5.ターレガの訪問
「ターレガがパリに来るらしい。」
◇
フランシスコ ターレガは、当代一のギタリストで作曲家だ。
当時、歌の伴奏くらいしか能がないと思われていたこの楽器に魂を吹き込み、独奏楽器としての地位を確立した、近代クラシックギターの父とも云うべき音楽家である。
アルベニスとは以前から親交があった。そのターレガが、近々演奏旅行でパリを訪れるという。そして、なかなかない機会なので、一度アルベニスを訪ねたいという内容の手紙が来たのだった。
「うちに来てくれるそうだ。世界一のギターが聴けるぞ。」
「まあ。それは大変。」
ロシーナの顔がほころぶ。彼女もターレガのギターが好きだ。
「『アラビア風奇想曲』が聴きたいわ。」
◇
イサーク・アルベニスは皮肉屋だ。
心優しく、ユーモアを解し、多くの人から愛される人物ではあったが、これが何かのきっかけで誰かと議論になったりすると、相手を徹底的に追い詰めてしまう悪い癖があった。また、気に入らない相手には、なかなか辛辣な皮肉を言う。なので、彼を嫌う人もそれなりに居たのである。
ところが、ターレガに対しては、彼はそんな態度をとったことは一度もない。同じスペイン民族楽派の音楽家として、議論を交わしたこともきっとあったはずだが、ターレガとは喧嘩腰の議論をすることはなかった。彼はピアノとともにギターという楽器を愛しており、それをたった一人で芸術の高みにまで持ち上げたターレガを、ひとりの音楽家として尊敬していたのである。
◇
「揚げ菓子を沢山用意しよう。彼の好物だ。」
「わかったわ。市場へ行って買ってきますね。」
…………………………
「こんにちは。忙しい所を申し訳ないね、イサーク。」
ターレガがアルベニスの自宅を訪れたのは、午後三時を少し回った頃だった。
「二人で待ちかねていましたよ!どうぞ中へ。」
イサークとロシーナが揃って出迎える。
◇
「何年ぶりだろうね。君に会うのは。」
「僕ももう覚えていないけど、大分久しぶりかな。」
「それでね、これなんだけど。」
ターレガが荷物から紙袋を取り出す。
「こんなものでは、とてもお招き頂いたお礼にはならないんだが、途中、市場を通りかかった時に見つけてね。あんまりおいしそうなものだったから、ついね、買ってしまった。」
揚げ菓子だった。
イサークとロシーナが顔を見合わせて笑う。
「いや、実は僕らも同じものを用意していたんですよ。ねえロシーナ。」
「ええ、イサークから、貴方の大好物だと伺っていたので。」
「なんということだ。いや、これは失礼。」
「いえ、私もこれ大好きなの。嬉しいですわ。では、すぐにお茶にしましょうね。」
◇
スペイン音楽とは何か。
その現在地はどのあたりか。
そして我々は、これから何を為すべきか。
ターレガさんとイサークは、最初そんな話をしていました。
揚げ菓子を食べながら。
でも、そんなに長くは続かなかった。
私が、「ターレガさんのギターが聴きたい」と言ったから。
◇
「では、ロシーナさんに。」
ターレガさんがそう言って弾き始めたのは、「アラビア風奇想曲」だった。
曲は、幻想的なハーモニクスの和音で突然始まる。そしてアラビア風のパッセージが。
歩くような二拍子のリズムの上に流れる、月夜を思わせる物憂げな旋律。
絵のように美しい、私の大好きな曲。
「あとね、去年作ったばかりの曲なんだけど。」
ターレガさんが次に弾いてくれたのは、「アルハンブラの思い出」という曲でした。
親指で鳴らす分散和音の上に、三本の指で滑るように奏でられるトレモロの旋律。
ああ、これは泉だ。ギターのトレモロは直感的に水を想起させました。
初めて聴くけれど、どこかで聴いたような懐かしさを感じる、不思議な旋律。
ギターって、こんなことが出来るんだ。
イサークは、ソファから身を乗り出して聴いていました。
◇
その後は、またスペイン音楽の話。
お酒も少し交えながらの音楽談義。あんなに沢山あった揚げ菓子がなくなりそう。
モレル先生、ごめんなさい。少しだけどイサークに吞ませてしまいました。
◇
その日の晩、ターレガさんが最後に弾いてくれたのは、イサークが昔作った曲。
「グラナダ」でした。
「昔、君の演奏で聴いたこのセレナータが僕は忘れられなくて、ピアノの譜面を取り寄せて、ギターのために編曲してみたんだ。まあ、自分でもうまく出来たと思うよ。」
…………………………
翌日、マドリードへ戻るターレガさんをお見送りして、私達は自宅に戻りました。
イサーク、なんだか元気がない。
ターレガさんとまだ話し足りなかったのかしら、そう思いました。
そうじゃなかった。
イサークはこう言ったの。
「僕は今まで、何をやっていたのかな。」
何のこと?
「グラナダだよ。ギターに編曲されたあの曲が、あんなに美しいなんて。僕の想像を超えていたよ。」
確かに綺麗でした。グラナダの町並みが、突然目の前に現れたみたいだったわ。
「あの曲は、最初からギターの上に書かれるべきだった。」
イサークはそう言ったの。
「ギターは絵画だよ。奥行はないが、極彩色の絵具を塗り重ねることができる。それに比べて、ピアノの音は奥行きはあるが色彩に乏しい。青白い大理石の彫刻のようなものだ。僕が今まで作っていた曲は、本来ピアノの上にあるべき音楽じゃない。僕はもっと、ピアノでしか出来ない、ピアノの上にこそ花開くような音楽を作らなければいけない。夕べ、ようやくそれが分かったんだ。」
◇
ロシーナが「カタルーニャ」を弾いたあの日に、作曲家アルベニスの上に降りて来た「何か」の萌芽は、この日、彼の中ではっきりと自覚されることになった。