質問の多い美容室
夕方、とある小さな美容室。通りに面したガラス戸を控えめに開け、一人の男が、おどおどとした様子で中へ入ってきた。
「す、すみません。あの、予約とかしてないんですけど……これに、『この条件に合う方は予約不要』って書いてあったので……」
「ああ、どーも! はいはい、大丈夫ですよお。さあ、どうぞどうぞ、こちらの椅子にお掛けください!」
「あ、あ、ど、どうも……失礼します……」
「はーい、じゃあチラシをお預かりしますねえ。えーっと、お客様は男性、髪長め、二十代後半または三十代ですよね? ……はい、条件クリアです! 本日のお代は無料とさせていただきますね!」
「あ、はい……ありがとうございます……」
「それで、今日はどんな感じにされますか?」
「えっと、ガラッと変えたい感じで……」
「おお、いいですねえ! じゃあ、カットに加えてカラーもいっちゃいましょうかね?」
「は、はい……お願いします……」
「じゃあ、まずはシャンプーからですねえ。こちらへどうぞー!」
流れるような手の動きに導かれ、男はシャンプー台へと移動した。リクライニングの椅子に身を委ねると、温かいタオルが顔にふわりとかぶせられた。やがて、お湯が頭皮を優しく包み込んだ。緊張が少しほぐれたようで、男の口元に笑みが浮かんだ。
「お湯、熱くないですかー?」
「大丈夫です……」
「何かあったら、遠慮なく言ってくださいねえ。あ、お客様、お名前は?」
「あ、――です」
「――さんですね! 今日はお休みですか?」
「まあ、はい……」
「お仕事は?」
「いや、まあ、ネットでいろいろと……」
「へえー、そうなんですねえ。どの辺にお住まいなんですか?」
「え、商店街近くのアパートですけど……」
「そうなんですねえ。ああ、あの水色のアパートですかね?」
「いや、ベージュですけど……ははは……」
「はーい、オッケーです。あちらの椅子に移動していただいて……はい、どうも。じゃあ、カット始めていきますね」
「はい、お願いします……」
「趣味はなんですか?」
「え、ネットとか、自転車を走らせたりとか……」
「おー、自転車! いいですねえ。いつ走るんですか? 早朝? 夜?」
「夜、ですね……」
「へえー、どれくらいの距離を走るんですか?」
「え、まあ、ほどよく疲れるくらいまで……」
「なるほどー、プリンとゼリーならどちらが好きですか?」
「え、プリンですかね……」
「ストレス溜まったら何しますか?」
「いや……」
「はい?」
「聞きすぎじゃありません?」
「聞きすぎ……?」
「いや、めちゃくちゃ質問してくるじゃないですか」
「あー、ははは、すみませーん、これアンケートなんですよ」
「アンケート?」
「そうなんです。実は最近この町に引っ越してきたばかりでしてね。地域の皆さんと早く仲良くなりたくて、いろいろ聞いたり、会話の練習を兼ねてるんですよ」
「あー、だからチラシが掲示板のところにあったんですね」
「ええ、あちこちに置かせてもらってるんです。ぜひ、ご協力くださいませー」
「まあ、無料だし、いいですけど……」
「ありがとうございます! 朝はパン派ですか? ごはん派ですか?」
「パンですけど……」
「それで、ストレス溜まったときには何をしますか?」
「あー、まあ、だから自転車ですかね」
「和菓子と洋菓子、どっちが好きですか?」
「いや、とりあえず質問すればいいと思ってません……?」
「え?」
「いや、僕も会話が苦手なほうですけど、お兄さんもなかなかですよ」
「はははは、すみませーん。どうぞ、お付き合いください。お願いしますっ」
「まあ、いいですけど……こういうのって、髪に関することを聞くものじゃないですか?」
「あー、確かにそうですねえ。じゃあ、普段どんなケアされてますか?」
「まあ、特に何も。シャンプーだけですね」
「リンスはしますか?」
「いやー、しないですねえ。けど、そんなに傷んでないですよね?」
「何歳くらいの女性がタイプですか?」
「また急な……」
「年上が好み? それとも年下?」
「まあ、年下ですかね……」
「大学生くらい? 高校生?」
「いや、どちらかといえば、まあ若いほうが……」
「中学生に告白されたら、付き合っちゃいます?」
「ええぇ、へへへ……いや、なんでこの質問を掘り下げるんですか! 絶対違うでしょ!」
「ムラムラしたら我慢できないタイプ? それとも我慢強い?」
「いや、だから……」
「最近、誰かとエッチなことしました?」
「いや、初対面ですよ!? 何聞いてんですか!」
「最近、どんなことで性的に興奮しましたか?」
「だから、なんなんですか! 僕のこと狙ってるんですか!?」
「ああ、お兄さん、肩がすっごくがっしりしてるのねえ」
「ちょ、やめてくださいよ!」
「ははは! 冗談ですよお! はい、カット終わりです。カラーはどうされますか?」
「急にまとも……えっと、茶髪、いや、思い切って金髪、うーん、でもなあ……」
「ガラッと変えたいんですもんね。明るめの茶色にしておきますか?」
「あ、そうですね。それでお願いします」
「はーい、じゃあ、その前に軽くマッサージしますねえ」
「あ、はい、ああ、いい……」
「すみませんねえ、いろいろ聞いちゃって。リラックスしてもらいたかったんですよ」
「ああ、はい……」
「自転車が趣味っておっしゃっていましたけど、どの辺を走るんです?」
「んー、その日の気分ですかねえ……ああ、気持ちいい……」
「中学校の近くって走ったりします?」
「あー、ありますよお……」
「夜に?」
「ええ、はい……」
「十七日の夜は? ちょうど一週間前ですが」
「十七……まあ……いや、どうだったかな……」
「事件がありましたよね。女子中学生が帰宅途中に後ろから男に痴漢されたって」
「え……」
「その子の友達が少し離れたところから見てたらしいんです。自転車の男がすれ違いざまに胸を触って、でも勢いがあったのか、驚いたのか、その子後ろに転んじゃってね。頭を強く打って、今も意識が戻ってないんですよ」
「そ、それは……かわいそうですね……」
「犯人の特徴は、やや長めの髪、小太り、三十代くらいで……」
「そ、そうなんですか……」
「被害者、うちの娘なんですよ」
「えっ……?」
男がまぶたを開けると、鏡越しに美容師と目が合った。
その瞬間、美容師が口角を緩め、静かに言った。
「自首するか、切られるか、どちらがいいですか?」
鋏が鋭く光った。