3.座学
「ピアノ科の諸君、本日これからの時間は座学であります。」
アルベニスが教鞭を執るパリの音楽学校、ピアノ科の授業である。
さて、アルベニス先生が、教壇に立って授業を始める。
◇
「教壇の脇にはピアノがあるが、今日は僕は一切ピアノを弾かないことを約束しよう。ほとんど雑談のようになるかも知れないが、これも必要な授業のひとつだと思ってくれ給え。」
「かつて僕が師事したフェリペ・ペドレル先生は、『とにかく本を読め』とおっしゃった。ピアノと作曲については、ほとんど大したことは教えてくれなかったがね。まあでも、僕は教えに従って本を読んだ。最初はピアノの技法や作曲理論なんかの本を集めて読んだ。もちろん大いに役に立ったよ。でも、読み始めてから一年くらいで、僕はすっかり飽きてしまった。」
生徒たちから笑いが起こる。
彼の座学は、いつもだいたいこんな感じで始まるのだ。
「代わりに読み始めたのが、歴史の本だった。もちろん最初は音楽史から読み始めた。それが順番というものだ。でも、これは半年で飽きたかな。バッハ以前から初めて、モーツァルト辺りで力尽きた。」
「その後何を読み始めたかというと、『音楽』のつかないただの歴史だ。これは面白かった。だいたい人間というのは勝手なもので、さしあたって自分がやらなきゃいけないことよりも、それから外れた所の物事に興味を持ってしまうものだ。君たちも覚えがあるだろう?」
あります、の声。
「それで、また図書館で歴史の本を読み漁った。ギリシャ・ローマ時代から始めた。僕はどうも、こういうものは一番最初から辿らないと気が済まない質のようだ。それからだんだんと時代を下ってゆくと、16世紀頃から、歴史は、突然ヨーロッパ史から世界史になっていく。新大陸の発見が契機だ。」
◇
「そうやって世界史の本を読んでいるうちに、僕は、逆に自分の生まれ故郷の歴史が気になり始めた。スペインの歴史だ。で、本を探して読んでみると、これが面白かった。」
「イベリア半島に最初にやってきて文明を築いたのは、アフリカから渡って来たフェニキア人だ。その次はローマ人がやってきた。その後ゲルマン民族の大移動で民族の玉突きが始まり、ゲルマン系の西ゴート王国が出来たんだ。でもその後、アフリカ大陸からやってきたイスラム勢力に蹴散らされて、半島はイスラム国家が支配した。その後カスティーリャがレコンキスタでイスラム国家を滅ぼし、まあこうして二転三転した挙句に、今のスペインができた、ということが分かった。」
先生、それピアノと何か関係があるんですか?
生徒のひとりが質問を投げる。
「退屈したかね?実は関係があるんだよ。こうやって何度も違う民族が入り込んできたことで、スペインには様々な文化が持ち込まれ、それが融合した混血文化のようなものが出来上がった。それは音楽も同じだ。古いスペインの音楽には、フリギア調やエオリア調が混ざったような、長調でも短調でもない旋法が良く用いられる。さらにイスラム音楽の影響もみられる。こうした古い時代の生き残りのような旋法や、それを用いた音楽が、今、音楽の世界で再評価されつつある。その流れのひとつが、ペドレル先生が提唱する『スペイン民族楽派』だ。僕もその一人と言われるがね。」
「となれば、僕はまんまとペドレル先生にはめられたようなものだね。『本を読め』と言われて、素直に読んだ結果がこれだ。」
生徒たちから笑いが起こる。
◇
「今は19世紀の末だ。もうすぐ新しい世紀がやって来る。産業革命以降、いろんなものが蒸気機関で動かせるようになった。今はもう蒸気機関車が当たり前のように走っている。時代はここで立ち止まったりはしないだろう。これからまだまだ大きな進歩を遂げるはずだ。音楽だってそうだ。新しい音楽が次々に生まれつつある。その一方で、フリギア調のような古いものが見直される流れもある。アジアやアフリカの音楽を取り入れようという動きもある。こうした流れに君たちはこれからついてゆかねばならない。」
「そんな君たちに私からのアドバイスだ。『とにかく本を読め』。」
生徒たちから、また笑いが起こる。
◇
講義室の窓の外には、青空が広がっている。
その青空のどこかに、雲雀がいる。