第六話 逃亡
ブオン村の窓には、ガラスがついていない。
ガラスとは、貴族の館や商人の取引場所にのみ設置される、見栄と権力の象徴だ。
ブオン村では、ガラスの代わりに木の板を貼り付ける。
押して開き、引いて閉める。
閉じていると室内が真っ暗になってしまうため、雨風が強くなければ開け放っておくのが常だ。
本日の窓は開かれ、窓の縁には唯の制服がかけられていた。
血がついた場所を濡れた布で拭い、ところどころ湿った制服が。
水で濡らすと翌日までに乾燥する保証がないという理由だ。
制服についた血の跡は、遠目から見れば見えない程度に薄くなるまでに落ちていた。
褒めるべきは、汚れに強い日本の制服である。
制服以外の服を持ち合わせない唯は、マイエラから借りた丈の長い肌着を着用し、眠りについていた。
ふかふかの布団とは程遠い藁を被っての就寝ではあるが、転移早々のアイアン・ウルフ退治で体を動かし、唯の体に疲労は蓄積されていた。
そのため、藁の布団と隙間風の子守唄という悪環境に負けず、唯はすんなりと眠りにつくことができていた。
唯の隣には、同じく藁を被ってマイエラが眠っていた。
いや、横たわっていた。
唯とは逆に緊張で寝付くことができず、体をもぞもぞと動かし、時々玄関の扉に目をやっていた。
眠る唯。
拘束されないマイエラの体。
そして、家から脱出するための扉。
マイエラが唯の元から逃げるのには十分すぎる環境が整っていたが、それでもマイエラは逃げなかった。
一つ。
家から逃げたところで、村の中に隠れる場所がなく、また捕まることが目に見えているから。
一つ。
仮に村の外に逃げることができたとしても、唯に追いつかれてしまう未来を想像したから。
一つ。
仮に唯がマイエラを見つけることができず逃げおおせたとしても、その先にあるのはブオン村の全滅だと理解しているから。
マイエラは、第一に村人たちの安全を考えた。
「……はぁ」
夜が明けたら、唯は何をするつもりなのか。
ブオン村は、どのように巻き込まれていくのだろうか。
そんなことを考えながら、マイエラは窓を見る。
夜空に浮かぶ、丸い月。
そして、手の影。
「……っ!?」
マイエラは、驚きで声を上げそうになるが、すぐに口を塞ぐ。
手の影の跡には頭が一つ付いてきて、月の光がその正体を浮かび上がらせた。
(グリゾリ……!?)
(助けに来たぞ、マイエラ!)
マイエラとグリゾリは顔を見合わせ、口の動きだけで会話する。
(帰って!)
(嫌だ!)
(唯様に見つかったら、どうなるか)
(皆、覚悟の上だ…‥!)
(皆……って……!?)
唯がマイエラを連れて行ったあと、村人たちは倉庫に集まった。
唯の行いとブオン村が唯の支配下に入ったことを伝え、村としてどう動くかを考えた。
唯の支配下で生きるか。
それとも、唯に反逆するか。
選んだのは、可能性のある反逆だ。
このまま唯という爆弾を抱えながら生活を続けることは、村人の総意で否である。
とはいえ、唯と戦うことも、ベルヴェと男衆の総意で否である。
村人の総意での是は、逃亡。
夜の闇に応じて、全員で村から脱出することである。
その際に気になるのが、唯に気づかれず逃亡が可能か、である。
ベルヴェに村人が逃亡しないように依頼している以上、唯自身に索敵能力が乏しいという仮説を立て、それが正しければ逃亡を決行しようと決めた。
その確認方法が、マイエラの救出。
家という箱の中で逃亡に成功すれば、村人全員の逃亡も可能性があると結論付けた。
大役として志願したのがグリゾリだ。
グリゾリは窓から家の中にそっと入り、マイエラに手を伸ばす。
(来い、マイエラ!)
(無理!)
だが、マイエラは動かない。
マイエラの中に、唯への勝機はなく、逃げることは無謀な自殺としか映らない。
次期村長として、村人の死をむざむざ受け入れることはできなかった。
むしろ、何故父であるベルヴェが承諾したのか、怒りさえ覚えた。
しばし二人はにらみ合い、先にしびれを切らしたのはグリゾリの方だった。
音も立てずに室内へ着地し、マイエラの腕を取った。
(いいから来い!)
(やめて……!)
マイエラの体は、一切の抵抗なくグリゾリの方に引き寄せられた。
マイエラが、抵抗することで音を出し、唯の睡眠を妨げることを避けたのか。
それとも。
(話は外へ出てから)
「なんの話?」
深夜の逃亡劇の終わりは、唯の一言で終わった。
いつの間にか目を覚ましていた唯は、マイエラを掴むグリゾリの腕を掴み、握りつぶした。
「っ!? ぎゃあああああ!?」
グリゾリは痛みに悶えながら唯を睨みつけ、すぐにマイエラの方を向いて、残った腕でマイエラを掴む。
そして、窓に向かって思いっきり投げ飛ばした。
「逃げてくれ! マイエラ!」
「グリゾリ!」
壁に向かっていく飛んでいくマイエラの体は、唯によって受け止められた。
唯はお姫様抱っこをしたマイエラを優しく床において、次の瞬間グリゾリを殴り飛ばした。
グリゾリの体は壁にぶつかり、全身の衝撃で壁を破壊した。
「がっ……」
グリゾリは意識を飛ばした状態で、地面へと倒れる。
唯は、周囲に散らばる木くずを踏みつけながら、グリゾリに近づく。
「見た顔ね」
唯は倒れるグリゾリを見下ろして、人質を自ら買って出た少年だったことを思い出す。
「唯様!」
そんな唯の元に、顔を青くしたマイエラが走ってきて、即座にひれ伏す。
「何?」
「ど、どうか。どうかグリゾリの行いに、寛容な処置をお願いいたします」
「グリゾリ? ああ、こいつのことね」
「グリゾリは、私を助けたいと先走っただけです。もちろん、私は唯様の元から逃げようと考えておりませんし、グリゾリにも二度とこのようなことを行わないようにきつく言い聞かせます。ですので何卒、ご慈悲を」
必死な声で嘆願するマイエラを見ながら、唯は何も考えていなかった。
村を支配下に置いた時点で、村人たちは唯の所有物。
おいたをした所有物を次々壊すほど、唯は破壊者としてふるまう気はなかった。
もちろん、自身に歯向かったとなれば話は別だが。
唯の中で、グリゾリの行動は殺すほどの物ではなかった。
唯と対称的に必死なマイエラの熱量を前に、唯はギャップの大きさに胸やけをするような面倒くささを感じていた。
「慈悲も何も、殺さないわよ。統治したばかりの村で、馬鹿なことをするやつが一人二人出ることなんて想定内だもの」
「あ、ありが」
唯は、倉庫のある方向に目を向けながら、グリゾリの腹を蹴りつける。
グリゾリは痛みで目を覚まし、腹部を押さえてゲホゲホと咳き込んだ。
「ただし、次はないけどね」
唯はそう一言だけ残すと、くあっと小さな欠伸をし、壁の穴から家の中へと戻っていった、
そして、藁にもぐりこんで、再び眠りについた。
家の外に取り残されたマイエラは、グリゾリに悲しそうに微笑んだ後、唯の後に続いて家の中に戻っていった。