8.アンダルシアへ
パリから南スペインのアンダルシア地方への旅は、まずは鉄道から始まる。
パリから鉄道でリヨンへ。そこからさらに南下して、丸二日かけてようやく港町マルセイユへ。
そこからは先は、地中海をゆく船の旅だ。
◇
「そのまま汽車で行くのかと思ってたわ。」
船のデッキで潮風に当たりながら、ロシーナが言う。
「フランスとスペインの間にはピレネー山脈があるからね。特に南側は山が海まで迫っているから、鉄道を通すのはなかなか難しい。かといって峠は汽車では超えられないし、トンネルを掘るには相手がちょっと大きすぎる。まあ、トンネルを掘れたとしても、トンネルの中に煙が充満して窒息してしまうんじゃないかな。」
「ふうん。そうなんだ。」
「それとね、スペインはまだフランス程鉄道が発達していないんだ。レールの幅も違うから直通で行ける路線もないしね。地形も山がちだから、とりあえず交通の便の一番いい港町まで船で行って、そこからなるべく山越えにならないように、平坦な道を辿って行くのが、結局は一番速いということになる。」
デッキに立つロシーナは、なんだか不思議そうな顔をして、僕の話を聞いていた。
長い船旅で、少し退屈したのかも知れないな。
だが、その長い船旅も、あと少しで終わりだ。港町カディスの白い町並みが見えて来た。
◇
「海辺に白い建物が沢山集まった町が見えるだろう?あれがアンダルシア西端の港町、カディスだよ。」
「船はあそこの港に入るのね。きれいな町。」
「そうだ。カディスはあの見た目から、スペイン語でタシータ デ プラータ、つまり『銀の皿』と呼ばれるんだ。」
「確かに、銀のお皿みたい。」
「港を出て大西洋へと出発する船に、ヨーロッパが振っている白いハンカチ、なんていう言い方もある。」
「素敵ね。それ、グラナドスさんなんかが言いそう。」
「ところが、あいつは船が苦手でね。どうしても船に乗らなきゃいけなくなった時は、船室に籠って、港に着くまで出てこなくなるらしい。」
「船旅、似合いそうなのにね。」
「ははは、確かにね。」
エンリケ・グラナドスは、アルベニスと同じカタルーニャ出身のピアニスト・作曲家である。
アルベニスより七歳年下だったが、スペイン民族楽派の旗手としてアルベニスと並び称された。その作風は、アルベニスと同じくスペインの民族音楽を題材にとりながらも、よりロマンティックな色彩を強く帯びたものだった。
「まあ、これだけ大きな蒸気船は、そう簡単には沈みやしない。操船を誤って座礁するか、さもなければ戦争になって魚雷でも喰らうか、そんなことにでもならない限り沈まないんだが。グラナドスにもそう説明したことがあるけど、彼が言うには、デッキに立って波を見ていると、あの波の下がどうなっているのか、どうしても考えてしまうんだそうだ。」
やがて、船は速度を落として港へ入る。
今日は、港町カディスで一泊する。
翌日から再び陸路の旅である。
◇
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『あたしはただの鏡。あんたの欲しいものが映ってるだけよ。』
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真夜中に、突然目が覚めた。
何か夢を見ていたと思うのだが、起きてすぐに忘れてしまった。
手のひらに掬った水が、指の間からこぼれ落ちるように、ついさっきまで見ていた筈の夢の内容が、あっという間に思い出せなくなってしまう。あれは何故なのだろう。
見慣れない部屋の様子を見ながら、ここは港町カディスの宿だったと思い出す。
ロシーナは隣で寝息を立てている。
体調は大丈夫だ。体の痛みも、息苦しさもない。
モレル医師からもらった薬が効いているのだろう。
だが、体のむくみは一向にとれない。むしろ少しずつ悪化しているかも知れない。
「体のむくみは、薬ではとれないんだよ。」
そういえば、モレル医師からは、こう言われていたのだった。
いや、
良くないことをあれこれと考えるのはよそう。
部屋の窓を開けると、月が出ていた。
港に停泊する船の、その向こうに見える暗い海に、月明かりが一筋の道をつくっていた。
ロシーナの寝息が聞こえる。
僕も、もうひと一寝入りしなければ。
明日、途中で体調が悪化することがないように。
◇
翌朝、二人は駅馬車でセビーリャへと向かった。
そこから、今度は東へと向きを変え、シエラ・ネバーダの麓、グラナダを目指す。
◇
カディスは、アルベニスが少年時代の一時期を過ごした土地だった。
音楽学校の学費を稼ぐための演奏会も行ったことがある。
ようやく職を得た父親に従いて、キューバのハバナへ渡ったのも、ここからだった。
いろんな思い出がある。嫌なことも沢山あった。
でも、とにかくここからいろんなことが始まったのだ。
そうして、アンダルシアを去る時に、自分の魂の一部を、確かにここに置き忘れて来た。
ここ十年ほど、そういう思いに駆られて仕方がなかった。
でも、多忙な日々の中で、その想いはいつの間にか忘れ去られていた。
あの日、ターレガがギターで弾いて見せた「グラナダ」は、それを思い出させてくれたのだ。
そして、新しい音楽のための手掛かりを、僕にはっきりと示してくれた。
今、やるべきことは、自らの原点に立ち返ること。
そして、ピアノという楽器の上にしか築けない、新しい音楽を作り上げること。
八月の陽は高い。
イサーク・アルベニスは、今はまだそう信じていた。