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ラ・ベーガ  作者: 蘭鍾馗


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20/21

20.青空

「お待ちしていました。どうぞ中へ。」


 ◇


 イサークの長女、ラウラが、主のいなくなったイサークの自宅に、イサークの高弟だったデオダ・ド・セヴラックを招き入れる。家の中には、ロシーナとその子供たちがいた。他にも、モレル医師など、生前イサークと関係が深かった人達も招かれていた。


 ラウラがセヴラックに依頼していた、イサークの絶筆「ナバーラ」の補筆版が出来上がり、今日、セヴラックを招いて、身内だけのささやかな初演が行われることになったのだ。


 ◇


「これが補筆版の楽譜です。音楽学校スコラ・カントゥルムの出版部が出版してくれることになりました。」


 ロシーナが受け取り、楽譜を開く。


「ありがとうございます。ああ、最後の曲は、ホタだったのね。」

「そうです。とても明るくて雄大な曲ですよ。アルベニス先生がどうしてこれをイベリアに入れなかったのか、私は今でも不思議に思っています。本当にあと少しの所で筆を止めてしまった。完成させられたはずなのに。」



「ホタ」は、スペインの民族舞踊で、スペイン北東部のアラゴン地方が発祥と言われ、そこからスペイン各地に伝わったものだ。地域によりスタイルに若干の違いはあるが、基本は三拍子の明るく軽快な舞曲である。

 フラメンコの源流とも言われるこの舞曲は、特にスペイン東北部で良く踊られ、アルベニスの故郷カタルーニャを象徴する舞曲でもある。そのため、彼は、このホタの形式を用いて曲を作ることを好んだ。


 「ナバーラ」は、当初は、彼の遺作となった「組曲イベリア」の最後を飾る曲として作られていたのだが、完成間際になって、彼は「通俗的でイベリアにふさわしくない」との理由をつけて、突然他の曲に差し替えてしまった。

 

 そういう経緯があって、「ナバーラ」は、アルベニスの死後、暫く未完成のままで放置されていた。

 その後、長女のラウラが、彼の机から未完の楽譜を発見し、セヴラックに補筆を依頼したのだった。



 ◇



 ロシーナが「補筆版ナバーラ」の譜面を読む。

「難しそう。これは、とても私には無理だわ。」


「ここから先が、私が加筆した部分になります。」

 セヴラックが、自分の加筆部分を指で示す。


 加筆部分は、最後の二十六小節。


「弾いていたら、そのまま誘われるように手が動いて、絶筆の箇所を超えて、加筆部分が出来上がりました。譜面に書いてから、いくらか推敲はしましたが、アルベニス先生なら、きっとこう終わらせるだろうと思ったことを、私は、そのまま書いただけですよ。」


「ありがとうございます、セヴラックさん。イサークはああいう人でしたから、今頃天国から色々と文句を言っているかも知れませんけど、でもきっと、あなたには感謝していると思います。」



 ◇



 イサーク・アルベニスの作品が、このようなささやかな席で初演されるのは、これが最初で最後のことだろう。


 セヴラックが、イサークが愛用したピアノの前に座る。

 ラウラが譜面を広げて譜面台に置き、譜面をめくるために、演奏者の傍らに立つ。

 演奏の準備が整った。


「では、始めます。曲名は『ナバーラ』です。」


 ◆


 セヴラックが、両手を静かに鍵盤の上に下ろす。

 一瞬の沈黙の、その後。



  !……! !……! !……! 

  !……! !……! !……!



 右手と左手で、交互に打ち下ろされる十二回の和音。明るく強烈なフォルテシモで曲は始まる。

 その後、すぐにホタのリズムが現れ、それに乗せて朗々と歌われる主題。


 主題は、少しずつ変化しながら歌い継がれ、やがて新たな旋律が現れる。

 音楽の勢いは止まらない。そのまま空へ舞い上がるように展開してゆく。


 展開の果てに、音楽は舞い上がった空の上で突然立ち止まる。


 そこから、中間部のコプラが歌われる。

 高音の短二度が煌めく。時折ホタのリズムが現れては、また何度も歌と響き合う。


 そして、再び最初の主題が現れ、ホタのリズムに乗せて、また朗々と歌われる。

 そのまま、音楽は再び地上に戻ることなく、青空の中へと消えてゆくようにして、終わる。


 ◆



 演奏の後、お茶と、イサークが好きだった、ロシーナ手製の山桃マドローニョスのパイがふるまわれた。


「素晴らしい演奏でした。イサークが元気だった頃のピアノを聴いているみたいだったわ。」

「ありがとうございます、ロシーナさん。」


 紅茶を一口飲んで、ロシーナは話を続けた。


「セヴラックさん、私ね、イサークがこの曲を書くのを途中でやめた理由が、ちょっと分かったかも知れない。」


「えっ?」


 ロシーナの思いがけない言葉に、思わずセヴラックが聞き返す。


「雲一つない青空を見上げているみたいな曲。でも、曲はそのまま空へ上って行って、帰って来なくなった。曲を作りながらイサークは、多分、空を見上げているんじゃなくて、空の上から見下ろしている自分に気づいてしまったんじゃないかと思うの。」


 この明るく雄大な曲の中に、たった今見た景色を、ロシーナは語りはじめた。

 セヴラックは、それを大きな驚きとともに聞いていた。


「そこから見える景色の中に、彼はもういないの。だから、これはお別れの曲になってしまう。イサークはそれに気づいて、この曲を完成させたくないと思ったんじゃないかしら。」


「あの人、そういう所があったのよね。」


 ◇


 セヴラックはその後、パリを離れ、故郷の南仏・ラングドックへと帰った。


 故郷のラングドックをテーマにしたピアノ曲や歌曲等を作曲し、ドビュッシー等から高く評価されたが、その後病を得て、アルベニスの死から十二年後の一九二一年、奇しくもアルベニスと同じ四十八歳の若さでこの世を去る。


 ◇


「ナバーラ」は、その後、アルベニスの晩年の作品の中でも、特に高い人気を得ることとなった。


 まるで「組曲イベリア」のアンコールピースのようなこの佳曲は、今も「十三番目のイベリア」のように、イベリアの後に続けて演奏されることがある。


 彼が自らの運命を見てからの、最期の十二年間の輝きを映したようなこの曲は、こうして後世の演奏家達の手によって、「組曲イベリア」の最後に、花を手向けるかのように、そっと添えられるようになったのである。




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