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ラ・ベーガ  作者: 蘭鍾馗


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12/21

12.ラ・ベーガ

「ロシーナ、来てくれないか。」


 イサークが私を呼ぶ。

 何の用事か直ぐに分かった。

 出来たんだ、新しい曲が。



 ◇



 アルハンブラ宮殿を見た翌日、私達は帰路についた。

 あれ程饒舌だったイサークが、帰りは押し黙ることが多くなった。時折、何か呟きながら指を動かしている。


 作曲しているんだ。


 何か、これ迄にない新しいものが生まれるのではないか。そう思わせる程、何時になく彼は集中して、作曲に没頭していた。自宅に帰ってからも、書斎に引きこもってなかなか出て来なくなった。


 でも、不思議なくらいピアノの前には座らないのよね。多分、殆んど全てを頭の中で組み立てているのだと思う。そして、時折思い出したように、五線紙の上に信じられないような速さで書き付けていく。


 それが終わると、漸くピアノの前に座る。

 そして、頭から一気に弾いてゆく。

 彼の場合、このままこれで一曲出来上がってしまうことも多いの。でも、今回は違った。

 弾きながら何度も立ち止まっては修正を繰り返す。旋律を微修正し、慎重に和声を作り込む。そして、また何度も弾いて確認する。


 そして、出来上がった新しい曲を、これから私の目の前で弾いてくれるのだ。


「タイトルは、『ラ・ベーガ』だよ。」

 イサークは、それ以上の説明はしない。先入観なしの私の感想が欲しいのだ。



 ◆



 静かに曲は始まる。


 単音の探り打ちのような伴奏音形が提示され、その上に、やや不安げな息の長いテーマが歌われる。

 その後、大きくゆっくりと六つの和音が鳴らされ、沃野の風景が眼前に広がる。


 再び冒頭の伴奏音形が現れ、この音形こそがこの曲のテーマであることが暗示される。

 伴奏音形は少しずつ形を変えながら、時に途切れながらも、曲全体を通して、誰かの独白のように鳴らされる。


 やがて旋律は、上昇する速いスケールとなり、つむじ風のように空へと舞い上がる。

 激しく和音が打ち鳴らされ、雷鳴と共に沃野に雨が降る。

 雨は上がり、空を雲が走る。

 沃野の上に、幾度も日が沈み、月が昇る。


 やがて戦が始まる。

 兵士達が沃野を奪い合う。

 小麦畑に血が流れ、小麦が踏み荒らされる。

 また幾度も日が沈み、月が昇る。


 戦が終わる。

 荒らされた沃野に、再び鍬が入れられ、また豊かな実りをもたらす。

 嵐が過ぎ、雲が走る。日が射し始める。


 しかし、再び戦が始まる。

 ひとはこの愚かな営みをやめない。

 小麦畑に血が流れ、小麦が踏み荒らされる。

 また幾度も日が沈み、月が昇る。


 ………………


 曲は、再び冒頭のテーマに戻る。


 そして、沃野の今の姿が見える。

 この地上の人の営みは、今も沃野の上にあって、それはまた時と共に流れてゆく。


 その後、静かに上昇する和音で、消え入るように曲は終わる。



 ◆



 凄いわ!

 ああ、なんて言ったらいいのだろう。


 グラナダの沃野の上に起こる全ての出来事を、誰かがずっと見ているのね。

 その誰かの嘆きが聞こえる。ただ黙って見ていることしか出来ない自分を嘆いている。

 でも、沃野は美しいままなの。

 人の営みを全て呑み込んで、それでも美しい沃野は、そこにあり続ける。


 ◇


「ロシーナ、凄いのは君の方だ。君は僕がこの曲に込めたものを、全て読み取って言葉にしてみせた。驚いたよ。」


 貴方の今までの曲とは全然違うわ。一体どうしたの?


「グラナダで見たものが、僕を変えた。そうとしか言いようがないよ。」


 そういえば貴方、

 ヘネラリーフェで誰かを見たでしょう。


「そのとおりだ。でも、何故そう思ったの?」


 ヘネラリーフェの離宮の廊下で私が声をかけたとき、貴方は青い顔をしながら、アルハンブラ宮殿の方をずっと見つめていたわ。私には何も見えなかったけど、貴方は知っている誰かの姿を見て驚いていた、そんな風に見えたわ。


 貴方、アルカサーバの守護天使を見たんじゃないの?マリアさんの姿をした。


「……驚いたな、その通りだよ。」



 ◇



 イサークは、その時の事を語り始めました。


 前日の夢に黒い翼を背負ったマリアが出てきて、ヘネラリーフェに来れば知りたいことが鏡に映ると言われたこと、そして、ヘネラリーフェから見えるアルカサーバの城壁の塔の上に、夢と同じ格好のマリアがいるのを見つけたこと、マリアの口が「十二年後に君はここにいない。」と動いたように見えたことを語ってくれました。


 なんてこと。

 ああ、あと十二年なんて。


 こんなこと、イサークの気の迷いだと思って信じなければいい。それだけの話かも知れない。でも、私はそれを本当の事だと思った。

 理由なんか分からない。でも、啓示ってこういうものなんじゃないか、そんな気がしたの。


 ◇


「ラ・ベーガ」で、沃野の上の人の営みをずっと見続けているのは、マリアさんね。不老不死の軛を与えられた、黒翼の悪魔。


「そうだね。僕もそう思うよ。」


 こうして、突然のグラナダ行きから、信じ難い奇跡のような傑作、「ラ・ベーガ」が生まれたの。



 ◇



 その年の秋、「ラ・ベーガ」は、パリの国民音楽協会が主催するリサイタルで、イサーク・アルベニス自身の手によって初演された。

 これまでのアルベニスの作品とは大きく異なる、複雑な和声とリズムの上に、深い精神性が宿る新たな作風に、多くの音楽関係者から称賛の声が寄せられた。


 中でも、クロード・ドビュッシーは、「ラ・ベーガ」を聴いたあと、「今すぐグラナダへ行きたい!」と感想を述べたと伝えられている。


「ラ・ベーガ」は、決して旅情を掻き立てられる類いの、いわゆる風景描写の曲ではない。そのため、このドビュッシーの感想は、些か奇妙で的はずれなものに聞こえる。

 これがもし、単なるお世辞ではないのだとしたら、彼が言いたかったのは、もしかしたらこういう事だったのかも知れない。


「イサーク、君は変わった!グラナダで、一体君は何を見つけたのか。僕はそれが知りたい。それを知るために、僕は今すぐグラナダへ行きたい!」と。

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