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ラ・ベーガ  作者: 蘭鍾馗


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17/21

17.踊れ!(第三集)

 アルベニス先生。

 いくらなんでもこれは無理。


 体が付いていけない。本当に文字通りの意味で。

 ピアノの演奏でこんなことがあるなんて。


 ◇


 腎臓病で療養中の先生は、もうピアノが弾けない。そんな状態の中で、「組曲イベリア」の作曲は続けられている。新しい楽譜が、今も信じられないようなペースで、初演を担当する私、ブランシュ・セルヴァの元に届く。


 既に第二集までの計六曲をなんとか初演したけど、難しい。本当に難しいの。

 でも、弾けばそこに立ち現れるアンダルシアの風景。

 港町の喧騒、麦畑の輝き、虻の羽音、祭りの行列、むせかえるような花の香り。なんという奇跡。


 こんな曲を、ピアノが弾けない体でどうやって作曲しているのか。私には想像すらできない。


 ◇


 第三集の三曲目の楽譜が届いた。


 大きな封筒には、鉛筆書きの楽譜の束が入っている。これまではペンで清書された楽譜が届いていたけれど、もうそんな余裕が無くなって来たのかも知れない。でも、とにかく読めれば練習はできる。何枚かちょっと折れて皺が出来ているけど問題なし。


 一枚目に書かれたタイトルは「ラバピエス」。

 タイトルの横には、大きな字で「踊れ」と書かれている。舞曲ね。


 楽譜にはロシーナ夫人の手紙が添えられていた。



…………………………………………


親愛なるブランシュ



 イベリアの第三集 最後の曲を送ります。


 汚くてごめんなさい。読めない所があれば言ってください。

 実はこの譜面、イサークが一度捨ててしまったの。「これは誰にも弾けない。誰も弾けないのでは意味がない。」って言って、癇癪を起こしてゴミ箱に投げ入れてしまった。

 幸い、私がすぐに見つけたから、この曲はこの世から消えずに済みました。


 イサークは今、病気の影響で心が少し不安定になっています。


 拾った譜面を渡して私が説得したら、イサークは、今度は譜面に山ほど指示を書き込みはじめた。

 でも、暫くしたら、今度はそれを消し始めた。

 そうして、指示書きを全部消してしまったあと、冒頭の余白にこう書いたの。


「踊れ」って。


 私にはもう訳がわからないけど、貴方ならイサークの意図が分かるかも知れない。

 そう思って、手書きの楽譜をそのままお送りしました。

 消してしまった指示書きも、もしかしたら読める所が残っているかも知れないしね。


 今は、貴方だけが頼りです。

 よろしくお願いします。



  ロシーナ アルベニス


…………………………………………



 ロシーナさんありがとう!

 弾いてみせます。


 でも、「踊れ」って、そういうことなのね。

 ちょっと不安。


 ◇


 譜面読みを始める。

 でもその前に。イベリアでは大事な地名の確認。

「ラバピエス」って何処?


 ……ええと、…………あった。


 マドリードだ。居酒屋が多い一角なのね。

 ならば、これは民族舞踊じゃなくて、もう少し都会的な舞曲。スパニッシュ・タンゴのような感じ。


 譜面をめくっていく。

 途中から、五線譜が三段になる。

 運指を確認していく。旋律を奏でる左手が、和音を鳴らす右手を追い越し……

 違う。右手の指の間に潜って一音鳴らして、それから追い越してゆく。


 待って待って。

 指が間に合わない、腕が抜けない、体が置いてけぼりになる。

 まさか、「踊れ」って、こういうこと?


 違うわよね。

 きっとこれは、「任せた」って意味。

 もう勝手にそう思うことにしました。他にどうしようがある?


 ここで時間かけて悩んでいたら、すぐに第四集の楽譜が届いてしまう。


 ◇


 それから、多分、今までで一番練習した。

 運指も、頭痛がするくらい検討した。


 あの奇跡をまた見たいから。

 

 ◇


 ブランシュが格闘した、「ラバピエス」の鉛筆書きの譜面は現存していない。


「ラバピエス」は、現在でもイベリア全十二曲中で最も演奏困難な曲として知られる、恐ろしく煌びやかで華やかな舞曲である。

 この時、もしブランシュが演奏に成功していなければ、第三集第三番は、他の曲に差し替えられていたかも知れない。


 組曲「イベリア」については、現代では、ピアノの女王と称された故アリシア・デ・ラローチャの全曲録音が有名だが、今だにイベリア全曲の録音が少ないのは、こうしたプロでも演奏困難な曲が幾つか含まれるからである。


 ◇


 一九〇八年一月八日、組曲「イベリア」第三集は、パリのポリニャック公爵邸で、ブランシュ・セルヴァの演奏により初演された。


 ◆


 第一番は「エル・アルバイシン」。

 ヒターノ(ジプシー)が多く住む坂の町、グラナダのアルバイシン地区の情景を描いたもの。

 狭い急坂の路地で道に迷う。何処からともなく聴こえて来るしわがれ声のカンテとギターの音。見知らぬ男が声を掛けてくる。子供達が脇をすり抜ける。

 迷宮のような路地を歩くうちに、だんだんと自分が何処にいるのか分からなくなってくる。また何処か遠くから聴こえて来るカンテとギターの音。ヒターノが語る物語の中に迷い込んだよう。


 ◆


 第二番は「エル・ポーロ」。

 三拍子の舞曲のリズムの上に、ほの暗く単調な旋律が歌われる。それは転調を繰り返しながら、何度も繰り返し歌われる。抑圧された怒りや悲しみが、単調な旋律の繰り返しの中に垣間見える。そして時折混じる苦い不協和音。

 やがて、狂ったように上昇するスケールの後、激しく三つの和音が鳴らされ、唐突に曲は終わる。


 ◆


 第三番は「ラバピエス」。

 大きく一度うち鳴らされる和音を合図に、一転して、明るく華やかな舞曲となる。

 着飾った男女が踊る。

 初めに女が踊る。舞台を一杯に使いながら、華やかに舞う。時折男に向かって見得を切る。男は舞台の端でそれを見ている。

 それが終わると、今度は男が踊る。女はそれを見ている。男は女に見得を切る。

 そして、最後は二人が一緒に踊る。酒場の小さな舞台が沸き立つ。


 ◆



 まるで「踊る」がテーマのような第三集。

 終わっても、拍手が鳴り止まない。


 ああ、なんとかこれで第三集まで漕ぎ着けた。

 あと三曲。


 ◇


 ロシーナさんから手紙が来た。

 この第三集の初演の直後、アルベニス先生は容態が悪化し、ニースの別荘を引き払うことになったそうだ。


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