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今日もハムスター少女として生きていく  作者: 酣睡


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迫りくる嵐の予感、ようやく芽生えた本当の心

五大陸最大の地塊を占有する帝都——その広大さと重厚さは、常人の想像の埒外にあった。


学院が結界と象牙の塔の高壁に守護された箱庭の都市国家であるならば、門を一歩踏み出した先に広がる帝都こそが、巨大帝国の心臓に相応しい野生と脈動を宿していた。


都心で最も栄える中枢地帯は、階級で冷酷に切り分けられた特権階級の閉鎖区画などではない。皇帝の特許状を掲げ、大貴族の宗家と平民の豪商ギルドが共同で運営する、壮大にして混沌とした巨大商業特区であった。


聳え立つバロック調の列柱回廊と精緻な彫刻が施された円形ドームの下には、多種多様な魔導機械の工房、異国の芳香を漂わせる錬金香料店、そして名だたる古式家紋の看板を掲げた精鋼武器店が軒を連ねている。


あらゆる人種と身分がこの地で交錯していた。仕立ての良い絹の外套を纏った貴族の学者、無骨な大剣を背負った歴戦の傭兵、辺境の魔獣の毛皮を売り捌く旅商人、そして忙しなく行き交う工匠たち。広々とした大理石の目抜き通りは、それらの熱気で埋め尽くされていた。


さらに圧倒的なのは、その喧騒と繁栄が都心を離れてもなお、少しも衰えを見せない点にあった。


竜の背骨を思わせる「帝国万里通商大道」は、研ぎ澄まされた青灰色の玄武岩で敷き詰められ、街道沿いに連なる商店、宿場、魔導整備場、そして酒場は、尽きせぬ生命力をもって外城の平原を貫き、遥か遠方の辺境要塞へと一直線に伸びていた。


この華奢な少女の肉体へと魂が転生して以来、鈴木八重が学院の高い城壁の外へと足を踏み出したのは、これが正真正銘の初めてであった。


今、全身が雪のように白く輝く純血の竜紋馬八頭が牽引する重装公爵馬車が、街道を滑るように疾走し、ブルボン公爵領を目指して邁進していた。


車内は至極広大かつ豪奢を極めており、深紅の天鵞絨と芳醇な沈香木で贅沢に装飾され、車外の喧騒を低く鈍い環境音へと見事に遮断していた。だが、車窓の外に広がる壮大で開けた風景とは裏腹に——車内の空気は、一滴の水すら絞り出せそうなほど重く、息苦しく凝結していた。


狭隘な密室空間に押し込められた、六名の同乗者。


中身の入れ替わった「マリーズ」は、中央の一等地である豪奢なクッションに尊大に寄りかかり、窓外を飛び去る街並みを冷めた眼差しで見つめている。


その傍らでは、引き締まった健康的な体躯を誇る豆宝が警戒を怠らず背筋を伸ばし、車内の面々へと鋭い視線を巡らせていた。オレリアは優雅に足を組み、手帳の表紙を細い指先で撫でながら、金縁眼鏡の奥の理知的な双眸で車内の異様な緊張感を冷徹に分析している。


一方、その対面に座す者たちの空気は、さらに複雑怪奇を極めていた。


フェイは伏し目がちに視線を落とし、その海藍宝の瞳でマリーズを直視できずにいた。霜白色の髪が、微かに朱の差した耳朶を覆い隠している。


指先は無意識にドレスの裾を強く握りしめていた。マリーズが身じろぎ一つするだけで、彼女は怯えた仔鹿のように微かに肩を震わせる。


その脳裏を満たしているのは、毎夜の夢の中で繰り広げられる、あの狂おしく淫らな口づけと絡み合いの残滓に他ならなかった。


その隣に腰掛けるティナは両腕を胸の前で組み、超一流の暗殺者特有の研ぎ澄まされた視線を八重とフェイの間で往復させ、唇の端に薄氷のような含み笑いを湛えていた。


そして、普段は雲の上の存在であるはずの公爵令嬢イリノーはといえば、隅の座席で両脚を固く閉じ、精巧な陶器の人形のように全身を強張らせていた。


マリーズの視線がほんの少しドレスの裾を掠めただけで、この比類なき美貌の先輩の頬には、屈辱に焼き尽くされそうな紅潮が瞬時に跳ね上がる。


両手で太腿を必死に押さえ込むその姿からは、先刻の長廊下でショーツの色を問い詰められた際の、底知れぬ屈辱のトラウマがありありと滲み出ていた。


この嵐を巻き起こした張本人であるシャルロットは、すでに魂を抜き取られたように怯えきり、マリーズと同じ馬車に乗り込む気力すら残っていなかった。


今頃は父であるアンリ公爵の厳重な重装軍用馬車の片隅で、鉄蹄と鋼甲の響きに護衛されながら、青ざめた面持ちで自領への帰途についているはずであった。


マリーズの常軌を逸した暴挙は、事態を完全なる破滅の深淵へと叩き落としていた。


元来、帝国の軍政の半分を牛耳る鉄血の統帥アンリ公爵が、自ら「双方とも面目を保つべきだ」と妥協案を口にした時点で、新進気鋭の若輩に対しては破格の温情であった。


分別のある貴族であるならば、その申し出に飛びつき、最低限の体面を繕って幕を引くのが至極当然の判断であったはずだ。


しかし、公爵の前に立ちはだかっていたのは、恭順を旨とする貴族の令嬢などでは断じてなく、フェイの無念を晴らすため、端からすべてを叩き壊す腹積もりでいた異界の凶神であった。


静まり返る長廊下の中央で、人形のように端整なマリーズの顔には微塵の動揺も浮かばなかった。


彼女は歴戦の公爵を前に言葉を交わす労すら惜しみ、ただ細い右手を持ち上げると、左の手首を覆う繊細な刺繍の施された純白のレース手袋を、優雅に、そして致命的な侮蔑を込めて引き抜いた。


次の瞬間、その軽やかな絹の手袋は冷気を切り裂き、「ピシャリ」と乾いた破裂音を立てて、無数の勲章と刃の傷跡が刻まれたアンリ公爵の頑強な胸甲へと叩きつけられた。


手袋はそのまま力なく滑り落ち、両者の軍靴と革靴の間の床へと静かに横たわった。


鈴木八重の目論見通り——「手袋を投げつける」という行為は、彼が生きた遥かなる地球であろうと、この厳格な階級社会たる異世界であろうと、寸分違わぬ唯一の絶対的な意味を宿していた。


それは一族の栄誉と生命を賭けた、決して後戻りの利かぬ正式な決闘の宣戦布告である。


「ヒッ——!」


息を呑むような窒息の音が、長廊下に満ちた。


下着の色を吐かされ、目尻に涙を浮かべていたイリノーは完全に呆然と立ち尽くし、回廊の角へと駆けつけたフェイは、最高峰の軍閥へと手袋が舞った光景を目の当たりにして思考を真っ白に染め、心臓を喉から吐き出しそうになっていた。


だが、まさにその衝撃的な一瞬において、一週間にわたってフェイの心を蝕んでいた混沌の霧は、奇跡のように晴れ渡っていった。


彼女は、己の心の内にある真実を完璧に自覚したのだ。


大剣を担ぎ、学院の権威を灰燼に帰し、帝国の公爵にすら刃を突きつけるこの「マリーズ」が、粉骨砕身しても報いきれぬほどの恩義を抱くべき、尊大にして強大な異界の覇者であることは疑いようもなかった。


しかし……夜毎の夢の中で彼女の胸を焦がし、狂おしい独占欲と加虐心を滾らせていた対象は、この器に宿る冷酷無比な魂などでは断じてない。


彼女が恋焦がれ、自らの腕の中に閉じ込め、優しく壊れるほどに愛でたいと渇望してやまないのは——理不尽に怯え、小さく丸まっては涙を零していた、あの灰色の小倉鼠のように可憐な、本物のマリーズだったのだ。


(ああ……私は本当に、あの無力な子に心を奪われていたのね。)


物陰で唇を噛み締めるフェイの海藍宝の瞳には潤んだ光が宿り、その表情には深い羞恥と、どこか狂気を孕んだ諦念が混ざり合っていた。


しかし、フェイの情愛の目覚めとは裏腹に、廊下の中央に立つイリノーは焦燥の極みにあり、背筋には冷汗が伝っていた。


事態は完全に制御不能へと陥っていた。


シャルロットが水面下で弄した謀略は愚劣極まりないが、もしこの件がブルボン領に伝わり、同じく大公爵である自身の父の耳に届いてしまえば——無二の親友が学院で専横を極め、自身はその盟友でありながら暴走を抑え込めず、あろうことか事態を「公爵家との決闘」という最悪の局面まで悪化させたと糾弾され、苛烈極まりない処罰が下されることは火を見るより明らかであった。


何よりも絶望的なのは、戦力差の乖離である。


アンリ・ド・ブルボンが辺境総督の座に君臨し続ける所以は、彼が大陸全土に轟かせる血塗られた二つ名——「雷霆公爵」にある。


その名の通り、上位魔獣すら震え上がらせる神速と山をも断つ剛力、そして通常の大魔導師の数倍に達する膨大な魔力量を誇る怪物なのだ。


対するマリーズの肉体は、本来ならば鍛錬すら不足した脆弱な器に過ぎない。中央演習場で顕現させた黄泉津大神と八雷神の神格はあまりにも高位であり、人の身で頻繁に行使できる術式でないことなど、学院上層部もイリノーも熟知していた。


あの神威の庇護を欠いた状態のまま、ただの鉄の巨剣一本で雷霆公爵の暴虐なる雷撃領域に抗うことなど、万に一つも不可能なのだ。


この決闘を止めねばならぬ……いかなる代償を払おうとも。


イリノーは血の気の失せた唇を噛み、その冷涼で誇り高き双眸に、極限の葛藤と常軌を逸した悲壮な決意を宿した。


彼女は、先ほどマリーズが迫ってきた瞬間の眼差しを思い出していた。


あの凶悪な刃で容易く衣類を切り裂けたはずなのに、あの不遜な少女はただ自身の顔を凝視し、羞恥の「黒」という答えを引き出した後、奇妙な審美の悦びを唇の端に浮かべていたではないか。


(あの狂人は……人並み外れた美貌の持ち主に対して、異様な寛容さを見せる?)


公爵令嬢として叩き込まれてきた一切の淑女教育を踏みにじる狂気の企みが、毒蔦のようにイリノーの胸中に絡みついて離れなくなった——。


もしも……万策が尽き果てたというのなら。


いっそこの誇り高き公爵令嬢の矜持をかなぐり捨て、誰もが渇望するこの美貌と肉体そのものを投げ出し、自ら彼女を誘惑し、徹底的に「籠絡」してしまえばどうだろうか?


あの無法者の狂犬を懐柔して手懐け、甘美な絆の鎖で縛り上げた上で、アンリ公爵にこの無謀な決闘を取り下げさせるよう立ち回る……それこそが、全員の面目と命を繋ぎ止める、唯一残された狂気の活路ではないのか?


スカートの下で拳を握りしめるイリノーの顔は蒼白と紅潮を激しく行き来し、その呼吸は危険すぎる妄執ゆえに微かに震えていた。


かつてのイリノーは、社交界において冷徹にして浮世離れした孤高の佳人として通っていた。


だが、この端麗なる公爵令嬢が、夜更けの帳の中で市井の荒唐無稽な恋愛小説を読み耽る密かな悪癖を抱えていることなど、露ほども知られていなかった。


貴族社会の虚飾と常套句に飽き飽きしていた彼女の琴線に触れるのは、尋常の男女の睦み合いなどではなく、書架の隠し扉に秘匿された、暴力的な略奪愛、自己犠牲、そして病的な執着に満ちた過激極まりない禁書ばかりであったのだ。


今、激しく揺れる重装馬車の中で、恐怖と焦燥に焼き尽くされたイリノーの理性の手綱は、音を立てて断ち切られた。彼女はもはや物語の虚実を見極める冷静さすら失い、ただこの泥沼を打破するため、自らマリーズを「奪取」せんと動き出したのだ。


「っ……!」


車輪が砕石を踏み越え、大きく傾いだ瞬間、イリノーは座席から身を翻した。手すりを掴むこともなく、獲物へと飛びかかる雌豹の如く、慣性に身を任せて対面のマリーズの胸元へと一直線に身を投げ出したのだ。


「おい、何を——」


マリーズが眉を顰め、不作法に倒れ込んできた令嬢を押し戻そうと手を伸ばした。だが、イリノーはその隙を与えなかった。


蔓草のように腕を絡め取ると、かつて見せたことのない決死の膂力で、その小柄な身体を自らの豊かな胸元へと無慈悲なまでに抱きすくめたのだ!


その瞬間、鈴木八重の瞳に滅多に見られぬ動揺が走った。


視界と呼吸を温かな柔らかさに完全に塞がれ、頭部を鈍器で強打されたような衝撃の中、彼の魂はその圧倒的な弾力によって地球へと叩き戻されそうになった。


認めざるを得ないが、イリノーの肉体は極めて豊潤であり、八重が衣服の上から推し量っていた以上に驚くほど柔らかかった。


ダマスクローズの豪奢な香油と冷涼な沈香が混ざり合った香気が、少女の熱を帯びた肌の温もりと共に八重の鼻腔を容赦なく満たし、鼻先をくすぐり、耳朶を否応なしに熱くさせた。


この時になって初めて、学院の頂点を蹂躙してきた異界の猛漢は、己の致命的な弱点を思い知らされることとなった——彼は口先ばかり勇ましく、本番に極端に弱い「初心な男」であったのだ!


日頃は他者を愚弄し、下着の色を詰問する際には悪鬼羅刹のように振る舞える癖に、いざ本物の美女に肌を密着させられ抱きしめられると、恋愛経験皆無の純情な魂は本能的な拒絶反応を起こし、手足を棒のように硬直させて狼狽えるしかなかった。


「マリーズ……どうして貴女は、いつも私をこんなにも苦しめるの……?」


八重が全身を強張らせる中、耳朶を打ったのは、鼻にかかった艶めかしく湿った囁きであった。


イリノーは、それまでの気高き仮面を完全に脱ぎ捨てていた。マリーズの首筋に顎を預け、震える長睫の奥に潤んだ瞳を湛え、吐息を漏らすその姿は、深淵より這い出でて男の魂を啜る夢魔そのものであった。


実際、イリノーは思い詰めていた。彼女は今や、自己処罰めいた自責の念の虜となっていたのだ。


かつて自分がマリーズの真心を幾度となく冷酷に踏みにじったからこそ、あの臆病で慎ましかった少女は狂気の底へと堕ち、暴虐なる破壊の仮面を被って己を武装せざるを得なくなったのだと。


ならば、あの脆く、柔らかく、自分だけを一心に見つめていた愛らしい少女を取り戻せるというのなら……自分を差し出すことなど、いかほどの惜しさがあろうか。


しかし、イリノーが神に誓って救済を誓ったその「本尊」が、今この瞬間も数千キロの彼方にある太古の竜の巣で、果実を齧りながら巨大竜の歯掃除に興じ、魔獣どもと気ままに戯れて帝都の情愛など頭の片隅にも置いていないことなど、知る由もなかった。


そしてこの肉体を預かる鈴木八重もまた、イリノーの造形美を男として絶賛しつつも、越えてはならぬ一線を弁えていた。


彼にとって自身は、因果を買い取って厄災を祓う「雇われの用心棒」に過ぎない。小倉鼠リリが胸に秘めた無垢なる初恋を、自らの浅ましい情欲で汚すことなど、彼の微かな誇りが絶対に許さなかったのだ。


「……先輩のその姿も、私には息苦しくて敵いませんけれど」


イリノーの豊かな双眸に顔を埋められたまま、マリーズは押し殺した声で呟いた。人形のような美貌には、完全に生きる気力を失ったような窒息感が漂っていた。


八重の思考は空転していた。この高慢な公爵令嬢が何の毒気を食らったのか、見当もつかない。


夏洛特をパンツ一丁で追い回した以外に直接の遺恨はなく、数日前にはマリーズの名義で伯爵家へと手紙を認め、彼女に対する政略結婚の圧力を即刻停止するよう釘を刺してやったばかりだというのに。


それがどうして馬車に乗るや否や、このような破廉恥極まりない夜這い同然の暴走を始めるというのだ?


八重には理解できていなかった。自分が教授陣を性別転換と丸坊主に追い込み、辺境の軍閥に手袋を投げつけて決闘を挑んだあの無軌道な狂気こそが、イリノーを極限まで追い詰めた元凶であったのだと。


今のイリノーは、かつての香しく、柔らかく、自分に怯えながら縋り付いてきたあの小動物めいたマリーズを、病的なまでに渇望していた。あの狂暴な肉体の殻から、愛おしい魂を引きずり戻したくて狂いそうになっていたのだ。


後悔と妄執の毒が、イリノーの理性を焼き尽くしていく。


彼女は心底から偏執的な誓いを立てていた。もしもマリーズを元の姿へと戻すために契りを交わす必要があるというのなら、今すぐにでも馬車を止めさせ、この腕の中の華奢な少女を最寄りの神殿へと引きずり込み、至高神の御前で永遠の伴侶たる誓いを立ててしまいたい、と。


だが、それらすべては、イリノーの一方的な独り相撲に過ぎなかった。


車内の片隅で、フェイはこの倒錯的かつ妖艶な光景を、余すところなく網膜に焼き付けていた。膝の上のスカートを握りしめる指関節が白く浮き上がり、その瞳の奥には複雑極まりない感情の渦が巻いていた。


フェイには痛いほど解っていた。イリノーが体面をかなぐり捨てて呼び戻そうとしている「マリーズ」と、自身が毎夜の夢の深淵で狂おしく求め、歪んだ独占欲を滾らせている対象は、寸分違わぬ同一人物——あの怯懦で、誰かの庇護がなければ生きていけない小さな存在なのだと。


胸に手を当てて問うてみればいい。目の前で無慈悲に刃を振るい、他者を平然と破滅へと追いやるこの異界の怪物を、真実愛せる者などこの世に存在するはずがないのだから。


だが……それこそが、鈴木八重が最初から仕組んだ冷酷な計略であった。


彼はこの見知らぬ異世界に、温かな情愛の絆を残す気など毛頭なかったのだ。己を道理の通じぬ理不尽な天災へと仕立て上げ、あらゆる怨嗟、恐怖、悪評、そして殺意を、この借り物の肉体に一身に引き受けようとしていた。


特権を貪るすべての貴族たちに「マリーズ」の名を耳にするだけで震え上がらせるほどの絶対的な恐怖を植え付けること——それこそが、契約が満了して自身がこの世界を去った後、あの臆病な少女が二度と誰にも踏みにじられることなく、平穏に生きていくための唯一の盾となると信じていたからだ。


ゴトゴト……と。


鉄を巻いた重厚な車輪が凹凸の激しい玄武岩の敷石を噛み、竜紋馬の荒い鼻息と共に、規則正しい重苦しい振動を刻み続けていた。


車窓の外、帝都が誇る万里の繁栄は刻一刻と地平線の彼方へと遠ざかり、代わりに荒涼とした辺境の空と、肌を刺す硝煙と冷気が大気を満たし始めていた。


八頭の駿馬は歩みを止めず、車内の昏い情念の火花もまた燻り続けている。


そしてこの街道の果て、ブルボン公爵家の牙城において幕を開ける生死を賭した血の決闘は、引き絞られた弓の如き殺気の中、音もなくその深紅の幕を上げようとしていた。

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