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ラ・ベーガ  作者: 蘭鍾馗
2/21

2.モレル医師の診察



  

  陽は

  思いの外傾いていた


  城壁の影が長く伸びていた

  夏の終わり

  午後の太陽はもはやそれほど高くはない


  夕方の風が吹き始めた

  風は糸杉の梢を揺らし

  木々の葉を裏返しながら渡って行く



 


 

 ここはどこだ?

 見覚えがある気がするのだが、それがどこなのか思い出せない。


『あたしはただの鏡よ。あんたの欲しいものが映ってるだけ。』

 薄手の黒い服を着た見知らぬ女が、私の前に居て、私の目を見ながらそう言うのだ。


『欲しいものがわからないの?じゃあ、探しに行かなきゃね。』


 …………………………


 


「お目覚めになりましたか?」


 妻のロシーナの声がした。

 夢を見ていたのだ。


「ああ、おはようロシーナ。」

 そう言ってベッドから体を起こそうとすると、突然右肩に激痛が走った。

 頭も痛い。


 ああそうだ。

 夕べはセヴラックがピアノ科の助手になった祝いで、皆でバルに呑みに行ったのだ。

 少し飲み過ぎたな。頭が痛いのはそのせいか。

 だが、右肩が痛いのは何故だ?


「どうしたわけか、肩が痛いんだが。」


 右肩をかばうように半身を起こし、肩をさすっていると、ロシーナが言った。

「………肩が痛い理由を知りたいですか?」


 君は知っているんだね。

「セヴラックさんから聞きました。」



 ◇



 夕べの一件について、ロシーナから説明を聞く。

 説明を聞くうちに、僕もだんだんと思い出してきた。


 そう。音楽学校の近くのバルで吞んでいたのだ。

 

 そのうちに、バルの奥にピアノがあるのを見つけた。

 弾いていいか?と店の主人に尋ねると、

 アルベニス先生に弾いていただけるなんて光栄ですよ、と快諾してくれた。

 そこで僕は、ちょっとした芸を披露しようと思いついたのだ。

 若い頃、キューバで演奏旅行をしていた時に覚えたいたずらだ。


 まず、ピアノの前の椅子に座る。

 ただし反対向きに。

 そして、両手を後ろに回し、交差させて鍵盤の上に置く。

 この姿勢で、その土地の流行り歌なんかを即興で弾いて見せると、大いに受けた。

 さて、夕べも同じことをやろうとしたのだが………



「何を弾いたの?」

「プエルタ・デ・ティエラ。」

「え?」


 若い頃に私が作った曲だ。派手だが特に難しくはない。

 ただし、冒頭にちょっと長めのグリッサンドがある。


「選曲ミスだった。それは認めよう。」


 やっぱりあの姿勢でグリッサンドは無茶だった。酒も入っていたことだし。

 失敗して椅子から転げ落ちた僕は、右肩をバルの床にしこたま打ち付けたのだった。


 ロシーナによれば、その後、セヴラックと学生の一人が、僕を家まで送り届けてくれたのだそうだ。

 ああ、セヴラックには悪いことをしたな。


「選曲ミスとか、そういう問題じゃありません。」

 ロシーナがようやく笑う。


 つまらないことで心配をかけたね。

 ごめん。


「そういえば、今日は診察の日でしょ。モレル先生の所へ行って、お薬を頂かないと。」


 そうだった。行かなきゃね。

 ついでに肩も診てもらうか。



 ◇



「イサーク。君はまだ酒を飲んでいるな。」


 かかりつけのロベール・モレル医師が、いつもの苦虫を嚙みつぶしたような顔で言う。


「前にも説明したと思うが、君はだいぶ前から腎臓が弱っている。それと酒のせいで肝臓も大きくなっとる。肝臓が弱ると腎臓にも影響を与えるんだ。酒は適量ならいいという医者もおるが、僕はそうは思わん。今のままでは長生きする保証はできん。とりあえず酒は控えてくれ。」


 まあしかし、付き合いもあって、酒を完全にやめるのは難しいんですよ。

「そうかも知れんが、二日酔いするほど飲まんでもいいだろう。」

 まあ、そうですね。

「あとは何だ。肩を痛めたって?」

 

 肩を痛めた理由を説明する。

 モレル医師があきれ顔で聞いている。

 ロシーナは、横ではらはらしながら、同じ話を聞いている。



 ◇



「では腎臓の薬だ。肩のほうも湿布を出しておくよ。家でロシーナに貼ってもらうといい。」


 ありがとうございます。

 モレル医師に礼を言って立ち上がり、診察室から出ようとする。


「イサーク。」


 帰り際になってもう一度呼び止めるのは、この人の悪い癖だ。


「僕は君の作る曲が好きでね。なんというか、雨上がりの土の匂いがする。君の故郷スペインには一度も行ったことがないが、君の曲を聴くと、何故か懐かしさのような感情を覚えるんだ。だから、君には体を大事にして、長く活躍してもらいたい。これは医者としてではなく、君のピアノを愛する者としてのお願いだよ。」


 わかりました。



 ◇



 帰り道、ロシーナは押し黙ったままだった。

 ロシーナの機嫌を取りたくて、僕は道端の屋台でクレープを買った。


 もうじき、通りの向こうに夕日が沈む。

 今日が終わる。


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