17.踊れ!(第三集)
アルベニス先生。
いくらなんでもこれは無理。
体が付いていけない。本当に文字通りの意味で。
ピアノの演奏でこんなことがあるなんて。
◇
腎臓病で療養中の先生は、もうピアノが弾けない。そんな状態の中で、「組曲イベリア」の作曲は続けられている。新しい楽譜が、今も信じられないようなペースで、初演を担当する私、ブランシュ・セルヴァの元に届く。
既に第二集までの計六曲をなんとか初演したけど、難しい。本当に難しいの。
でも、弾けばそこに立ち現れるアンダルシアの風景。
港町の喧騒、麦畑の輝き、虻の羽音、祭りの行列、むせかえるような花の香り。なんという奇跡。
こんな曲を、ピアノが弾けない体でどうやって作曲しているのか。私には想像すらできない。
◇
第三集の三曲目の楽譜が届いた。
大きな封筒には、鉛筆書きの楽譜の束が入っている。これまではペンで清書された楽譜が届いていたけれど、もうそんな余裕が無くなって来たのかも知れない。でも、とにかく読めれば練習はできる。何枚かちょっと折れて皺が出来ているけど問題なし。
一枚目に書かれたタイトルは「ラバピエス」。
タイトルの横には、大きな字で「踊れ」と書かれている。舞曲ね。
楽譜にはロシーナ夫人の手紙が添えられていた。
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親愛なるブランシュ
イベリアの第三集 最後の曲を送ります。
汚くてごめんなさい。読めない所があれば言ってください。
実はこの譜面、イサークが一度捨ててしまったの。「これは誰にも弾けない。誰も弾けないのでは意味がない。」って言って、癇癪を起こしてゴミ箱に投げ入れてしまった。
幸い、私がすぐに見つけたから、この曲はこの世から消えずに済みました。
イサークは今、病気の影響で心が少し不安定になっています。
拾った譜面を渡して私が説得したら、イサークは、今度は譜面に山ほど指示を書き込みはじめた。
でも、暫くしたら、今度はそれを消し始めた。
そうして、指示書きを全部消してしまったあと、冒頭の余白にこう書いたの。
「踊れ」って。
私にはもう訳がわからないけど、貴方ならイサークの意図が分かるかも知れない。
そう思って、手書きの楽譜をそのままお送りしました。
消してしまった指示書きも、もしかしたら読める所が残っているかも知れないしね。
今は、貴方だけが頼りです。
よろしくお願いします。
ロシーナ アルベニス
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ロシーナさんありがとう!
弾いてみせます。
でも、「踊れ」って、そういうことなのね。
ちょっと不安。
◇
譜面読みを始める。
でもその前に。イベリアでは大事な地名の確認。
「ラバピエス」って何処?
……ええと、…………あった。
マドリードだ。居酒屋が多い一角なのね。
ならば、これは民族舞踊じゃなくて、もう少し都会的な舞曲。スパニッシュ・タンゴのような感じ。
譜面をめくっていく。
途中から、五線譜が三段になる。
運指を確認していく。旋律を奏でる左手が、和音を鳴らす右手を追い越し……
違う。右手の指の間に潜って一音鳴らして、それから追い越してゆく。
待って待って。
指が間に合わない、腕が抜けない、体が置いてけぼりになる。
まさか、「踊れ」って、こういうこと?
違うわよね。
きっとこれは、「任せた」って意味。
もう勝手にそう思うことにしました。他にどうしようがある?
ここで時間かけて悩んでいたら、すぐに第四集の楽譜が届いてしまう。
◇
それから、多分、今までで一番練習した。
運指も、頭痛がするくらい検討した。
あの奇跡をまた見たいから。
◇
ブランシュが格闘した、「ラバピエス」の鉛筆書きの譜面は現存していない。
「ラバピエス」は、現在でもイベリア全十二曲中で最も演奏困難な曲として知られる、恐ろしく煌びやかで華やかな舞曲である。
この時、もしブランシュが演奏に成功していなければ、第三集第三番は、他の曲に差し替えられていたかも知れない。
組曲「イベリア」については、現代では、ピアノの女王と称された故アリシア・デ・ラローチャの全曲録音が有名だが、今だにイベリア全曲の録音が少ないのは、こうしたプロでも演奏困難な曲が幾つか含まれるからである。
◇
一九〇八年一月八日、組曲「イベリア」第三集は、パリのポリニャック公爵邸で、ブランシュ・セルヴァの演奏により初演された。
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第一番は「エル・アルバイシン」。
ヒターノが多く住む坂の町、グラナダのアルバイシン地区の情景を描いたもの。
狭い急坂の路地で道に迷う。何処からともなく聴こえて来るしわがれ声の歌とギターの音。見知らぬ男が声を掛けてくる。子供達が脇をすり抜ける。
迷宮のような路地を歩くうちに、だんだんと自分が何処にいるのか分からなくなってくる。また何処か遠くから聴こえて来る歌とギターの音。ヒターノが語る物語の中に迷い込んだよう。
◆
第二番は「エル・ポーロ」。
三拍子の舞曲のリズムの上に、ほの暗く単調な旋律が歌われる。それは転調を繰り返しながら、何度も繰り返し歌われる。抑圧された怒りや悲しみが、単調な旋律の繰り返しの中に垣間見える。そして時折混じる苦い不協和音。
やがて、狂ったように上昇するスケールの後、激しく三つの和音が鳴らされ、唐突に曲は終わる。
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第三番は「ラバピエス」。
大きく一度うち鳴らされる和音を合図に、一転して、明るく華やかな舞曲となる。
着飾った男女が踊る。
初めに女が踊る。舞台を一杯に使いながら、華やかに舞う。時折男に向かって見得を切る。男は舞台の端でそれを見ている。
それが終わると、今度は男が踊る。女はそれを見ている。男は女に見得を切る。
そして、最後は二人が一緒に踊る。酒場の小さな舞台が沸き立つ。
◆
まるで「踊る」がテーマのような第三集。
終わっても、拍手が鳴り止まない。
ああ、なんとかこれで第三集まで漕ぎ着けた。
あと三曲。
◇
ロシーナさんから手紙が来た。
この第三集の初演の直後、アルベニス先生は容態が悪化し、ニースの別荘を引き払うことになったそうだ。




