7.ハーフペダルと影
「ロシーナ、君が帯同すること。それが条件だ。」
◇
モレル医師は、たった一つの条件を付けて、意外にもイサークのグラナダ行きを、あっさりと認めた。
「出発する日と行程が決まったら早めに教えてくれ。それに合わせて旅行中の分の薬を用意しておくから、取りに来てくれたまえ。」
ああ、とモレル医師が溜息をつく。
「どの道、僕が駄目だといっても、君は行くんだろう?」
「医者としては、正直許可したくない。だが、ターレガと会ったことで、君はグラナダへ行かなきゃならん理由を何か見つけてしまったんだろうな。だから、僕は医者としてではなく、一人の友人として、君の旅行を支援することにする。今なら、まだ体に大きな負担を掛けずに済むだろう。」
診察室を出ようとすると、モレル医師がまた声をかける。
「イサーク、アンダルシアの夏は暑いと聞いている。くれぐれも体調管理には気をつけたまえ。」
◇
帰り道、ロシーナはまた黙りこくるのかと思っていたら、今日は違った。
「二人で旅行するのって、何年ぶりかしら。」
僕ももう覚えていないくらいだな。
「今日は泣いてしまってごめんなさい。」
いいよ。逆に僕の方が心配かけてしまってごめんね。
ロシーナは、大きくため息をつくと、話し始めた。
「私ね、大変な人と結婚しちゃったなとは思っているけど、それは別に嫌じゃないの。貴方は今、作曲家としてはスペイン民族楽派の旗手で、しかも当代一の腕をもつピアニストなんだもの。だから、貴方の仕事がうまくいけば、私はそれが一番嬉しい。もちろん体のことは心配だけど、モレル先生がちゃんと診て下さるんだから、私はもうそれについては、余計な心配はしないことにしました。」
そう言いながら、ロシーナはやっぱり泣きそうな顔をするのだが。
「だから、グラナダへ付いていきます。お目付け役ですからね。」
わかった。よろしく頼むよロシーナ。
帰り道、今日もまた屋台のクレープを買おうか。
◇
アルベニスが教鞭をとる音楽学校のピアノ科では、定期的に実技試験が行われる。今日は、その実技試験に向けて、アルベニスが学生に個別のレッスンを授ける日だ。
「実技の曲は『コルドバ』を選んだのかね。いや光栄だな。」
「発表会聞きに行きました。なんてきれいな曲だろうと思って、すぐに楽譜を買ったんです。」
「ありがたいね。では、さっそく弾いて見せてくれ。」
学生が作曲者アルベニスの前で「コルドバ」を弾く。ちょっと緊張しているようだ。
まずは一度、最後まで通しで聴いてみる。
「うん、全体にちょっと音が響きすぎかな。ペダルを使う箇所を絞って、少しメリハリをつけてみよう。」
「わかりました。でも、どうやってメリハリを付けたら良いですか。」
うん、これレッスンで良く聞かれるんだよな、そう思いながらアルベニスが答える。
「ちょっと長めの曲だからね。音を響かせる所とそうでない所を、ちゃんと仕分けして考えた方がいい。でも、それをどうやるか、君の中でなかなか考えがまとまらないのだろう?」
「そうなんです。」
「この曲にはね、物語があるんだ。それを今から君に説明しよう。」
アルベニスは、座っていた椅子から立ち上がって、両手を広げた。
◇
「君の目の前に、古都コルドバの街がある。そう思ってくれ。」
「コルドバは、古いイスラム寺院なんかが残る街だ。イベリア半島をイスラム教徒が支配していた時代、コルドバは後ウマイヤ朝というイスラム教国の首都だった。今では想像できないかも知れないが、昔はヨーロッパ人よりも彼らの方が文化・文明が進んでいた。その当時はイスラム教徒だけでなく、ユダヤ教徒やキリスト教徒も、皆、差別なくこの町で一緒に暮らし、大いに栄えていたんだ。」
この人はいきなり何の話を始めるのだろう、と思いながら、学生はアルベニスの話を聞いていた。
「朝、コルドバの城壁の門が開く。」
そう言いながら、アルベニスは立ったまま、「コルドバ」の冒頭の一節を弾いて見せた。
「それから、朝の鐘が鳴るんだ。」
鐘を模した一節を弾く。
「そして、コルドバの一日が始まるんだよ。市場が開き、街の喧騒が始まる。」
◇
アルベニスの話は続く。
学生はこの曲に込められた物語を知り、彼なりに理解した。
◇
「うん、大分良くなったね。でも、音が少し硬いな。大理石のような青い音だ。」
硬い音?大理石のような?青い?
「ペダルの使い方にメリハリをつけて、和音の響きはだいぶ良くなったが、音をもう少し暖かい感じにしたいな。」
そんなことが出来るんですか?
「ハーフペダルを使うんだよ。」
「ピアノのペダルは、和音の響きをコントロールするだけじゃない。ピアノの音色を変えることもできる。覚えておくといいよ。ところで君の頭の中に、コルドバの景色はまだ見えているかね?」
見えています。
「では、その景色を思い浮かべたままにしておいてくれ。曲の後半の所のこの箇所を、ハーフペダルの踏み方を変えて弾いてみるよ。ちょうど夕方の鐘が鳴って、最初のテーマが繰り返される所だ。注目すべきは、影の長さだ。」
影、ですか?
「そうだよ。」
アルベニスは、二通りのハーフペダルで弾いて見せた。
「二番目の方が、影が長くなっただろう。」
なりました!すごい。
「『コルドバ』は物語を持った曲だ。君はこのピアノを使って、聴衆の頭の中にその物語を見せないといけない。だから、曲の物語を理解すること、そしてその物語の景色を君なりに作り上げることが大事だ。では、今度は君がやってみようか。」
◇
翌日から、アルベニスはグラナダ行きの準備を始めた。
八月。未だ夏ではあったが、陽は短くなり始めていた。