第8話 入学式
(あ……いつの間にか眠っていたみたいだ)
目を覚ますと、部屋の中は真っ暗になっていた。どうやら比呂はベッドに横たわったまま、眠り込んでしまったらしい。
視線を転じると、白羽と黒羽がカーテンレールの上に止まり、羽に顔を埋め仲良く眠っているのが目に入る。やれやれ、アネモネの姿を見た時は二羽ともあんなにはしゃいでいたのに。
くすりと笑った比呂は、はっとして身を起こした。
そうだ、今夜はアネモネが会いに来てくれたんだった。それなのに、迂闊にも眠ってしまうなんて。
慌てて隣に目をやると、彼女の姿は既になかった。アネモネは訪問する時も突然だが、去る時も突然だ。気づけばそばにいて、いつの間にかいなくなってしまう。
「アネモネ……行ってしまったのか。もう少し話したかったな」
身体から力が抜け、比呂はそのまま再び仰向けに横になる。返す返すも、アネモネの前で眠り込んでしまった自分の失態が悔やまれた。ああ、自分はなんてドジなんだろう。
でもこれからは、もっとアネモネに会える。祖母の家がある地方は田舎だったのでMEIS環境が整っていなかったし、人目が憚られることもあって、アネモネに会える時間や場所は限られていた。けれど新世界市は全国でも有数のMEIS環境が整っている街だし、おまけに下宿先で一人暮らしだから、以前より融通が利く。アネモネと一緒にいられる時間は増えるだろう。
そう考えると、胸の高まりを押さえることができなかった。次はいつ、アネモネに会えるだろう。
もっとも、比呂はアネモネが普段、どこで何をしているか全く知らない。彼女が本当は何者で、どういった目的を持って動いているのか。そして、どうして比呂に「君を一人にはしない」という約束をしてくれたのかも。
(アネモネ、僕はもっと君のことを知りたいんだ)
ただ、そんな比呂も、一つだけアネモネに打ち明けていないことがあった。
比呂は自分が幼い頃、交通事故で亡くなった母が、今もまだこの世界のどこかにいると信じている。だから、手掛かりを探し求めているのだ。
そして、できることなら、死んだ母をこの手に取り戻したい。母が何者かによって理不尽に『殺された』のなら、なおさら迎えに行かなければならない。
アネモネがそれを望んでいない事は知っていても、だ。
『比呂……こんなことになって、ごめんね。お母さんはずっとここにいるからね』
母の最期の声が今も比呂の耳に残っている。どれだけ時が経ち、身を置く環境が変わろうとも、それだけはどうしても忘れることができなかった。
大好きなアネモネに隠し事をするのは辛いし、心苦しくてたまらない。絶対に彼女を裏切るような真似はしたくない。だが、それでも母のことを諦めきれなかった。
比呂が地元の高校へ進学をせず、わざわざ新世界市にやって来た一番の理由は、母親を取り戻すというその願いを叶えるためだったのだ。
とはいえ、先ほどの様子だと、比呂が新世界市に来た本当の目的をアネモネもうすうす察しているようだった。
アネモネはそれをどう思っているのだろうか。怒っているだろうか。それとも――悲しんでいるのだろうか。
いつまでも母の死を受け入れられない、幼い子どものままだと内心では呆れているだろうか。
だが、もし彼女が比呂の選択を快く思っていなかったとしても、比呂は母を探すことをやめるつもりは無かった。
比呂はMEISを起動させ、叡凛高等学園から送信されてきたしおりを再び目の前に広げる。
「……。ネットオカルト研究部、か」
意外なことに、叡凛高校にはネットオカルト研究部なる部活動があるという。詳しい活動内容はしおりを見ただけでは分からないが、そのクラブ名から察するにネット上のオカルト情報に精通した部員が集まっているのは間違いないだろう。
B‐ITの現代においても、ネット上のオカルトや都市伝説――いわゆるネットロアには一定の人気がある。確認できるだけでもさまざまなネタがあるが、中でも特に比呂が注目しているのは、電脳幽鬼という怪談だった。
いくつかパターンがあるようだが、ざっくりまとめると、死んだ者が突然、復活し、故人の友人や家族といった親しい者の目の前に現れ、何食わぬ顔をして生前と同じ生活を続けるのだという。そしてまた、気づけばいつの間にかいなくなっている。まさに『幽霊』のように。
しかしその幽霊は、MEISを搭載している者にしか見えない。MEIS適合者のみ体験することができる怪現象なのだ。
それがMEISの不具合によるものなのか、ただの作られた怪奇譚なのか。それとも――現実にあった話なのか。実際のところはよく分かっていない。
でも……もし、本当にあった話なら。
比呂はそれが母を探しだす手掛かりになるのではないかと思っていた。もうこの世にはいない、けれど電脳世界のどこかにいるはずの母を。
その情報を得たいということもあり、比呂はネットオカルト研究部に強い興味を抱いていた。
(僕はもう一度、必ず母さんに会う。そして今度こそこの手に取り戻すんだ。でも……アネモネは、それを許してくれるだろうか?)
自問自答してみるが、答えは出ない。ただ、不意にアネモネの悲しそうな顔が脳裏に浮かぶ。幼い比呂が「お母さんを取り戻したい」と泣くたびに彼女が見せた、悲しみに満ちていてとても寂しそうな瞳が。
――ごめん、アネモネ。でも僕は……僕は、どうしても……。
比呂は再びベッドに横になる。何とはなしに窓の外へ視線を向けると、ベランダに設けられた柵の隙間から新世界市の夜景が見えた。溢れんばかりの街明りを眺めていると、まるで自分が数多の星々の海に浮かんでいるような心地になってくる。
このどこかにアネモネもいるのだろうか。そして、比呂が見ている景色と同じものを彼女も目にしているだろうか。そう思うと、心臓の当たりがキュッと締め付けられるのだった。
亡き母のことを忘れ、アネモネと楽しい日々を送る事だけを考えられたなら、どんなにいいだろう。あり得ないと分かっていても、その『もしも』に思いを馳せずにはいられない。
アネモネのくれた《電脳物質》の花束は、暗闇の中でも鮮やかな色彩を放っていた。気付けば比呂は、再び眠りに落ちていた。
✽✽✽
それから一週間、比呂は白羽や黒羽と一緒に新世界市の中を探検したり、妹の詩織を見舞ったりしてゆっくり過ごした。
新世界市は七つの区域に別れていて、それぞれの区域は明確な役割を担うよう設計されている。これからの三年間をこの街で過ごすのだし、できるだけ早いうちにそれらを頭に叩き込んでおきたい。
第五区域・先端技術研究地区や第七区域・中心市街地、第六区域・工業湾区など、高校とはあまり関係のなさそうな場所にも足を運んでみた。そこで実感したのは、どの設備や建物も実に洗練されていてお洒落だという事だ。
それでいて緑も溢れ、快適な都市空間を形成している。それらの各区域には特色あるさまざまな施設や機関を招致しているようだが、中でも特にB‐IT(Biological-Information technology)関係の企業が多い。
世界最大手と言われているソピアー社はもちろんのこと、国内外のB‐IT関連企業があちこちに研究所や支社を構えている。
WEB広告でよく目にする大企業も多い。それを目の当たりにすると、改めて都会に来たのだなあと実感するのだった。
そしていよいよ、叡凛高等学校で入学式が行われる日がやって来た。
その日はいつもより早く目が覚めた。白いシャツにネクタイ、紺色のブレザーに灰色のチェックのパンツ。叡凛高等学校から指定された制服に袖を通す。これだけで、まるで生まれ変わったような気がしてくるのだから、制服って不思議だ。
叡凛高等学校に登校すると、比呂たち新入生は第二体育館に集められた。叡凛高等学校には体育館が二つあり、第一体育館は屋内型スタジアムのような本格的なスポーツ施設となっていて、第二体育館の方はどちらかと言うとコンサートホールに近い作りをしている。
すり鉢状に配置された備え付けの座席の座り心地は抜群で、そこから見下ろす半円状のステージには、紅白幕で飾りつけがされていた。
同じ新入生とはいえ、周りはみな知らない顔ばかり。緊張する反面、自分のことを知っている者が一人もいないことに少しだけ安堵を覚える。
国歌斉唱の後、新入生紹介があり、それが終わると校長先生がステージに登壇した。
「新入生のみなさん、入学おめでとうございます。我が叡凛高等学校はこれまで多くの多層型電脳社会を支える人材を育み、社会に送り出してきました。新入生の皆さんも勉学やクラブ活動に励んで研鑽を積み、豊かな交友関係を築いてコミュニケーション能力を磨き、そして高度な情報技術と情報リテラシーを身に着けて、是非とも先に社会で活躍する先輩たちの後に続いてください」
叡凛高校の校長は女性だ。名前は冴島充希というらしい。ふくよかな体つきをしていて、上品で優しそうな、まさに校長先生というイメージ通りの人物だ。
彼女の長い式辞に耳を傾けた後、新入生代表による宣誓があり、在校生のあいさつと校歌斉唱が続く。
全てのプログラムが終了した後、新入生はそれぞれのクラスに移動することになった。
比呂のクラスは一年A組だ。担任教師は内藤文歌先生。三十歳の女性教師だ。
「新入生のみなさん、入学おめでとうございます。これから一年間、私がこのクラスを担当します、内藤文歌です。よろしくお願いしますね。それじゃまずは自己紹介をしてもらいましょうか」
担任の内藤先生はそう自己紹介すると、《電脳物質》でできたチョークを手に取り、電子黒板に自分の名を大きく書いてから、再び教室内へ振り返った。溌剌としていて、きびきびした動作だ。
クラスメートの数は比呂を含めて35人。みな、比呂と同じでどことなく緊張しているように見える。
比呂の席はちょうど窓際だった。窓の向こうでは桜の花が咲き誇り、そのさらに向こうにはグラウンドや体育館などの施設、そして校門も見渡すことができる。比呂はそれとなく、校門の方へ視線を向けた。
(黒羽と白羽、大人しくしているかな……?)
校内に電脳ペットを連れて入ると、アプリごと消去されてしまうから気を付けた方がいい。女子テニス部の先輩、三雲るりはそうアドバイスしてくれた。比呂はその助言に従い、白羽と黒羽を学校の外へ『置いて』きたのだった。
二羽の姿を非表示にすることもできたが、どういうわけか白羽と黒羽は勝手にそれを解除してしまう。彼らを校外に放置しておくのは心苦しかったけれど、わざわざ校則に反するようなことをして、入学早々に波風を立てるわけにもいかない。
白羽と黒羽は、ああ見えて意外と品行方正だから、きっと比呂の言いつけを守ってくれるだろう。
(……それにしても、このクラスにもあの不気味な『黒煤』を付着させた生徒がちらほらいるな。どういうことなんだろう……? しかもやっぱり、みんなそれに気づいていないみたいだ。これは……ひょっとすると、おかしいのは僕の方かな? 僕のMEISに、本格的に不具合が生じているのかも……)
比呂は教室内へ視線を戻す。全部で四、五人ほどだろうか。体の一部に例の黒い粒子をまとわせた生徒がちらほら見受けられた。
黒煤の濃度はそれぞれで、ちょっとした汚れ程度の生徒もいれば、顔や手足まで煤まみれになってしまっている生徒もいる。比呂の真横に座っている女子生徒などは、特に黒い粒子の濃度が濃い。濃紺色のブレザーはもちろん、白いブラウスや赤いタイまでも黒ずんでいる。
心なしか表情も暗い。顔にも『黒煤』が張り付いており、無表情なのも相まってか、血の気を失って青ざめているように見える。
比呂は既に新入生にもダウンロードを許可され、共有されている顔認証アプリで彼女の名を確認してみた。テニス部の先輩、三雲るりも使用していたもので、叡凛高校の教師や生徒なら誰でも利用できるのだという。彼女の名はすぐに分かった。
(桜庭芽衣……地方出身者で、アクセス権は僕と同じ3か)
比呂が心配する間も黒い粒子はザワザワと増殖を続け、彼女の体を蝕んでいく。そのせいか、どうにも目が虚ろで生気に欠けているように見えるのだが、比呂の気のせいだろうか。それとも、単に緊張して表情が強張っているだけか。
見たところ、どこか具合が悪いわけではないようだが、ここまで全身が黒ずんでいると、さすがに異様だと言わざるを得なかった。桜庭芽衣は本当に大丈夫なのだろうか。
あまりじろじろ見つめても悪いと思いつつ、比呂は隣の女子生徒のことが気になって仕方がない。するとその時、担任教師の内藤文歌が比呂の名を呼んだ。
「はーい、それじゃ次は香月比呂くん! みんなへのあいさつと自己紹介よろしくね」
「……え? あ、はい!」
比呂は慌てて立ち上がった。自己紹介の順番が回ってきたのだ。クラスのみなの視線が集まる中、比呂は口を開く。
「ええと……僕の名前は香月比呂です。アクセス権は3です。性格は真面目で頑張り屋、だと思います。趣味は文通です。あと、叡凛中等学校に通っている妹がいます。早くこのクラスや新世界市での生活に慣れて、充実した高校生活を送りたいです。一年間、よろしくお願いします」
おそらく可もなく不可もない、しごく無難な自己紹介。クラスのみんなが拍手を送ってくれる。
(まあまあ、うまくいったかな……)
比呂が着席すると、それと交代する形で別の生徒が立ち上がって自己紹介を始める。
他の同級生の自己紹介を聞いていて気づいたが、どうやら叡凛中等学校や叡凛小学校からの繰り上げ組も多いようだ。彼らも入試を受けているはずだから、エスカレーター方式で入学したというわけではないようだが、クラスメートのおよそ三割が小中学校も叡凛出身だという生徒で占められている。
もっとも、叡凛高等学校と叡凛中等学校、そして叡凛小学校はどれもみな叡凛大学の系属校である事を考えると、それほど不思議なことではないかもしれない。妹の詩織も入学が認められれば、叡凛高等学校に通うことになるだろう。
そうして学級開きもつつがなく終わり、あっという間に下校時間がやってきた。
(このあと、いよいよ体育館で部活紹介か)
参加は任意で強制ではないけれど、比呂はその部活紹介に参加する予定だった。目当ては例の、ネットオカルト研究部だ。
事前に配布されたしおりで、部活紹介にネットオカルト研究部が出ることは確認してある。部活動の内容も大事だが、ネットオカルト研究部の部員がどんな人たちなのか、それも同じくらい重要だ。
ふと気になって教室内を見回すと、隣席に座っていた女子生徒、桜庭芽衣の姿はもうどこにもなかった。教室の中はもちろん、廊下にも見当たらない。先に帰ってしまったのだろうか。
(彼女……ちょっと気になるな。機会があったら、こんど話しかけてみようか)
比呂は気を取り直し、体育館へと向かった。部活紹介が行われるのは第一体育館、つまり屋内型スタジアムの方だ。
さっそく足を向けるが、館中は閑散としていて殆ど生徒がいなかった。どうやら部活紹介は十三時半かららしい。それまでには、ちょうど二時間ほど待たなくてはならない。そこで比呂は食堂へ行き、昼食をとることにした。
食堂へ行ってみると、これまたびっくりするほどお洒落だった。空間が広々としていて日当たりもよく、照明や家具も高級レストラン顔負けの都会的なデザインをしている。
カウンターへ行くと注文をした料理が自動で出てきた。もちろん出来立てで温かいし、注文するとすぐに出てくるので並ばなくていい。MEISで設定をしておけば、こちらの栄養状態に合わせてメニューをおすすめしてくれたり、栄養指導をしてくれることもあるという。
因みに、この学食も無料で利用できる。それもあって人気があるらしく、多くの生徒が利用していた。
それから、十三時になるのを待って改めて第一体育館へと向かう。すると今度は、先ほどとは打って変わって大勢の生徒が詰めかけていた。
競技場の中央にはステージが設けられており、その周囲にずらりとパイプ椅子が並べてある。まるでアリーナ席みたいだ。
ただ、その更に外側にも二階建ての観客席(スタンド席)があることを考えると、生徒に対して椅子の数が多すぎる気がした。実際、体育館に来た生徒はみなパイプ椅子に座っていて、観客席の方はガラガラだ。
せっかく観客席があるのに、どうしてわざわざアリーナ席を設けたのだろう。不思議に思いつつも、比呂はステージに近いパイプ椅子の一つに腰かける。ステージの真ん前で、最前列から三列目だ。
部活紹介が始まる五分前になった。その頃になると、体育館は生徒で一杯になり、パイプ椅子はほぼ満席だ。
ただ奇妙なことに、観客席の方は相変わらず無人だった。
もっとも、その理由を比呂はすぐに知ることになる。
『新入生のみなさん、ご入学おめでとうございます! これより、叡凛高等学校・部活紹介、始まりまーす!!』
騒めく館内に生徒のものと思しき放送が流れたその瞬間。
比呂の視界が大きく切り替わった。