牛の妖精
「牛の墓、ってえのはないだろ」
午後の喫茶店。
私の前に座る褐色の肌の青年が、コーヒーカップに口を付けた後、言った。
確かに、ない。聞いたことすらない。私はこくこくと肯いた。
「……だから、だと思う」
上手く説明できなかったのだろう。彼はちょっと間を空けると、そっぽを向きながらそれだけ言った。
「そっか」
私は、それで納得した。今の私には、理由なんかどうでも良かったのかもしれない。
「それにしても、牛の妖精でもコーヒーを飲むんだね」
「飼い主が与える餌を拒む家畜がどこにいる。よっぽどまずかったり毒でも入ってなければ食べるに決まっているだろう」
何せ家畜だからな、と自嘲気味に彼は言う。喫茶店に人はまばらとはいえ、頭部に二本の角がある彼の姿は目を引くようで、さらに「家畜」という言葉の響きに多くの客が好奇の視線を向けている。
彼は、自分が言ったように牛の妖精らしい。
気付けばダムの湖畔にいたようで、気付けばそこから二県をまたいだ遠方にある私のマンションの前にいたそうで、気付けば呼び鈴を押していたらしい。
「帰巣本能なのかもな」
と、彼。
生前は私の遠い先祖に飼われていたそうで、死後人の姿をした妖精に生まれ変わってもその血族に仕えるべく、私を尋ねて来たということだ。
「そのジーパンと黒いシャツは、どうしたのよ」
「さあ、気付いたときからこの格好だ」
それはともかく。
「私も困るのよねぇ。あのマンション狭いし、男が出入りしてたら変な噂が立つし」
「男といっても、俺は家畜だ」
「ペットとかの動物も禁止なの!」
「俺は家畜だ」
結局、引っ越すことにした。彼は私の弟ということで、通す。
それはともかく、喫茶店を出るとき。
「会計はご一緒でいいですか?」
「家畜が金を持ってるわけないだろう」
「あ~。ご一緒でいいです、ご一緒で」
当然というべきか、店員は男の方に聞くわけで、私は慌てて財布を開いたり。
閑話休題。
「どうした?」
彼――私は彼を、『うし男さん』と呼ぶことにした――は、重い荷物をひょいと抱えながら私を見返した。
「いえ、すごいなって思って。私じゃこの荷物、下まで到底運べないから」
「別に、俺達にとっちゃ当たり前の事だ。……俺なんかより、もう一匹いた牛のほうが凄かったよ」
どうやら、生前飼われていた私の遠い先祖の時代のことを言っているようだ。少し、表情に影が差す。
「俺、牛にしちゃ体が小さくて力がなかったから」
もしかしたら、このあたりが未練として死後も残り、今、妖精となっているのかもしれない。
「でもでも、今は大助かり。うし男さんがいて、良かった」
引越しの原因といえばうし男さんなわけだが、そんなことはおくびにも出さず慰めた。そのかいあってか、にっこり微笑むうし男さん。なかなか整った顔つきで、カッコイイ。牛としては小柄とか言ってたが、頬がそげていたり精悍な感じがするので、今はむしろとても良い。というか、私が彼の存在を受け入れたのも、彼が美青年だったからに他ならない。
「家畜だからな」
一方彼はそう言って照れながら、荷物を階下へ運ぶ。
が。
「……俺達が必要なくなったわけだな」
彼はすぐに機嫌を傾けた。私が運転する軽トラックの助手席で、ふんと鼻息が荒い。
「仕方がないじゃない。そういう時代なんだから」
私は、普通自動車免許を持ってはいるが軽トラックの運転などはじめてだ。運転しながらだとどうしても口調が荒くなる。だって仕方ないでしょう。突然の引越しで資金もない。苦肉の策として、私が通う大学の軽トラックを借りて節約しているのだから。
「ふん」
結局、うし男さんの機嫌は直らなかった。
そして新たなアパートに移って数日後。突然、私とうし男さんの生活は終わった。
「……なんなのよ」
ある日、大学の講義を終えて帰宅すると、うし男さんがいなくなっていた。書き置きの手紙のみ、残して。
――飼い主の役に立てない家畜に、存在価値はない。
置き手紙の文面は、それだけだった。
「なんなのよ、これ」
私は、愕然とした。
誰のために引越ししたんだ?
一体誰のために、手料理を覚えようと本やらなにやら揃えたんだ?
「なんなのよ、これって」
私は、涙を流した。
悔しかった。
悲しかった。
置き手紙の文面を、もう一度見る。
おそらく、生前も飼い主の役に立てずに死んでいるのだと感じた。
「アンタは、役に立っていたのよ!」
思わず叫ぶ。しかし、一番聞いてもらいたい人は、いない。
うし男さんと出会う直前、私は失恋していた。悲しみのどん底で、独りぼっちの寂しさに耐えかねていたのだ。
引越しは、新たな生活へちょうどいい機会だった。
心配してくれていた女友だちからも、「新しい恋人でもできたの?」とか言われるくらい、精神的に回復していたのだ。
「ありがとうの一言くらい、言わせてよ!」
しかし。
もう聞いてもらう人は、いない。
その後。
私は、変わった。
うし男さんに出会う前のように、落ちこんだりはしない。
ここで落ちこんだら、またうし男さんは、「飼い主の役に立てなかった」と思うに違いない。
そうじゃない。
うし男さんは、とても役に立った。
ううん。今も、役に立っている。役に立ち続けている。
そう思って生活した。
その甲斐あって、無事に大学は卒業。就職もできた。そして、新たな彼氏も。
やがて、結婚。夫の故郷へと転居した。
「まったく。日本にまだこんな田舎があったのねぇ」
田園風景が広がる、のどかな場所だった。
家の近くには、森。
洗濯物を干しながら、森の方を見る。
うし男さんが、いた。木に隠れながらこっちに手を振っている。
でも、出てこない。
それでいい。
なぜなら今も、役に立ち続けているのだから。
「よっし。洗濯物おしまい。今日は一日良い天気だといいな」
私が生き続けている限り、彼は役に立っているのだ。
ふと振り返ると、風。
翻る洗濯物の向こう。木々の間に立つうし男さんが、すうっと消えるのが見えた。
優しく、微笑んでいた。
おしまい
ふらっと、瀬川です。
丑年の年賀小説として書き、自ブログに発表したことのある旧作品です。