もう一つの影
玄関の前に立つと、時間が止まったように感じた。
家は確かにそこにあった。
古びた木の匂い、少し傾いた屋根、そして窓の向こうに映る自分の影。
ただ――違う。
ここにはもう、誰も住んでいないはずだった。
手の中の鍵を見下ろす。
祖母の旧姓が刻まれた小さな鍵。
鍵穴に差し込むと、乾いた音を立てて簡単に開いた。
まるで、ずっと“開けられるのを待っていた”ように。
扉を押し開けると、懐かしい匂いが鼻を刺した。
埃と湿気、古い木の甘い腐臭――そして、かすかに花の香りが混じっている。
祖母が好きだった白い百合の匂いだ。
床の軋む音を聞きながら、一歩、また一歩と進む。
居間に入ると、家具はすべてそのままだった。
壁には、祖母と美咲の幼い頃の写真。
ただ一枚、写真立てが倒れている。拾い上げると、ガラスがひび割れていて、祖母の隣に写っていた少女の顔だけが、紙ごと破り取られていた。
「……さゆり、おばちゃん……?」
美咲はつぶやいた。
確かに、写真の端にはあのときと同じ服の袖が映っている。
その瞬間、背後でコトン、と音がした。
誰もいないはずの部屋。
恐る恐る振り向くと、古い柱時計がひとりでに動き出していた。
針が止まっていたのに、今、ゆっくりと音を刻み始める。
――カチ、カチ、カチ。
不気味なほど、整ったリズム。
そして、振り子が止まるたび、何かの声が混ざっている。
「……まだ、いるの……?」
思わず後ずさる。
壁の鏡に映る自分の姿が、少し遅れて動いた気がした。
手を上げると、鏡の中の“自分”が微妙に遅れて反応する。
ほんの一瞬、別の誰かの顔が重なった。
それは、笑っていた。
優しい、けれどどこか歪んだ笑みで。
「おばあちゃん……これ、なに……?」
声に出しても、答える者はいない。
その代わりに、天井裏から“何か”が這うような音がした。
ギギギ……と木が鳴る。埃が舞い、光の筋に小さな粒が踊った。
音を追って階段を上がる。
一段踏むごとに、木の板が悲鳴をあげるように軋む。
2階の廊下に出ると、奥の部屋の扉が半開きになっていた。
中から、淡い光が漏れている。
ゆっくりと近づく。
扉の隙間から見えたのは、小さな椅子と、机の上のノート。
ノートには、震える文字がびっしりと書かれていた。
> 「かえして」
> 「もう一人のわたしを」
> 「ここにいるのに、誰も見てくれない」
ページをめくるたび、文字が乱れ、最後の方はただの黒い線で埋め尽くされていた。
インクが滲んで乾いていない。
まるで、ついさっきまで誰かがここにいたかのようだ。
そのとき、風もないのにカーテンがふわりと揺れた。
机の上の写真立てが、ひとりでに倒れる。
割れたガラスの下から、一枚の紙片が滑り出た。
そこには幼い美咲と祖母、そして見知らぬ少女の三人が写っていた。
少女の笑顔はどこか影のように薄く、背景に溶け込んでいる。
裏面には、祖母の筆跡で短く書かれていた。
> 「この子を、消してはいけない。」
その言葉を読んだ瞬間、背後で“何か”が呼吸した。
冷たい空気が首筋に触れる。
振り返ると、そこには――自分と同じ形をした影が、立っていた。
顔は見えない。
だけど、確かに笑っていた。
まるで、鏡の中から抜け出した“もうひとりの自分”のように。
――「かえして」
声が重なった。
部屋の明かりが一斉に消え、闇の中で、影だけがゆっくりと動く。
美咲の喉から声が出なかった。
何かが始まった。
あの夜よりも深く、もっと“内側”から蝕んでくる何かが。




