帰郷の窓
夜の街は、雨のあとでしっとりと光っていた。
美咲は傘を閉じ、アパートの鍵を差し込みながらため息をついた。
あれから、もう一年が経つ。
祖母の家で起きたあの出来事――窓の向こうから聞こえた囁き、見えない“何か”に追われた夜。
そのすべてを忘れたかった。
でも、忘れられるはずもなかった。
大学を卒業し、都内の小さな編集プロダクションに勤め始めたものの、眠るたびにあの家の窓が夢に出てくる。
古びた木枠、曇ったガラス、そしてその奥に、立っている影。
夢の中では決まって、あの声がする。
――「かえして」
その声が何を意味するのか、彼女はまだ知らない。
ただ、それが祖母に関係していることだけは、直感でわかっていた。
ある晩、帰宅してすぐ、スマホが震えた。
見覚えのない番号だった。
不安を抱きながら通話ボタンを押すと、落ち着いた男の声が聞こえた。
「藤崎美咲さんでいらっしゃいますか? 私、不動産管理会社の西原と申します」
「あの……どんなご用件でしょうか」
「おばあさまのお宅の件でして。以前、取り壊しの手続きをされたと記録にございますが……現地で確認したところ、家屋が、まだ存在しておりまして」
美咲の手が、無意識に震えた。
「……取り壊されたはずです」
「ええ、その通りです。記録上も更地です。しかし現地には、確かに建物が建っており――」
男は言葉を選ぶように一瞬間を置いた。
「中から、どなたかの声がするそうです」
通話の向こうで、遠く風が鳴った。
その音が、あの夜に聞いた“囁き声”に似ていた。
「まさか……」
彼女は電話を切ると同時に、心臓の鼓動が早くなった。
――また、始まった。
その晩、眠れなかった。
外では風一つない静かな夜なのに、窓がかすかに軋んでいる。
カーテン越しに見える影が、ゆっくりと揺れた。
トン……トン……と、何かがガラスを叩く。
夢じゃない。
息を殺してカーテンを少しだけ開けると、そこには誰もいなかった。
けれど、指先に冷たい何かが触れた。
ガラスの表面に、曇った跡が残っている。
まるで誰かが、外側から指で文字を書いたように。
「かえして」
心臓が跳ねた。
すぐにカーテンを閉め、震える手でスマホを握りしめる。
時間は午前二時。
なのに、誰かに見られているような気配が、部屋の隅々まで張りついて離れない。
その夜、美咲は一睡もできなかった。
翌朝、カーテンを開けた。
外は晴れていた。
けれどガラスの跡は、はっきりと残っている。
そこに指をそっと当てると、なぜか涙が出た。
「おばあちゃん……」
呟いた瞬間、背後の本棚から、古い封筒が滑り落ちた。
見覚えのない茶色い封筒。裏には、祖母の旧姓“藤崎澄江”の名が記されていた。
中には、鍵がひとつと、古い白黒写真。
祖母と、もう一人の少女が写っている。
写真の裏には、かすれた文字でこう書かれていた。
> 「あの子を見つけて。真実はまだ、あの家の中にある。」
胸の奥がざわめいた。
“あの子”とは、誰なのか。
祖母の顔の横で笑っている少女――見覚えがある。
幼い頃、よく遊んでくれた近所の“さゆりおばちゃん”に似ている気がした。
だが、彼女はずっと昔に行方不明になっている。
美咲は、机の上の鍵を握りしめた。
冷たく、どこか湿った感触。
まるで、長い間誰かの手の中にあったような――。
「……行くしかない」
声に出した瞬間、窓の外の風がざわりと揺れた。
まるで、誰かが頷いたように。
そして美咲は、再び故郷の町へと向かった。
夕暮れ、駅前に降り立つと、かすかに土と木の匂いがした。
懐かしくも重たい空気。
町は静まり返り、通りの人影もまばらだった。
まるで、時間ごと取り残されたように感じる。
坂道を登る途中、ふと足を止めた。
風の中で、かすかな声がした気がした。
――「みさき」
誰かが呼んだ。
背筋が冷たくなり、振り返る。
しかし、そこには誰もいない。
坂の先には、木々の隙間に見える家の影。
夕日を受けて、まるで燃えているように赤く染まっていた。
取り壊されたはずの祖母の家が、あの頃のまま、そこにあった。
その窓の向こうに、ひとつの白い影が立っていた。
まるで、美咲の帰りをずっと待っていたかのように。




