表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ラ・ベーガ  作者: 蘭鍾馗
8/21

8.アンダルシアへ

 パリから南スペインのアンダルシア地方への旅は、まずは鉄道から始まる。


 パリから鉄道でリヨンへ。そこからさらに南下して、丸二日かけてようやく港町マルセイユへ。

 そこからは先は、地中海をゆく船の旅だ。


 ◇


「そのまま汽車で行くのかと思ってたわ。」

 船のデッキで潮風に当たりながら、ロシーナが言う。


「フランスとスペインの間にはピレネー山脈があるからね。特に南側は山が海まで迫っているから、鉄道を通すのはなかなか難しい。かといって峠は汽車では超えられないし、トンネルを掘るには相手がちょっと大きすぎる。まあ、トンネルを掘れたとしても、トンネルの中に煙が充満して窒息してしまうんじゃないかな。」


「ふうん。そうなんだ。」


「それとね、スペインはまだフランス程鉄道が発達していないんだ。レールの幅も違うから直通で行ける路線もないしね。地形も山がちだから、とりあえず交通の便の一番いい港町まで船で行って、そこからなるべく山越えにならないように、平坦な道を辿って行くのが、結局は一番速いということになる。」


 デッキに立つロシーナは、なんだか不思議そうな顔をして、僕の話を聞いていた。

 長い船旅で、少し退屈したのかも知れないな。

 だが、その長い船旅も、あと少しで終わりだ。港町カディスの白い町並みが見えて来た。


 ◇


「海辺に白い建物が沢山集まった町が見えるだろう?あれがアンダルシア西端の港町、カディスだよ。」


「船はあそこの港に入るのね。きれいな町。」

「そうだ。カディスはあの見た目から、スペイン語でタシータ デ プラータ、つまり『銀の皿』と呼ばれるんだ。」

「確かに、銀のお皿みたい。」

「港を出て大西洋へと出発する船に、ヨーロッパが振っている白いハンカチ、なんていう言い方もある。」

「素敵ね。それ、グラナドスさんなんかが言いそう。」

「ところが、あいつは船が苦手でね。どうしても船に乗らなきゃいけなくなった時は、船室に籠って、港に着くまで出てこなくなるらしい。」

「船旅、似合いそうなのにね。」

「ははは、確かにね。」


 エンリケ・グラナドスは、アルベニスと同じカタルーニャ出身のピアニスト・作曲家である。

 アルベニスより七歳年下だったが、スペイン民族楽派の旗手としてアルベニスと並び称された。その作風は、アルベニスと同じくスペインの民族音楽を題材にとりながらも、よりロマンティックな色彩を強く帯びたものだった。


「まあ、これだけ大きな蒸気船は、そう簡単には沈みやしない。操船を誤って座礁するか、さもなければ戦争になって魚雷でも喰らうか、そんなことにでもならない限り沈まないんだが。グラナドスにもそう説明したことがあるけど、彼が言うには、デッキに立って波を見ていると、あの波の下がどうなっているのか、どうしても考えてしまうんだそうだ。」


 やがて、船は速度を落として港へ入る。

 

 今日は、港町カディスで一泊する。

 翌日から再び陸路の旅である。


 ◇



 ………………………………………



『あたしはただの鏡。あんたの欲しいものが映ってるだけよ。』



 ………………………………………



 真夜中に、突然目が覚めた。

 何か夢を見ていたと思うのだが、起きてすぐに忘れてしまった。


 手のひらに掬った水が、指の間からこぼれ落ちるように、ついさっきまで見ていた筈の夢の内容が、あっという間に思い出せなくなってしまう。あれは何故なのだろう。


 見慣れない部屋の様子を見ながら、ここは港町カディスの宿だったと思い出す。 

 ロシーナは隣で寝息を立てている。


 体調は大丈夫だ。体の痛みも、息苦しさもない。

 モレル医師からもらった薬が効いているのだろう。

 だが、体のむくみは一向にとれない。むしろ少しずつ悪化しているかも知れない。


「体のむくみは、薬ではとれないんだよ。」

 そういえば、モレル医師からは、こう言われていたのだった。


 いや、

 良くないことをあれこれと考えるのはよそう。


 部屋の窓を開けると、月が出ていた。

 港に停泊する船の、その向こうに見える暗い海に、月明かりが一筋の道をつくっていた。


 ロシーナの寝息が聞こえる。

 僕も、もうひと一寝入りしなければ。

 明日、途中で体調が悪化することがないように。


  ◇


 翌朝、二人は駅馬車でセビーリャへと向かった。

 そこから、今度は東へと向きを変え、シエラ・ネバーダの麓、グラナダを目指す。


 ◇


 カディスは、アルベニスが少年時代の一時期を過ごした土地だった。


 音楽学校の学費を稼ぐための演奏会も行ったことがある。

 ようやく職を得た父親に従いて、キューバのハバナへ渡ったのも、ここからだった。

 いろんな思い出がある。嫌なことも沢山あった。

 でも、とにかくここからいろんなことが始まったのだ。


 そうして、アンダルシアを去る時に、自分の魂の一部を、確かにここに置き忘れて来た。

 ここ十年ほど、そういう思いに駆られて仕方がなかった。

 でも、多忙な日々の中で、その想いはいつの間にか忘れ去られていた。


 あの日、ターレガがギターで弾いて見せた「グラナダ」は、それを思い出させてくれたのだ。

 そして、新しい音楽のための手掛かりを、僕にはっきりと示してくれた。


 今、やるべきことは、自らの原点に立ち返ること。

 そして、ピアノという楽器の上にしか築けない、新しい音楽を作り上げること。



 八月の陽は高い。

 イサーク・アルベニスは、今はまだそう信じていた。

 

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ