望は目を伏せ少し言葉を濁した。そういった経験は彼女には無縁だ。
「そういうものなのよぉ、女の子って。……伝票いいかしら?」
「あ、はい」
気を使われたのか突然話を打ち切られたことに望は驚いたが、
言われた通り望は「窓」を操作して伝票の画面を出した。
水のボードの全面に「ココにサインか指紋を!」という文章が表示される。
望はボードをお婆さんに渡すように手を振る。
すると、それは導かれたようにお婆さんの方へ平行移動した。
「じゃあいつもどおり、指紋にするわね」
そう言ってお婆さんが画面に人差し指を押しつけると、
画面の表示は「毎度ありがとうございます!」へと変わる。
その後、板状の水はまるで力を失ったように彼女たちの足下へ落下する。
そして、そのまま足元の水と混ざり、跡形もなく溶けて消えた。
「それじゃあ、私はこれで」
これで今朝の望の仕事は終わりだ。望は軽く会釈をしてからバイクに跨がった。
そのままエンジンをかけようとした所で望は動きを止めた。
お婆さんが先程と変わりない、しわしわの笑顔でこちらを見続けていたことが気になったからだ。
「……何か?」
「望ちゃんって彼氏いたっけ?」
――――その言葉は、望の心を貫いた。
まるで氷で出来た弾丸のように冷たく、重い言葉だった。
「…………いませんよ」
投げやりに答えると望はバイクのエンジンをかける。
望の静かな怒りを代弁するかのようにエンジンはため息のような深い音を立てて動き出す。
出来るだけお婆さんの顔を見ないように足早にその場を去ろうとした望だったが、
去り際のお婆さんの一言が彼女の傷口を更に広げた。
「あのねぇ、やっぱり同じ趣味や同じ好みを持ってる男の子がいいわよぉ」
――――私と同じ好み。
そんなものを持っている他人なんてお断りだ。