11.一八九七年八月九日
「昨晩の宿の御主人の話、面白かったわね。」
◇
今朝のロシーナはご機嫌だ。
昨夜、宿の主人が、アルハンブラに伝わる伝説を幾つか語ってくれたのだ。塔に幽閉された姫を王子が連れ出す物語、ナスル朝の隠し財宝を見つけた男の話、洞窟の中に、今もグラナダ最後の王と臣下の兵士達が、魔法をかけられたまま潜んでいるという話…………等々。
アルハンブラの古い住人達は、皆ああいう物語を語れるらしい。自分たちのことを『アルハンブラの息子』と呼んで、誇りにしているんだよ。
「素敵ね。」
ロシーナが、突然思い出したように云う。
「マリアさん、きっとここの生まれだったのね。」
ああ、きっとそうだな。間違いない。
アルハンブラ宮殿へと続く小さな谷の道をゆく。宮殿が近づくにつれ、道の勾配は急になってくる。
「イサーク、大丈夫?」
大丈夫だ。ゆっくりなら登れるさ。
◇
やがて、アルハンブラの入口、「グラナダの門」にたどり着く。
門をくぐり、アルハンブラ宮殿へと歩いてゆく。
宮殿に入ると、中庭がある。
中庭には、四角い池があった。
「ターレガさんの曲に出てくる泉はこれかしら?」
さあ、どうだろう。こんな四角い池が、実は幾つかあるんだよ。
「そうなんだ。」
僕は、ヘネラリーフェの泉じゃないかと思っているけどね。谷を挟んだ向こう側に見える建物がそうだよ。王の夏の離宮だ。
谷の向こうには、木立の中から赤い壁の建物が見えていた。
「ターレガさんに聞いておけばよかった。」
そうだなあ。まあでも、あの時は、まさかここへ来るとは思っていなかったからね。
「そういえば貴方、モレル先生の診察の後、突然『グラナダへ行く』って言いだしたんだったわね。」
うん。言っておいて何なんだが、あの時は自分でもびっくりしたよ。
「そうなの?」
◇
グラナダの八月の昼の日差しは強い。
だが、建物の中へ入れば、日陰はひんやりとしている。
シエラ・ネバーダからの冷たい沢水をふんだんに引きこんだ宮殿内は、日陰に入りさえすれば、意外な程涼しいのだった。その水を使って、城壁の内側には沢山の花が植えられ、葡萄やオレンジが実り、野菜が育つ畑までつくられていた。
カスティーリャとアラゴンの軍隊に包囲され、最後は無血開城したアルハンブラ宮殿だったが、もしもその気になったならば、結構長い間の籠城に堪えられたかもしれない。そんな気がするほど、城壁の内側には、豊かな庭と畑が広がり、乾いた城壁の外の風景とは対照的に、あふれんばかりの花や果樹で埋め尽くされていた。
宮殿のイスラム風の窓からは、グラナダの街が一望できた。
やがて、風が吹き始めた。
◇
ヘネラリーフェへ行こうか。
「うん。」
◇
城壁を出て、一度谷へ降り、今度は王の夏の離宮を目指す。
昔は、谷を渡ってヘネラリーフェ離宮へ渡れる渡り廊下があったらしいよ。
「ふーん。」
谷を渡り、坂を少し上ると、ヘネラリーフェ離宮の庭園にたどり着く。
「ここもきれい。でも、ここにも畑があるのね!」
いざとなれば、この中だけでも暮らしていけるようにしてあったんだろうね。
「なるほど。」
庭園を進んでゆくと、程無くヘネラリーフェの離宮だ。
中庭には、噴水のある細長い池があった。
「これよ!きっとこれ。ターレガさんの曲に出てくる泉!」
僕も、これがそうだと思うよ。
「きれい。」
◇
離宮を囲む廊下の窓からは、対岸のアルハンブラ宮殿が見える。
ふと、アルハンブラ宮殿の城壁の塔を見やると、塔の上に誰かが立っている。
あんなところに登れたんだったか?
その人物は、よく見ると古い甲冑のようなものを身につけていた。
まさか。そんな恰好をしたやつが、こんな所にいるわけがない。
まるで白昼夢ではないか。
遠くてわかりづらいが、よく見ると、その人物は女性だ。
そして、背中には大きな黒い翼を背負っているように見える。
マリアだ。
夢の中に現れたのと同じ格好をしている。
「ヘネラリーフェにおいで。」
夢の中で、マリアは確かにそう言ったのだった。
「あんたの知りたいことが、鏡に映るわ。」
◇
黒い翼を背負ったマリアは、静かに微笑んでいるように見えた。
そして、マリアの唇が、ゆっくりと動いた。
その唇の動きは、こう読めたのだ。
「十二年。十二年の後、君はここにいない。」
◇
見えるはずがなかった。
あんなに遠くから、人の唇の動きなど読めるはずがない。
でも、僕の目には、確かにそう見えたのだ。
十二年。
十二年の後、僕はここにいない。
こことは何処だ。
一瞬の後、僕は理解した。
それ以外の意味ではあり得ない。そう思った。
◇
「イサーク、どうしたの?」
ロシーナに声を掛けられて、僕は我に返った。
ああ、何でもないよ。
「顔色が悪いわ。気分が良くないんじゃない?」
いや、大丈夫だ。大丈夫だよ。
僕は、離宮の廊下の窓から、改めてグラナダの街を見下ろした。
気付かないうちに、夕刻が近づいていた。
陽は、
思いの外傾いていた。
城壁の影が長く伸びていた。
夏の終わり、
午後の太陽はもはやそれほど高くはない。
夕方の風が吹き始めた。
風は糸杉の梢を揺らし、
木々の葉を裏返しながら渡って行く。
◇
一八九七年八月九日。
この日、僕の人生の夕刻が始まった。
参考資料:「アルハンブラ物語」(W・アービング 江間章子訳)




