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ラ・ベーガ  作者: 蘭鍾馗


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15/21

15.新しい印象(第一集)

 ニースの家のイサークの部屋から、毎日のように聞こえていたピアノの音が、最近、あまり聞こえて来なくなった。


 ◇


 もともと作曲中は部屋に籠る事が多く、ピアノの前には余り座らないイサークではあったけど、最近はもう殆んどピアノを弾かない。

 もしかしたら、と言う気はしていた。でも、イサークにそれを言うことは躊躇われた。


 それから何日か経ったある日、イサークは私に一通の手紙を託して、こう言った。


「ロシーナ、手紙を出してきてくれないか。ブランシュ・セルヴァ宛の手紙だ。組曲『イベリア』全曲の初演を依頼する。僕はもう、ピアノが弾けなくなってきたんだ。」


 ああ、来るべきものが、来てしまったんだ。


 ◇


 一九〇六年五月九日、パリのコンサートホール「サル・プレイエル」において、アルベニスの「組曲イベリア」第一集が初演された。

 ブライト氏病の悪化によりピアノ演奏が出来なくなったアルベニスに代わり、アルベニスの高弟であるブランシュ・セルヴァが初演の奏者を務めることとなった。


 今日初演されるのは、「組曲イベリア」の第一集。「エボカシオン」、「エル・プエルト」、「セビーリャの聖体祭」の三曲からなる。これらは、いずれもアルベニスのこれまでの作品とは大きく異なる、複雑なリズムと重厚な和声をもった曲である。


 ホールの聴衆に一礼し、ブランシュがピアノの前に座る。


 ◆


 第一番「エボカシオン」が、静かに始まる。


 探り打つようなピアノの旋律は、躊躇うように揺らめきながらゆっくりと進んでゆく。それは次第に高揚しながら、やがてはっきりとした形をとり始める。

 それにつれて、揺らめくような主題の向こうに、はじめはぼんやりと、やがてはっきりと、アンダルシアの沃野が見えてくる。


 中間部。テーマは長調に転じ、雲の切れ間からさしこむ日差しが表現される。が、雲は再び空を閉ざす。


 そうして、曲は最初のテーマに戻り、この組曲の舞台となるアンダルシアの沃野をゆっくりと歩くようにして、静かに曲は終わる。


 ◆


 第二番「エル・プエルト」は、カディスの北に位置する港町、「エル・プエルト・デ・サンタマリア」の情景を描いたもの。第一番の「エボカシオン」からは一転して、軽快なリズムに乗せて、港町の風景と喧騒が描かれる。

 

 海の香り漂うこの曲は、アルベニスの初期の作品「入江のざわめき」を想起させるが、それよりも遥かに華やかで繊細かつ軽快、リズムも複雑だ。

 真昼の日差しの中、市場の物売りの声が響き、荷馬車が通りを行く。心地良い海からの風が、通りを渡って行く。木漏れ日が揺れる。

 

 短いながらも、明るく印象的な曲。


 ◆


 第三番「セビーリャの聖体祭」は、キリストの像を担いだ行列が、音楽と共に市中を練り歩く祭りを描写した曲だ。


 二拍子の行進曲のリズムに乗せて、民謡「ラ・タララ」のテーマが繰り返し歌われる。

 それは変奏を繰り返しながら、きらびやかな装飾が加えられ、次第に華やかさを増してゆく。

 テーマは、繰り返されるうちに、華やかさの中に少しずつ狂気を帯びはじめ、どこか死を想起させるものへと変化してゆく。


 やがて、聖体の行列に向かって、沿道のバルコニーからキリストを讃える宗教歌サエータが歌われる。

 バルコニーの歌い手に敬意を表して、行列は立ち止まり、その歌に耳を傾ける。

 沿道から祭りの行列に向かって花が撒かれる。


 歌が終わると、行列は再び歩き始め、花の香りと共に目の前から去ってゆく。

 それを見送るように、静かな長い後奏を経て、曲は終わる。


 ぞっとするような美しさ。


 ◆



 衝撃的だった。


 誰も見たことのない極彩色のイベリアの景色が、突然そこに立ち現れた。

 たった今、それを全ての聴衆が目撃したのだ。その景色は、これまでのアルベニスの作品には見られない、匂い立つような鮮やかなものであった。


 拍手が、いつまでも鳴りやまなかった。

 それは演奏者のブランシュを戸惑わせる程、長く続いた。


 ◇


 何と言う美しさだろうか。


 初演に招待されたモレル医師は、演奏が終わった後、ホールの椅子に座ったまま言葉を失っていた。

 美しいだけではない。「ラ・ベーガ」を聴いた時に感じた、ある種の迷いが無くなっていた。

 それが何を意味するのか、モレル医師にはすぐに理解出来た。



 イサーク、君は死を覚悟したんだな。


「セビーリャの聖体祭」の祭りの行列に、君は自らの葬列を重ねて描いた。何と言う明るく華やかな葬列だ。


「ラ・ベーガ」の初演の後、君は体調を崩した。僕は君に大きな病院で検査を受けることを強く勧めた。君の病気が「ブライト氏病」であることは、僕にもある程度予想できていたが、診断を確定するには、血液の検査ができる大きな病院を受診する必要があったからだ。


 君は、意外にもあっさりと僕の提案を受け入れて、パリで一番大きな病院を受診した。

 診断の結果は、やはり「ブライト氏病」だった。腎臓が炎症を起こす病気だ。原因が分かっていないため、残念ながら、現在はまだ有効な治療法が見つかっていない。


 だから、状況は大して変わっていないのだ。今までと同じように、症状を和らげる薬を服用する以外、出来ることはない。


 それでも、病名がはっきりしたことで、君は戦う相手の名前を知った。そのことが、君にある種の覚悟を決めさせたのかも知れない。


 その覚悟が、君を輝かせ始めた。

 その輝きの、なんと明るく華やかなことか。


 僕はもう、なんと言っていいかわからない。


 ◇


 後に、アルベニスの最高傑作とされ、「近代ピアノ音楽の金字塔」とまで称賛されることになる「組曲イベリア」は、「十二の新しい印象」という副題が添えられ、こうして記念すべき第一集の初演の日を終えた。

 そして、この組曲は、第一集から第四集まで、三曲ずつに分けて順次発表されることが公表された。


 これ以後、アルベニスは、他の全ての活動から手を引き、「組曲イベリア」の完成に、残りの生涯の全てを賭けて取り組むことになる。


 だが、その残りの生涯は、最早それほど長くは残されていなかった。それは、日毎に衰えてゆく体力との戦いでもあった。


 夕闇が迫っていた。

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