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ラ・ベーガ  作者: 蘭鍾馗
6/21

6.悪化

「ちょっと待っててくれ。」


 ◇


 モレル医師が立ち上がり、診察室の隅にある小さな台を持って来ようとする。


「手伝いますよ」

「君は患者だ、何もせんでいい。いいから座っとれ。」

 モレル医師は、少しだけ不機嫌そうな顔をして、小さな台を持って戻って来た。


 イサークが座る椅子の前に台を置く。


「イサーク。ズボンの裾をまくって、この台の上に足を載せてくれ。両足ともだ。」

 言われた通りにすると、モレル医師は、やおらイサークの両方のふくらはぎを親指で強く押す。そしてゆっくりと十数えて手を離した。


「見ろ。」

 両足についた親指の跡が、はっきりと残っている。そして、それは極めてゆっくりと元に戻った。


「君は『最近少し太った』と言ったが、それは違うぞ。太って脂肪がついただけなら、指で押してもこうはならない。これは脂肪ではなく、水だ。」

「君のそれは、体がむくんでいるんだ。体に余計な水分が溜まっているせいで太ってみえるだけだ。これは腎臓の機能が低下して、本来尿になって排出されなければならない水が、体の中にとどまっているせいだ。」


 それから医師は、端的に結論を述べた。

「つまり、君の腎臓病は悪化してきている。」


 ◇


 それを聞いて、付き添いで来ていたロシーナが泣いてしまった。


 彼女は、いつもモレル医師の診察の後、機嫌が悪くなって黙り込んでしまう。それは、既に説明を受けて理解していることではあったが、イサークの病気が治らないものであるという事実を、診察のたびに再認識させられていたからだ。


 そうやって、診察のたびに少しずつ溜め込んでいた不安が、今日、涙になって溢れ出てしまった。


「ロシーナ、泣かないでくれ。僕の説明の仕方が悪かった。」

 モレル医師が狼狽してロシーナに声をかける。

「前に治らないとは言ったが、今すぐ死ぬような病気じゃない。節制して体を大事にしながら生活すれば、天寿を全うすることも出来るかもしれない。」


「モレル先生、私、この間、イサークにウイスキーを飲ませてしまったの。」

「ターレガさんが来ていたから、ちょっとだけならいいかと思って、二人にお酒を出してしまった。私のせいです。私が悪いの。」

「大丈夫だ。一度や二度の飲酒で症状が悪化する訳ではないんだよ。それに、ちょっとだったのだろう?」

「小さなグラスで、一杯だけ。」

「なら大丈夫だよ。だからもう、これ以上泣いてはいかん。」


 ◇


 モレル医師の言葉で、ロシーナは少し落ち着きを取り戻した。

 ほっとすると同時に、モレル医師は、ついさっきロシーナが言った言葉を思い出した。


「ターレガが来ていたって?」

「そうなんですよ。」


 ◇


 モレル医師が、珍しく珈琲を淹れてくれた。

 もちろんロシーナを落ち着かせるためだが、ターレガの訪問の話も聞きたかった。


「イサーク、もう足は元に戻していいぞ。」


 ◇


「彼の大好物の揚げ菓子をたっぷり用意していたんですが、ターレガも僕らへの土産に、同じ店の同じ揚げ菓子を買って来ていた。三人で大笑いしましたよ。家にある一番大きな皿に盛ってもこぼれそうなくらいでした。」

「いや、パリに来ていたのは知らなかったな。知っていれば演奏会を聴きに行ったものを。」


 モレル医師もターレガのギターが好きだ。だが、彼の演奏会の切符はなかなか手に入らない。そもそも、演奏会の規模が小さいからだ。それは、「音量が小さい」というギターの欠点が大きな理由だ。

 ギターの音を音楽として届けられる範囲は、普通はせいぜい十メートル四方だろう。音響の良いホールで弾いたとしても、全ての観客に美しいギターの音色を届けるには、観客数は百人くらいが精一杯だ。


「彼も、音が小さいという欠点は良く承知しています。でも、それはギターの魅力でもあるんです。気心の知れた仲間内で、小さな部屋で聴かせることを彼はとても好みます。」

「僕なんかはちょっと羨ましいですね。なにしろ僕の相手はピアノですから、背中に背負って行って、仲間内で弾いて見せるという訳にはいかない。あの三本足の怪物の所へ、僕の方から出向いて行かなきゃいけない。」


 モレル医師が笑う。ロシーナも笑う。


「で、彼はどんな曲を弾いたのかね。」

「アラビア風奇想曲、ラグリマ、アデリータにマリエッタ、あとはショパンの曲をギターに編曲したものとか。」

「ほう、そうか。」


「それから、アルハンブラの思い出。」

「それは知らないな。」

「去年作ったばかりと言っていました。トレモロ奏法の曲でしたよ。親指でアルペジオを弾きながら、人差し指と中指、薬指で同じ弦を鳴らして、トレモロのメロディーを重ねるんです。」

「なんと。そんなことが出来るのか。」

「僕も驚きましたね。これはピアノでは真似が出来ない。ギターならではの奏法です。」


 イサークから奏法の説明を聞いて、モレル医師が、右手の指で動きをまねてみる。

「そうか。四本の指を回転させるように弾くんだな。その奏法は、人の指の仕組みから考えても、理にかなっているよ。」


 話が続く。珈琲が冷めてゆく。

 モレル医師がお代わりを淹れてくれた。


 ◇


「それで、最後はどんな曲だったのかね。」


 イサークは、ここで少し間を置いて言った。

「グラナダでした。僕が昔作った曲ですよ。ギター独奏のために編曲されたそれは、僕が想像したよりもはるかに美しかった。」

「そうか。」


 ターレガの訪問の話はここで終わるのだが、イサークはここで、モレル医師に相談を持ち掛けた。


「モレル先生。」

「なんだね。」

 イサークが急に真顔になったので、モレル医師は少し驚いた。

「スペインへ旅行に行きたいと思っています。グラナダへ行きたい。この体で大丈夫でしょうか。」



 イサークは、何かの覚悟をしたような顔をしていた。


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