第二話 ブオン村
ベルヴェは、努めて冷静でいた。
魔物との戦いで何度も命の危機に瀕した経験のあるベルヴェは、窮地こそ冷静さが必要だと知っていたからだ。
素手の一撃でアイアン・ウルフを葬ることができる少女――唯。
そんな恐怖を前にして、立ち続けた。
ベルヴェは改めて、唯を観察する。
見た目はマイエラと同じ、十六歳くらいと若い。
赤い長髪をツインテールにまとめているのが特徴的で、口角の上がり過ぎた笑顔と全身が返り血塗れでさえなければ、どこにでもいる普通の少女だ。
筋肉質だとか、全身傷だらけだとか、女戦士に見られる特徴もない。
ただし、唯の服装は別だ。
ベージュのブラウスに、ブラウンのセーラーカラーとスカートのセーラー服。
髪を止める黒いヘアゴム。
上から下まで人生で見たことのない服装に、ベルヴェは目を止める。
(この辺りでは見ない服だ。外国の服か? 生地も、かなり上等なものだ。外国の、王族か貴族か? いや、そんな高貴な身分の人間がこんな辺境の村まで、まして一人で来るなんてことはあり得ない)
ベルヴェは、服装から唯の正体を推測する。
思考を巡らせるベルヴェの視線は、自然と唯の全身を巡る。
「何? あたしの体をじろじろ見て。変態さん?」
「ああ、いや。失礼した」
そんなベルヴェの視線を、当然半分不快半分で受け取った唯は、吐き捨てるように言った。
苦言を呈した唯の言葉にベルヴァ我に返り、視線を唯の顔へと戻す。
「唯さん、と言いましたね? この度は、この村を救っていただき、感謝します」
ベルヴェは、アイアン・ウルフを一撃で倒す正体不明の少女に対し、感謝を選択した。
唯を感謝する対象であると明言することで、自分たちに唯への敵意がなく、かつ唯のことを味方だと信用しているとアピールした。
頭を下げて急所である首を見せ、その信用を形にする。
「別に助けたわけじゃないわ。ただの力試しだったのよ。あたしが鍛えた力が、こっちじゃあどれくらい通用するかのね」
一方の唯は、そんなベルヴェの態度に対して敬意を払う気はなかった。
むしろ、戦う意思がないことを残念そうにさえしていた。
ベルヴェが頭を上げると、唯の赤い瞳が冷たく刺さる。
依然、捕食者の目。
自然と、ベルヴェの背がぞくりと震える。
「ち、力試しとはいったい」
「そんなことより、あんたたちはこんだけ束にならないと、あの獣に勝てないってこと?」
唯はベルヴェの言葉を無視して、ベルヴェの後ろに立つ武器を持った男たちを見回した。
「そうなりますね」
「あたしは、それを一人で倒したってことよね」
「はい」
「つまり、このあたしが! 唯が! この中で最強ってわけだ!」
突然叫んだ唯に、ベルヴェが目を丸くする。
いや、ベルヴェだけではない。
集まっている男衆もマイエラも同様だ。
唯の言葉の真意が、この場にいる誰にも理解できなかった。
まるで時が止まったような空間。
唯だけが、スポットライトを浴びたように活き活きと動いていた。
「この世の理は、弱肉強食! 頂点に立つのは、いつだって最強! いい? たった今から、あたしがこの村を支配する!」
唯の言葉をすべて聞いてなお、唯の言葉の真意が、この場にいる誰にも理解できなかった。
通常ならば、馬鹿馬鹿しいと一蹴できる唯の一言。否、妄言。
だが、ベルヴェは次は一言の言葉を必死に考えた。
その妄言を吐いたのが、五歳の子供ではなく、アイアン・ウルフの群れを単独で滅ぼした強大な力なのだから。
いや、ただの強者ならばまだいい。
ベルヴェの瞳に映った唯は、アイアン・ウルフを仕留める際の拳に一切の躊躇いがない獣だった。
誰しも暴力を行使する時、加害をすることや殺害をすることに対して抵抗感を抱き、拳に迷いが生じるはずなのだ。
兵の訓練は、その迷いを消すことから始まる。
だが、唯にはそれがなかった。
本能的に暴力の行使を厭わない人間であると解釈した。
ベルヴェが最も恐れたのは、暴力への躊躇いのなさが、果たして魔物だけに向けられるのか、それとも人間にも向けられるのかだ。
対話とは、理性のある生物間でのみ可能である。
ベルヴェは、唯の理性に疑問を抱いていた。
「ふ、ふざけるな!」
回答に悩むベルヴェの代わりに答えたのは、村の少年だ。
手に持った剣を唯に向け、怒りの形相で叫ぶ。
「よせ!」
「突然来て、村を支配するとか、何を訳の分から」
ベルヴェが制止しきるより先に、少年の言葉が止まった。
否、言葉を発するための口を失った。
唯は少年の口を掌で塞ぎ、驚く少年をそのまま地面に叩きつけた。
少年の頭部は破裂し、周囲に脳と血がぶちまけられる。
「きゃああ!?」
マイエラが目を閉じる。
たった一瞬の出来事だった。
男衆は唯から離れるように後退し、中には恐ろしさでこけ、尻もちをつく者までいた。
唯がぐちゃぐちゃになった頭部から手を離し、ゆっくりと立ち上がる。
掌からは血が垂れ、服にこびりついた返り血の数がさらに増えていた。
「二度言わないわ。選べ! 死ぬか! あたしの下僕になるか!」
唯が周囲を見渡し、選択を迫る。
その表情は、下僕を強制するものではなく、どちらでもあたしは構わないという余裕が見て取れた。
村人たちの視線がベルヴェへと集まり、唯もまたベルヴェを見た。
ベルヴェは、音を立てて乾いた唾を飲み込んだ。
「降伏する! ブオン村村長ベルヴェの名において、ブオン村一同、唯様の下僕となることを誓います!」
唯が、人間に対しても暴力を向けることを躊躇わない。
その答えが出た時、ベルヴェは即座に跪いた。
村全体の指針を独断で決めるという越権行為とも言えるが、村の男衆は誰一人口を挟まなかった。
挟めなかった。
それほどに、唯が刻みつけた傷跡は大きかった。
頭部の潰れた村人の死体が、有無を言わさぬ圧力を放っていた。
唯はベルヴェの元まで歩き、跪くベルヴェの頭の上に足を乗せた。
下僕と主人。
その関係性を、屈辱と共にベルヴェの体に刻みつけた。
実の父親を足蹴りにされたマイエラは、心の中で怒りの炎を燃やすが、ベルヴェに倣って唯に跪いた。
一人。
また一人。
男衆は武器を置き、唯に向かって跪いていく。
「喜べ! お前たちは、あたしがこの世界に来てから最初に会った異世界人だ! あたしに従う限り、その命を保証しよう!」
唯の高い笑いが、村に響く。
家の扉がそっと開けられる。
避難の準備を進めていた女子供が、何事かと顔を覗かせた。