孤独な王は月を望む
煌々と丸い月が頭上で輝く。闇色の夜空に浮かぶその光は、何百、何千と時が過ぎても色あせない。身分に関係なく平等に降り注ぐ月明かり。だがどんなに手を伸ばしても、その本体に決して触れることは叶わない。地上に住まう者は、月に想いを馳せて祈りを唱える。手が届かないからこそ、時に人は強く求めるのかもしれない――。
◆◆◆
深淵を塗り固めた色が空を覆う。宵闇に浮かぶ淡い光を頼りに、男はそっと部屋を抜け出した。獣も草木も眠る時刻。この場で聞こえる音は、己が草を踏みしめる足音だけ。
目的もなく庭園を彷徨い歩く。一人の時間は、こんな真夜中にしか得られない。肩に重くのしかかる重責に、時に呼吸を忘れそうになる日々。息がつまるたびに、誰にも告げず外に出るのだ。月明かりのみを頼りにして。
今宵は満月なのか……。そう呟いた声は、静寂が包む世界に静かに響いた。しかしその直後、がさりと背後で音がした。
『誰だ』
鋭い誰何と共に男は振り返り、はっと息を呑む。木々の合間から、そっと一人の女が姿を現した。
――侵入者を招きいれるなど、衛兵は何をしている。
頭の片隅では不審者の登場に警戒心を募らせるが、同時に男は息をつめていた。
月の雫を一滴たらしたような、見事な銀髪。月の女神が愛したと言われる神秘的なアメジストの瞳。ふっくらと丸みを帯びた頬は瑞々しく、薔薇色の吐息がこぼれそうな赤い唇は艶めかしい。純白のドレスに身を包んだ女は、訝しい顔をしたまま硬直する男に、小さく微笑みかけた。
『驚かせてごめんなさい』
鈴の音に似た声が響く。距離はあるのに、間近で聞こえる。まるで頭に直接話しかけられたような、不思議な音色だ。
男は再度問いかける。お前は誰だ、何しにこの城にやって来たと。くすりと微笑んだ女は、キラキラと注ぐ月明かりを掴むように、頭上に手を伸ばした。
『名前など、必要ないのではなくて? この場にいるのは、わたくしとあなただけ。起きている人間は誰もいない』
侍女も侍従も衛兵も、誰一人この場にはいない。気配すら感じられない。
だがおかしい、本来なら夜間も警備が万全にされているはずだ。誰も起きていないなど、普通はありえない。
が、女の幻想的な空気に男は飲まれた。次第に己を納得させ、この現実味のない時間に身をゆだねる。
『お前は月から来たのか』
そんな問いに女はころころと笑った。
『そうかもしれないわね。ではわたくしのことはセレネと、お呼びくださいな』
――セレネ。この国を代表する、月の女神の名だ。
ダイアナやアルテミスなどいくつか他にも存在するが、男が一番好きな名前が偶然にもセレネだった。
暗闇に浮かび上がる輝く銀色。背景と対照的なその色に目を奪われる。
月明かりを浴びたまま、セレネは踊る。軽やかに舞う姿はまるで夜の蝶だ。戯れに姿を現しては、束の間の夢を人に与える。そのまま月に帰ってしまうのではないかと思うほど幻想的に、彼女はひらりひらりと優雅に踊った。
美しい月夜に美しい娘。男の心は一瞬で囚われた。
また会えるか。そう訊ねれば、女は艶然と微笑んでは頷いた。
『それではまた、満月が美しい夜にお会いしましょう』
そう告げて、彼女は木々の合間に姿を隠した。
それから何度も二人は夜の逢瀬を重ねた。女がどうやってこの城に入り込んだのかはわからない。だが害があるわけでもなく、彼女はただ、楽しげにその場で踊る。その舞を観賞するだけの男も、女の素性を問い詰めることはなかった。知ったら最後、二度と女に会えないとわかっていたのかもしれない。
やがて逢瀬が片手では数え切れなくなった冬の初め。ある満月の晩に、男はいつも通り待ち合わせ場所に向かった。
だがその場にいたのは、招かれざる別の人間。初老にさしかかった男を見やり、地面に倒れ血を流す女を見つけた。血の気が引いた顔で男は走る。
『何をした!?』
初老の男の手には、鋭利な剣。ぽたりぽたりと切っ先から落ちる鮮血が、地面に吸い込まれていく。彼女が刺されたのは一目瞭然だった。
男は跪いては名前を呼ぶ。セレネと教えてくれた、本名かどうかもわからぬ名を。しかし女は応えない。呼吸は完全に止まっていた。
ギリっと奥歯をかみ締めて、この国の宰相を睨みつける。
『何をしたと、聞いている』
慟哭とも呼べる、感情を抑えた低い声。叫びだしたい怒りに満ちた声を浴びせても、先代王の時代から国に仕える宰相は、顔色一つ変わらない。
『王を惑わす不審な女を始末しただけのこと』そう平然と答えた。
実際不審な女――だけでは済まされない。王城に忍び込む者は、斬り殺されてもおかしくはない。女が何者なのか、男は未だにわからなかった。ただ薄らと、人ではないのではないかと、おとぎ話の類を信じるようになっていた。本当に月から来たのではないかと思った事も、一度や二度ではない。
誰も来ないと何故思っていた。決して油断していたわけではなかったのに。人の気配に敏感な男にも感じさせないほどの監視者が傍にいたと言うのか。
月を見上げる男に、宰相は言う。
『王よ。手に入らぬ月を乞うのはやめなされ』
いくら手を伸ばしても決して誰の手にも入らない。しかし男は宰相の言葉を正しく解釈していた。手に入らぬのは月ではない、好いた女を指している。この場で命を落とした、月の女神と見紛う女だ。
『まだ早いと思っておりましたが、後宮を開けましょう。そこから正妃を選べばよい』
女が欲しいのなら妃を娶れ。即位してまだ間もない若い王の、後ろ盾になれる家柄の娘を。
立ち上がり、男は真っ向から宰相を射殺すように睨んだ。たった今彼女を殺したお前が言うのか!
宰相は静かに王を見つめ返す。顔に刻まれた皺の深さは、若輩者の王などとは比べものにもならない苦難を乗り越えた戦歴が窺えた。
戦乱の世、この国は休戦協定を結んでまだ浅い。男の二人いた兄達は、戦に赴き敵国に殺された。その後父王は病に倒れ儚くなった。かろうじて残った王家の直系第三子である男の元に、思いがけず玉座が舞い込んだ。今まで見向きもしなかった国の重臣達が、一斉に頭を垂れる。男を王と呼び、玉座に座れと申す。まだ二十歳にも満たない若き王は、操り人形も同然だった。
何の為にここにいる。何の為にこの椅子に座る。誰にも声は届かず、王の意見は問われない。
王とは国の象徴だ、その場におるだけでよいのです。そんな言葉をかけたのは、一体誰だったか。
求めた女と添い遂げる事も叶わない、孤独な王になど。自分からなりたくてなったわけではない。
『勝手な事を、お前達はいつも勝手な事を言う! 私を傀儡の王と呼び、陰でこの国を操り、孤独だけを私に味わわせるのか!』
『王とは孤独な存在です』
『孤独を強いるのはお前達ではないのか』
『そう思うのは王の心が弱いからだ。覚悟もなく、我らが求める存在には未だ遠い』
『無理やり押し付けておきながら、そう抜かすか……。私が求めるものは何一つ手に入らないというのに、お前達は私から月を奪うのか』
拳を握る男に、宰相は緩く首を振った。
『勘違いされておる。王が求めるのは月ではない、民の心を求めよ』
この国を支える民草の心を得られなければ、疲弊した民の心は荒んだまま。この国の未来に光は差さない。
『我らが付き従い、頭を垂れたくなるような威厳溢れる賢君であらせられよ。血潮を浴び、汚泥に塗れ、怨嗟の炎で身を焼かれても。立ち上がり顔をあげよ。王は誰にも屈しない』
――民が望む、王であれ。
淡々と、冷静に重い言葉が紡がれる。真っ直ぐ射抜いてくる眼差しに、男は奥歯を噛みしめて耐えた。未熟な男は、時代の流れをその目で見て来た名宰相の足元にも及ばない。
王は個人ではない、人であってはいけない。王と呼ばれたその日から、王の名前は消えたのだ。ただの一人の男に、戻る事は叶わなかった。次の王に相応しい者が現れるまでは。
『王の夢は国の夢。王とは国という囲いに閉じ込められた、孤独な存在なのですよ』
『私が月を失う事が、国の望みなのか――』
俯く王に、宰相は肯定する。王は夢を見ない、月を望まない。決して届かぬものに焦がれるな。現実を見よ。助けを求める目の前の民を見よ。彼等の望みを叶える者が、王の務め。
『ならば、誰が私の願いを叶える』
『それも民が叶えましょう。王の望みは、彼等が命をかけて遂行する。その忠義を集める王であれ』
『人でいたい私の願いを犠牲にするのが民でもか』
王であるのが王たる者の宿命。言われた言葉を咀嚼する。目頭が熱い。だが人前で泣く事も、王には許されないのだろう。
願いと望みは似て非なる物。願いは誰かの為に、望みは自分の為に。この宰相は一体何を思うのだろうと、吐き気を堪えて男は尋ねた。
『お前の願いは何だ』
『国の安寧を』
『お前の望みは何だ』
『命がある限り、王をお支えする事。たとえ戦が始まったとしても、この老いぼれが最期まで王の隣にいましょうぞ』
ゆっくりと、臣下の礼を取る初老の男を、男はじっと見下ろす。激流に飲まれそうな感情は、落ち着きを取り戻していた。代わりに湧きあがるのは、王としての覚悟。目をそらし続けてきた現実を受け入れる覚悟だ。人でいたいと願った男が、王であろうと決意した瞬間だった。
雲の合間からキラキラした月光が注がれる。気づけば女の亡骸は、忽然と姿を消していた。月に還ったのだろうと、宰相はぽつりと言葉を零した。
◆◆◆
王が愛した月を亡くしたその日から、固く閉ざされていた民の心は次第に王城にまで届き始める。願いを星に、望みは月に。人が儚くなるその瞬間まで、人は何かを追い求め、夢を抱きつづけるだろう。
――今日も彼等は、誰かの犠牲の上で己の望みを口にする。その誰かが誰なのか、彼等には知る由もない。
お読みいただきましてありがとうございました。
後書きは活動報告にて。