12.ラ・ベーガ
「ロシーナ、来てくれないか。」
イサークが私を呼ぶ。
何の用事か直ぐに分かった。
出来たんだ、新しい曲が。
◇
アルハンブラ宮殿を見た翌日、私達は帰路についた。
あれ程饒舌だったイサークが、帰りは押し黙ることが多くなった。時折、何か呟きながら指を動かしている。
作曲しているんだ。
何か、これ迄にない新しいものが生まれるのではないか。そう思わせる程、何時になく彼は集中して、作曲に没頭していた。自宅に帰ってからも、書斎に引きこもってなかなか出て来なくなった。
でも、不思議なくらいピアノの前には座らないのよね。多分、殆んど全てを頭の中で組み立てているのだと思う。そして、時折思い出したように、五線紙の上に信じられないような速さで書き付けていく。
それが終わると、漸くピアノの前に座る。
そして、頭から一気に弾いてゆく。
彼の場合、このままこれで一曲出来上がってしまうことも多いの。でも、今回は違った。
弾きながら何度も立ち止まっては修正を繰り返す。旋律を微修正し、慎重に和声を作り込む。そして、また何度も弾いて確認する。
そして、出来上がった新しい曲を、これから私の目の前で弾いてくれるのだ。
「タイトルは、『ラ・ベーガ』だよ。」
イサークは、それ以上の説明はしない。先入観なしの私の感想が欲しいのだ。
◆
静かに曲は始まる。
単音の探り打ちのような伴奏音形が提示され、その上に、やや不安げな息の長いテーマが歌われる。
その後、大きくゆっくりと六つの和音が鳴らされ、沃野の風景が眼前に広がる。
再び冒頭の伴奏音形が現れ、この音形こそがこの曲のテーマであることが暗示される。
伴奏音形は少しずつ形を変えながら、時に途切れながらも、曲全体を通して、誰かの独白のように鳴らされる。
やがて旋律は、上昇する速いスケールとなり、つむじ風のように空へと舞い上がる。
激しく和音が打ち鳴らされ、雷鳴と共に沃野に雨が降る。
雨は上がり、空を雲が走る。
沃野の上に、幾度も日が沈み、月が昇る。
やがて戦が始まる。
兵士達が沃野を奪い合う。
小麦畑に血が流れ、小麦が踏み荒らされる。
また幾度も日が沈み、月が昇る。
戦が終わる。
荒らされた沃野に、再び鍬が入れられ、また豊かな実りをもたらす。
嵐が過ぎ、雲が走る。日が射し始める。
しかし、再び戦が始まる。
ひとはこの愚かな営みをやめない。
小麦畑に血が流れ、小麦が踏み荒らされる。
また幾度も日が沈み、月が昇る。
………………
曲は、再び冒頭のテーマに戻る。
そして、沃野の今の姿が見える。
この地上の人の営みは、今も沃野の上にあって、それはまた時と共に流れてゆく。
その後、静かに上昇する和音で、消え入るように曲は終わる。
◆
凄いわ!
ああ、なんて言ったらいいのだろう。
グラナダの沃野の上に起こる全ての出来事を、誰かがずっと見ているのね。
その誰かの嘆きが聞こえる。ただ黙って見ていることしか出来ない自分を嘆いている。
でも、沃野は美しいままなの。
人の営みを全て呑み込んで、それでも美しい沃野は、そこにあり続ける。
◇
「ロシーナ、凄いのは君の方だ。君は僕がこの曲に込めたものを、全て読み取って言葉にしてみせた。驚いたよ。」
貴方の今までの曲とは全然違うわ。一体どうしたの?
「グラナダで見たものが、僕を変えた。そうとしか言いようがないよ。」
そういえば貴方、
ヘネラリーフェで誰かを見たでしょう。
「そのとおりだ。でも、何故そう思ったの?」
ヘネラリーフェの離宮の廊下で私が声をかけたとき、貴方は青い顔をしながら、アルハンブラ宮殿の方をずっと見つめていたわ。私には何も見えなかったけど、貴方は知っている誰かの姿を見て驚いていた、そんな風に見えたわ。
貴方、アルカサーバの守護天使を見たんじゃないの?マリアさんの姿をした。
「……驚いたな、その通りだよ。」
◇
イサークは、その時の事を語り始めました。
前日の夢に黒い翼を背負ったマリアが出てきて、ヘネラリーフェに来れば知りたいことが鏡に映ると言われたこと、そして、ヘネラリーフェから見えるアルカサーバの城壁の塔の上に、夢と同じ格好のマリアがいるのを見つけたこと、マリアの口が「十二年後に君はここにいない。」と動いたように見えたことを語ってくれました。
なんてこと。
ああ、あと十二年なんて。
こんなこと、イサークの気の迷いだと思って信じなければいい。それだけの話かも知れない。でも、私はそれを本当の事だと思った。
理由なんか分からない。でも、啓示ってこういうものなんじゃないか、そんな気がしたの。
◇
「ラ・ベーガ」で、沃野の上の人の営みをずっと見続けているのは、マリアさんね。不老不死の軛を与えられた、黒翼の悪魔。
「そうだね。僕もそう思うよ。」
こうして、突然のグラナダ行きから、信じ難い奇跡のような傑作、「ラ・ベーガ」が生まれたの。
◇
その年の秋、「ラ・ベーガ」は、パリの国民音楽協会が主催するリサイタルで、イサーク・アルベニス自身の手によって初演された。
これまでのアルベニスの作品とは大きく異なる、複雑な和声とリズムの上に、深い精神性が宿る新たな作風に、多くの音楽関係者から称賛の声が寄せられた。
中でも、クロード・ドビュッシーは、「ラ・ベーガ」を聴いたあと、「今すぐグラナダへ行きたい!」と感想を述べたと伝えられている。
「ラ・ベーガ」は、決して旅情を掻き立てられる類いの、いわゆる風景描写の曲ではない。そのため、このドビュッシーの感想は、些か奇妙で的はずれなものに聞こえる。
これがもし、単なるお世辞ではないのだとしたら、彼が言いたかったのは、もしかしたらこういう事だったのかも知れない。
「イサーク、君は変わった!グラナダで、一体君は何を見つけたのか。僕はそれが知りたい。それを知るために、僕は今すぐグラナダへ行きたい!」と。




