10.雄鶏の鳴く時
「広い!」
ロシーナが感嘆の声を上げる。
ロハの街を出たあたりから、ヘニル川に沿って、両岸に平原が広がる風景が始まる。
それは延々と、ヘニル川の源流であるグラナダのシエラ・ネバーダ山脈まで続いている。
◇
「街を出たが最後、荒れ地と山しかないのかと思ってたわ。」
いやいや、そんなことないだろう。
「でも、貴方が前に言ってた『渇いた赤茶色のスペイン』の意味が、ようやく分かった気がする。」
そうか。
ロシーナは熱心に、馬車の窓から外の様子を見ている。
「でも、道の両側はずっと畑のようだけど、作物が少ないわ。葡萄畑とオリーブ畑の他は、何も植えられてないみたい。」
このあたりは、夏に雨が降らないんだ。だから夏に育つ野菜なんかは育てることが難しい。この辺の畑が一面緑になるのは、冬なんだよ。冬になれば、雨が降るからね。この辺は小麦畑になるよ。
「そうなんだ。フランスとはだいぶ違うのね。」
幸いなことに、ここにはシエラ・ネバーダからの雪解け水が流れてくる。もちろん、そのままではただの荒野だけど、川から水を引き、水路を作って灌漑をすれば、もともとは力のある土地だから、葡萄やオレンジ、オリーブなんかが作れるようになる。
この荒れ野のような平原を、僕らは「ラ・ベーガ」と呼ぶんだよ。ベーガはスペイン語で草原のことだけど、このあたりの平原を「ラ・ベーガ」と呼ぶときには、「豊かな土地、沃野」というニュアンスが込められているんだ。
「そうなのね。」
「ラ・ヴェーガ。」
窓の外の平原を見ながら、ロシーナはつぶやいてみた。
違うよロシーナ。スペイン語の「V」は唇をかまない。「B」と同じ発音になるんだ。
「そうなの?」
この地に灌漑の技術を持ち込んだのは、実はイスラム教徒なんだよ。
「ええ?砂漠で暮らしてた人達なのに?」
砂漠に暮らすからこそだったんじゃないかな。その当時、彼らはヨーロッパより進んだ文明を持っていたから、土木技術なんかも進んでいた。その技術を使って、長い距離の水路を作って、荒れ地に灌漑して畑を作ったんだ。その頃、僕らの遠い祖先は、多分この荒れ地で放牧をして暮らしていたんだろう。まあ、今とは逆だったろうね。
「ふーん。」
ロシーナが、いつになく話に喰いついてくる。こんな話題が好きだとは知らなかったな。
でも、豊かな土地があれば、それを欲しがるものも出てくる。この平原は、戦場でもあったんだよ。
「そうか………そうね。そうなるわね。」
そして、八世紀にアストゥリアス地方から起こったレコンキスタ運動が、少しずつ広がっていった。キリスト教国がイスラム教国を次々に打ち負かして、長い時間をかけながら、やがてイベリア半島を支配下に置いたんだ。そして、最後に残ったイスラム教国が、これから行くグラナダ王国だったんだよ。
「ふーん。」
「ねえイサーク、貴方どうしてそんなに歴史に詳しいの?」
ああ、それはペドレル先生のおかげかもな。
「?」
ロシーナの質問は、その後も続いた。ロシーナからこんなに沢山の質問をされたのは、これが初めてっだったかも知れない。
馬車は進み、やがて街へと入る。
もうじき、今日の宿に着く。
◇
………………………………………………
「ヘネラリーフェにおいで。」
マリアが、僕の向いの、南国風の飾りのついた背凭れの大きな椅子に座り、足を組んで僕に微笑んでいる。
背中には、青緑の輝きをもった、漆黒の大きな翼が見える。
右手には、黒い大きな鍵が握られていた。
「雄鶏は鳴くけど、まだ朝ではない。気を付けないとね。」
「ヘネラリーフェで、あんたがが知りたいことが、鏡に映るわ。」
………………………………………………
雄鶏の時の声が聞こえた。
まだ夜中だ。
ロシーナの寝息が聞こえる。
ここは、グラナダの宿だ。
夢を見ていた。
今度は、はっきりと夢の内容を覚えていた。
話の内容が意味不明なのは、夢だからだろう。
雄鶏の声が聞こえる。
暗闇に戸惑いながら、それでも、何かを確信しているかのように、また雄鶏は鳴く。
戸惑いながらも、雄鶏は鳴きつづける。
何故、夜が明けないのかと、誰かに訴えるように。
夜明け前の、一番暗い刻を、雄鶏は歌う。
狂っているのは、自分の方じゃないと。
◇
あの雄鶏は、僕だ。
スペイン民族楽派なんて看板を背負いながら、作っている曲は、土産物屋で売っている絵葉書と何ら変わりはしない。それでは駄目だ。それだけは分かっている。
でも、今現在、僕の音楽が評価されているのは、その絵葉書的な一面によるところが大きいのも事実だ。
新しい和声の進行や旋律によって音楽に色彩や映像を与えるという試みは、ラヴェルやドビュッシー、ショーソンあたりが盛んに試みていることだ。
それに乗っかってしまえばいい。現代的な和声に、スペイン風のエッセンスを上澄みだけ取り入れたリズムと旋律を乗せて、モダンな風景画を描くように曲を作ってしまえばいい。それが時代の流れだ。そう思うことも度々ある。
だが、そう思おうとしても、僕の中で、朝を待てない狂った雄鶏が鳴き続ける。
「魂をどこに置き忘れて来たか」と、雄鶏は問うのだ。
それを見つけるために、ここに来たのではないか。
きれいな上澄みではない、瓶の底の澱にこそ、魂は宿る。僕はそう思っている。
そして、もう一つ知りたいことがある。
僕は、いつまでピアノを弾いていられるのか。
また、雄鶏が鳴く。
空が、少しずつ白み始める。




