9.アルカサーバの物語
子供の頃、イサークは暫くカディスにいたことがある。
父親は政府の役人で、ハバナで検閲長官という役職を務めていたが、ハバナでの職を失い、スペインに戻っていた。イサークはライプチヒ音楽院で勉強中であったが、父親の失職によりスペインに呼び戻され、カディスで暮らしていた。イサークは、家族の生活費を稼ぐため、港の酒場などでピアノを弾いて小銭を稼いでいた。当時十五歳である。
彼が六歳の時から、父親が各地を連れまわして演奏旅行を行っていたため、ピアノの天才少年として、イサーク・アルベニスの名はスペイン国内でそれなりに知られていた。なので、彼がピアノを弾きたいを言えば、二つ返事で弾かせてくれ、駄賃をくれる場所はいくらでもあったのである。
イサークが毎晩酒場でピアノを弾いていることを、父親は知っていたが、生活のために黙認していた。
そうした酒場のひとつ、「マドローニョス」は、一階は酒場だが、二階は売春宿になっていた。彼は昼間は二階の部屋の掃除などをして稼ぎ、夜は一階でピアノを弾いて稼いでいた。
イサークは生意気で口の減らない、思春期特有の実に扱いにくい子供であったが、宿の女達からは可愛がられていた。
その宿の女のひとりであるマリアは、イサークに時々、物語を聞かせてくれた。
◇
マリアの得意な話は「アルカサーバの守護天使」。
昔、グラナダ王国のアルハンブラ宮殿を守る「アルカサーバの砦」に、黒い翼を持った守護天使がいて、国を守った、という話だ。もっとも、最後はカスティーリャに砦を攻め落とされて終わるのだが。
マリアは、グラナダから流れて来たヒターノだという。昔からの言い伝えにある話だと云うが、もちろん大幅に彼女の脚色が加えられていた。
「ムハンマド五世の治世の時、コルドバの市場で、人に化けて市場を歩いていた女の悪魔が、酔った兵士に絡まれていた女を助けたの。でも、油断した隙に兵士は剣を抜いて悪魔に斬りかかった。それを避けるために、悪魔は女を抱えたまま、背中から黒い翼を出して、近くの建物の屋根に飛び移ってしまった。人が集まって来て、翼を見られてしまった悪魔は、そこから降りることが出来なくなってしまったの。」
マリアは、まるで見てきたかのように、コルドバの市場での一節を語る。
「そこへ通りかかったのが、五人の衛兵を引き連れた国王のムハンマド五世。王は悪魔に向かって『降りてこぬか。』って言ったの。『先程から見ていて、お前が悪い悪魔でないことはわかっている。市場の女を助けてくれた礼がしたい。王宮へ来ぬか?茶と蜂蜜とナツメヤシを振る舞おう。どうだ?』って。」
「そうして悪魔は、グラナダのアルハンブラ宮殿へ招かれた。王は悪魔の腕っぷしの強さと頭の良さを買って、悪魔を参謀として雇い、王宮の隣のアルカサーバの砦に住まわせたの。それ以来、不老不死の悪魔は、代々の王に参謀として仕えて来たわ。砦や王宮の中では、誰に憚ることも無く漆黒の大きな翼を背中から出したまま、気ままに暮らした。そして、あの手この手を使って国同士の争いの中をうまく立ちまわり、小さなグラナダ王国を守り、栄えさせたの。」
マリアの話は続く。
◇
イサークは、この娼婦らしからぬ知性を持ったマリアに、密かな恋心を抱いていた。
そしてある日、意を決して、恐らく自分よりは十歳ほど年上のマリアに、自らの恋心を告白した。
マリアは、困惑した少し悲し気な顔をして、イサークにこう告げたのだった。
「あたしはただの鏡。あんたの欲しいものが映ってるだけよ。」
◇
とまあ、これが僕の、人生初の告白と失恋だったわけさ。
「ふーん。」
ロシーナは、面白くなさそうな顔をしている。
そりゃあそうか。自分が出てこない夫の恋物語など、聞いていて面白いわけがない。
つまらない話をしてしまったな。
「でも、そのマリアって人、すごい人だと思う。」
どうして?
「『あたしはただの鏡』なんてセリフ、なかなか出てこないわよ。本当の知性をもった人だったのね。」
それは、僕もそう思う。
「黒翼の悪魔は不老不死だったんでしょ?そのマリアって人が、実はそうだったんじゃない?」
というと?
「アルカサーバの守護天使。」
ああ、そうかもね。そりゃあ振られるわけだ。
◇
アルベニスの初期の作品の中に、「朱色の塔」という曲がある。
ターレガの「アルハンブラの思い出」と同じく、アルハンブラ宮殿を題材にした曲だ。
ターレガが、王宮から小さな谷を挟んだ夏の離宮「ヘネラリーフェ」の泉を、静謐なトレモロで表現したのに対し、アルベニスは、王宮の隣にある、赤レンガで出来た「アルカサーバの砦」を描き、躍動的なリズムに乗せた物悲しくも勇壮な旋律で、その歴史に思いを馳せている。
もしかしたら「朱色の塔」は、アルベニスがマリアの話にインスパイアされて出来た曲だったのかも知れない。
◇
二人の旅は続く。
ロシーナも、少しずつだがこの乾いたアンダルシアの大地に、興味を持ち始めていた。
「アルハンブラ宮殿が見たいわ。」
そう言って、ロシーナが笑う。
◇
いよいよ、グラナダだ。