2.モレル医師の診察
陽は
思いの外傾いていた
城壁の影が長く伸びていた
夏の終わり
午後の太陽はもはやそれほど高くはない
夕方の風が吹き始めた
風は糸杉の梢を揺らし
木々の葉を裏返しながら渡って行く
ここはどこだ?
見覚えがある気がするのだが、それがどこなのか思い出せない。
『あたしはただの鏡よ。あんたの欲しいものが映ってるだけ。』
薄手の黒い服を着た見知らぬ女が、私の前に居て、私の目を見ながらそう言うのだ。
『欲しいものがわからないの?じゃあ、探しに行かなきゃね。』
…………………………
「お目覚めになりましたか?」
妻のロシーナの声がした。
夢を見ていたのだ。
「ああ、おはようロシーナ。」
そう言ってベッドから体を起こそうとすると、突然右肩に激痛が走った。
頭も痛い。
ああそうだ。
夕べはセヴラックがピアノ科の助手になった祝いで、皆でバルに呑みに行ったのだ。
少し飲み過ぎたな。頭が痛いのはそのせいか。
だが、右肩が痛いのは何故だ?
「どうしたわけか、肩が痛いんだが。」
右肩をかばうように半身を起こし、肩をさすっていると、ロシーナが言った。
「………肩が痛い理由を知りたいですか?」
君は知っているんだね。
「セヴラックさんから聞きました。」
◇
夕べの一件について、ロシーナから説明を聞く。
説明を聞くうちに、僕もだんだんと思い出してきた。
そう。音楽学校の近くのバルで吞んでいたのだ。
そのうちに、バルの奥にピアノがあるのを見つけた。
弾いていいか?と店の主人に尋ねると、
アルベニス先生に弾いていただけるなんて光栄ですよ、と快諾してくれた。
そこで僕は、ちょっとした芸を披露しようと思いついたのだ。
若い頃、キューバで演奏旅行をしていた時に覚えたいたずらだ。
まず、ピアノの前の椅子に座る。
ただし反対向きに。
そして、両手を後ろに回し、交差させて鍵盤の上に置く。
この姿勢で、その土地の流行り歌なんかを即興で弾いて見せると、大いに受けた。
さて、夕べも同じことをやろうとしたのだが………
「何を弾いたの?」
「プエルタ・デ・ティエラ。」
「え?」
若い頃に私が作った曲だ。派手だが特に難しくはない。
ただし、冒頭にちょっと長めのグリッサンドがある。
「選曲ミスだった。それは認めよう。」
やっぱりあの姿勢でグリッサンドは無茶だった。酒も入っていたことだし。
失敗して椅子から転げ落ちた僕は、右肩をバルの床にしこたま打ち付けたのだった。
ロシーナによれば、その後、セヴラックと学生の一人が、僕を家まで送り届けてくれたのだそうだ。
ああ、セヴラックには悪いことをしたな。
「選曲ミスとか、そういう問題じゃありません。」
ロシーナがようやく笑う。
つまらないことで心配をかけたね。
ごめん。
「そういえば、今日は診察の日でしょ。モレル先生の所へ行って、お薬を頂かないと。」
そうだった。行かなきゃね。
ついでに肩も診てもらうか。
◇
「イサーク。君はまだ酒を飲んでいるな。」
かかりつけのロベール・モレル医師が、いつもの苦虫を嚙みつぶしたような顔で言う。
「前にも説明したと思うが、君はだいぶ前から腎臓が弱っている。それと酒のせいで肝臓も大きくなっとる。肝臓が弱ると腎臓にも影響を与えるんだ。酒は適量ならいいという医者もおるが、僕はそうは思わん。今のままでは長生きする保証はできん。とりあえず酒は控えてくれ。」
まあしかし、付き合いもあって、酒を完全にやめるのは難しいんですよ。
「そうかも知れんが、二日酔いするほど飲まんでもいいだろう。」
まあ、そうですね。
「あとは何だ。肩を痛めたって?」
肩を痛めた理由を説明する。
モレル医師があきれ顔で聞いている。
ロシーナは、横ではらはらしながら、同じ話を聞いている。
◇
「では腎臓の薬だ。肩のほうも湿布を出しておくよ。家でロシーナに貼ってもらうといい。」
ありがとうございます。
モレル医師に礼を言って立ち上がり、診察室から出ようとする。
「イサーク。」
帰り際になってもう一度呼び止めるのは、この人の悪い癖だ。
「僕は君の作る曲が好きでね。なんというか、雨上がりの土の匂いがする。君の故郷スペインには一度も行ったことがないが、君の曲を聴くと、何故か懐かしさのような感情を覚えるんだ。だから、君には体を大事にして、長く活躍してもらいたい。これは医者としてではなく、君のピアノを愛する者としてのお願いだよ。」
わかりました。
◇
帰り道、ロシーナは押し黙ったままだった。
ロシーナの機嫌を取りたくて、僕は道端の屋台でクレープを買った。
もうじき、通りの向こうに夕日が沈む。
今日が終わる。