第7話 アネモネ②
そんなことはない。
たとえ肉体がなくとも、アネモネに心がないなんてあり得ない。
何より、大好きなアネモネにそんな悲しそうな顔はさせたくなかった。比呂はベッドの上に置かれたアネモネの手を握る。そしていつになく真剣な表情で身を乗り出した。
「アネモネに心はあるよ! それを証明するのはとても難しいことかもしれないけれど……でも例えば、君がこうして会いに来てくれると僕はとても嬉しい。君と一緒にいると、胸の奥がじんわりと温かくなって、とても幸せな気持ちになるんだ。僕が君に対してそんな感情を抱くのは、君に心があるからだと思う。僕の心が君の心に反応しているんだ!」
すると、アネモネは再び例のいたずら妖精みたいな笑みを浮かべた。そしてアネモネもまた、比呂へ向かって身を乗り出してくる。
「ふふ、面白い考えだね。君の心が僕の心に反応している……か。それなら、もし僕の心が激しく情熱的な鼓動を打ったなら、君の心はどう反応するのかな?」
「えっ……えええ!? そ、それは……ええと……」
比呂は途端に赤くなってしどろもどろになってしまった。比呂がアネモネを大好きなことに嘘偽りはないけれど、それを面と向かって口にできるほどには大人ではなかった。
何より、アネモネの顔が近い。あまりにも近すぎる。比呂はつい反射的に、上半身を仰け反らせた。しかし比呂が仰け反れば仰け反るほど、アネモネも身を乗り出してくる。
「き、きょうのアネモネは、随分と積極的……だね?」
上擦った声でそう言うと、アネモネはさらに比呂へと近づいて来る。彼女の蠱惑的な吐息が、比呂の頬を優しく撫でる。
「僕はいつだって積極的さ。だって最近の君ときたら、すぐに恥ずかしがって逃げてしまうんだから。僕は君を逃がさないよう一生懸命なんだよ」
「だ、だからそれは、決して逃げているわけじゃなくて、僕はただ……」
「ただ?」
「アネモネに嫌われたくないだけ……って、うわあ!」
もはや仰け反るのも限界だった。比呂はとうとう体勢を崩して仰向けに倒れ込む。身を乗り出し過ぎてほとんど馬乗りになっていたアネモネも、その弾みでバランスを崩し、比呂の上に倒れ込んだ。仰向けで横たわる比呂の上に、うつぶせのアネモネの上半身が重なる。
「ふふふ……あはははは! 僕の勝ちだよ、比呂! 言っただろう、君を逃がさないって!」
比呂を押し倒したアネモネは、子どものように無邪気に喜んだ。そして、屈託のない笑い声を上げながら、ぎゅうっと比呂を抱きしめる。
「まったく……本当、アネモネにはかなわないな」
比呂もまたアネモネの背中に両手を回し、そっと抱きしめ返す。先ほどの卓上ミラーを見上げるが、やはりそこにアネモネは映っていない。映っているのは、ベッドの上で仰向けに横たわる比呂の姿のみだ。
(確かな重みと温もり、そしてまるで本物みたいな質感と触感。間違いなくここにいるのに、アネモネに実体はない。MEISのみが彼女の存在を感知し、その存在を証明することができる。《電脳物質》と同じように。彼女は最初からそうだった。アネモネ、君は気に留めていないみたいだけど、僕は時おり不安に思うことがあるんだ。いつか君が本当にどこか遠い所へ行ってしまうんじゃないかと……そしてもう二度と、会えないんじゃないか、と)
もちろん、肉体を持った人間同士にだって別れはある。未来に起こるかどうかも定かでないことを、今からあれこれ案じたって仕方がない。分かってはいるものの、比呂はぼんやりとした不安を胸から拭い去ることができなかった。
比呂がアネモネとこうして触れ続けることができるのは、おそらく奇跡に近いのだという事を、これまでの経験でおぼろげながらに理解していたからだ。
アネモネと離れたくない。これからも一緒にいたい。ずっと……ずっと。
でも、この関係はきっと永遠じゃないのだ。
比呂の葛藤が伝わったのだろうか。アネモネは急に静かになった。比呂の胸に右の耳を当て、心臓の音を聞くみたいな体勢でじっとしている。
彼女は何を考えているのだろう。何故、急に黙り込んでしまったのだろう。声をかけてみようか。でも、どんな言葉をかけたらいい?
悩んでいると、アネモネはふと口を開いた。先ほどとは一転し、静かな口調だった。
「比呂、貴嗣には会ったかい?」
「……。父さんは、僕とは会いたがらないよ」
自分の声が冷たさを帯びているのが分かった。だが、自覚していてもどうしようもない。アネモネは諭すような声音で続ける。
「そんなことはない。彼は苦しみを抱えているんだ。そして自らを罰することで、その苦悩をどうにかやり過ごそうとしている」
「……」
「貴嗣は君によく似ているよ」
「……その話はよそう。妥協点を見い出せる自信が無い」
「そうか。比呂がそう言うならやめておこうか」
アネモネの声はあくまで優しかった。いつも、比呂にそうしてくれるように。そして小さく付け加える。
「……すまなかった。君を傷つけたいわけじゃないんだ」
「分かってるよ」
しばらく互いに無言だった。静寂が部屋を包み込む。
「ねえ、比呂。君が新世界市にやって来たのは、ひょっとして……」
そう口にしかけたアネモネは、すぐに比呂から体を起こし、首を振った。
「いや、この話も今はやめておこう」
「アネモネ……?」
アネモネはゴロンと転がって仰向けになり、比呂の隣に横たわった。ベッドはシングルなので、二人並んで寝転がるとかなり手狭だ。おかげで、比呂の左半身とアネモネの右半身はぴたりと密着しているが、全く窮屈には感じなかった。
「比呂、君は意外と意志が強く強情なところがあるから、きっと今は僕の忠告を聞き入れないだろう。もちろん、そうしたって構わない。せっかくの高校生活なんだから、心ゆくまで楽しんで欲しいと僕も思う。でも、もし……辛く苦しいことがあったら、もしくは誰にも打ち明けられない悩みができたら、その時はこの僕を呼んでくれ。約束する。どこにいても、きっとすぐ君のそばへ駆けつけるよ」
アネモネは首を傾け、比呂の方を見て微笑む。比呂も同じようにして笑顔を返す。
「アネモネ、これからは以前より一緒にいられる時間が増えるかな?」
「そうだね。間違いなく共に過ごせる時間は増えるよ。せっかくだからいろいろなところへ行こう! 新世界市にはさまざまなスポットがあるんだ。第七区域・中心市街地が最も華やかだけど、第一区域・港湾地区もそれに負けないくらい魅力的で楽しい場所だよ。スポーツ施設や観光スポットなど見どころが満載で、辛いことなんてきっと三秒で忘れてしまう」
「そういえば、ベイエリアには水族館もあったよね? すごくモダンでおしゃれな建物の。モノレールに乗って新世界市に来た時から気になってたんだ。今度、一緒に行こうよ!」
「それは良いね。僕は海が大好きだから、大賛成だよ」
「アネモネはどんな魚が好きなの?」
「何といっても鯨かな。まあ、厳密には鯨は魚類ではないけれど。……彼らはとても頭のいい種族だ。おまけに寡黙で思慮深い。彼らと会えたら、きっと心が躍り上がるほど感動するだろう」
「そういえば、アネモネは昔から鯨が好きだったね。いつか僕も鯨と会話をしてみたいな」
「君たちの用いているMEISなら、それを叶えてくれる時が来るかもしれないね」
アネモネは瞳を輝かせた。普段の彼女は世界の全てを知り尽くしたような超越性を感じさせるのに、比呂の前では純粋な子どものような一面も見せる。それを目にし、比呂は必ず彼女を第一区域・港湾地区にある水族館に連れて行ってあげなければと、心に誓うのだった。
アネモネが望むなら、何だってしてあげたい。アネモネが比呂にしてくれたことの大きさに比べれば、比呂がアネモネにしてあげられることはあまりにも少なく、そして些細だ。でもだからこそ、自分が出来得る限りのことを彼女にしたかった。
何より、アネモネが嬉しいと比呂も嬉しい。あのお洒落な水族館で一緒に過ごせたら、どんなに素敵だろう。
(ひょっとして……それって一応、デート、ということになるのかな……?)
比呂はそう思いつき、一人でドキドキしてしまった。アネモネはよく比呂の元へ会いに来てくれるけれど、どこかへ一緒に出掛けたことはない。
光を湛えた水槽、その中を泳ぐ色とりどりの魚たち。比呂とアネモネは並んでその中を歩いていく。想像しただけで、心臓が飛び跳ねそうだ。この心臓の高鳴りを、アネモネに気づかれてしまっただろうか。
「ところで比呂、君はどんな魚が好きなんだい?」
当のアネモネは特に顔色も変えず、比呂に尋ねる。比呂は、うーんと唸った。
「僕はフツーにペンギン……かな?」
「意外だな。昔はイルカが好きだと言っていたのに」
「イルカも好きだよ。でも、何というか……いつも白羽や黒羽と一緒にいるせいか、最近は魚やイルカより鳥類が気になるんだよ。妙に親近感が湧くっていうか……」
「ははは、とても比呂らしいね」
それから比呂とアネモネは、どちらからともなく、それぞれの右手と左手を繋ぐ。アネモネの手は柔らかく、肌は絹のように滑らかで、温かいけれど指先は少しだけ冷やりとしていた。
「……君はどんどん変わっていく。でも僕はずっと変わらない。これはやっぱり寂しいことじゃないかな? 僕たちが一緒にいられる期間は限られているということだから」
「そうとは言い切れないよ。僕が変われば僕の周囲の『世界』も変わる。そうすればアネモネは今までとは違う新しい世界と繋がることができる。ねえ、アネモネ。君と僕が『同じ』じゃないのは事実だけど、それは決して寂しいことじゃない。僕がいて、君がいて。だからこそ、世界はどんどん拡がっていくんだから」
比呂が答えるとアネモネは目を瞬き、次いで嬉しそうに頷いた。
「そうか、そういう風に考えることもできるね。……ありがとう、比呂」
そうしてアネモネは、比呂から天井に視線を転じると、静かに瞳を閉じる。
「……こうしていると、君と初めて会った時のことを思い出すよ」
比呂もまた天井を見つめ、その頃のことに思いを馳せた。
両親が離婚し、比呂は妹の詩織と共に母の香月杏奈に引き取られた。だが、その母も数年後に事故で亡くなった。比呂が八歳の時のことだ。
父や母と立て続けに離れ離れになり、失ったこともあってか、比呂は孤独な幼少時代を過ごした。
そんな時だった。アネモネと出会ったのは。
世界の全てが燃えるような赤い夕暮れに染まる中、アネモネは突然、比呂の元へとやって来た。そして約束してくれたのだ。「君を一人にはしない」、と。
それにどれだけ救われたか分からない。何故なら、幼かった比呂の心は誰にも癒すことができないほど、傷つき打ちのめされていたからだ。
比呂はその途轍もない寂しさと埋めようの無い孤独を、周囲に打ち明けることができなかった。ただでさえ心労の多かった祖父母を心配させたくなかったし、妹の詩織は比呂より更に幼かったので不安にさせたくなかった。
MEISで誰かと繋がっていても、祖父母や妹と一緒にいても、その寂しさや孤独は消えない。そういった時、アネモネは必ず比呂の元へ来てくれた。初めて出会った時に約束した通り、比呂が一人ぼっちにならないようにしてくれた。
たとえば……あれは、いつの頃だったろうか。比呂がアネモネと出会って数年後、まだ小学校の低学年だった時のことだ。
確か、何か耐えられないほどショックな出来事があり、祖父母宅の近くにある公園の一角にうずくまってひとり泣いてしまったことがあった。当時は辛いことや悲しいことが山のようにあったため、詳細はいちいち覚えていない。けれど、幼かった比呂の心が現実を受け止められず、深く傷ついてしまったのは事実だった。
家で泣いたら祖父母を不安にさせてしまうし、かと言って学校にも心を許せる存在はいない。常日頃から閑散としていて誰にも注目されていないその公園の片隅だけが比呂の居場所だった。
目立たぬよう小さく蹲り、肩を震わせ、声を押し殺すようにして小さく嗚咽を漏らしていると、背後から突然、声をかけられた。
「比呂、どうしたんだい?」
「あ、アネモネ……!」
比呂は驚いて後ろを振り返った。まさかこの寂れた公園内に、自分以外の人がいるとは思っていなかったからだ。公園に赤々とした落陽の光が降り注ぐ中、そこにはいつの間にかアネモネが立っていた。
十代後半の少女の姿をしていて、黒い髪に黒い服、そして宝石のような輝きを持つ真っ黒の瞳。首元のチョーカーだけが眩いほど赤い。そんな、今と全く変わらぬ姿で。
「……何かあったんだね? 何かとても辛くて悲しいことが」
「どうして分かるの?」
「僕にはいつも君の声が聞こえてくるんだ。君が笑う声、君が恥ずかしがる声、君が楽しんでいる時の声、君が頑張っている声。そして……君が悲しみに震える声。その全てが。さあ、話してごらん。何があったんだい?」
幼い比呂は、くしゃっと表情を歪めると、アネモネに抱きついた。当時の比呂はまだ小さく、背もアネモネの腹のあたりくらいしかない。そんな比呂の後頭部をアネモネの手がゆっくりと優しくなでる。比呂はとうとう堰を切ったように心の内を吐露した。
「お母さんに……お母さんに会いたい。お父さんに会いたい……! どうして僕はいつもひとりぼっちなの? 翔くんの家も、麻里奈ちゃんの家も、ちゃんとお父さんとお母さんがいるのに……!」
「比呂にも家族がいる。祖父母に妹の詩織……君は決して一人じゃない。お祖父さんとお祖母さんのことは嫌いかい?」
「嫌いじゃないよ、大好きだよ! でも……それだけじゃ、完全じゃない。お父さんとお母さんが一緒でなきゃ……!」
「比呂……」
「僕は……僕は知ってるんだ。みんなが僕のことを、『悪魔の子』だって言ってること。お母さんは事故で死んでしまったけど、本当は『殺された』んだってこと……!!」
比呂は過呼吸のように喘ぎながら、どうにかその言葉を吐き出した。あまりの恐ろしさに、声はもちろん身体もカタカタと震えていた。どうしようもなく残酷で、口にすることさえも苦しい『事実』。アネモネは眉をひそめ、呟いた。
「まったく、誰が君にそんなことを……! ……いや、それはいま問題ではないな」
「本当なの、アネモネ? お母さんは『殺された』の?」
「もしそれが事実なら……君はどうするつもりだい?」
光の反射角度によって青にも紫にも見える、不思議な光を湛えたアネモネの黒い瞳が、まっすぐに比呂を見下ろす。比呂は涙を浮かべ、それを見つめ返した。
「それなら……僕はお母さんを取り戻す。だってお母さんは何も悪くないのに、命を奪われてしまったんでしょ? そんなの可哀想だよ!! それに……お母さんは僕に言ったんだ! ずっと僕のことを待ってるって……!! だから僕、お母さんを迎えに行かなきゃ……」
すると、アネモネは静かに首を横に振る。
「比呂、恐ろしい事を考えてはいけないよ。失われたヒトの命は、二度と戻らないんだ。どれだけ科学や技術が発展したとしても、その理だけは変えられない。たとえ肉体を再生することができたとしても、魂までは戻らないんだ。本当は君も分かっているんだろう?」
「な、何でそんなこと言うの? アネモネは意地悪だよ!」
「ごめん、比呂。でも僕は……君には君のままでいて欲しいんだ。僕は君のことが大好きだから。君のことが、何より大切だから」
アネモネの眼差しは悲しげで、そしてとても優しかった。
彼女の言葉は比呂にとって絶望でしかなかったが、同時に比呂に対する愛情で溢れているのも分かっていた。だからこそ、それ以上アネモネを責めることはできなかった。
どんなに不条理で納得がいかなくとも、たとえその存在が幻であったとしても。アネモネが与えてくれる温もりを振り払うことはできなかった。
「アネモネ、アネモネ! アネモネぇぇ……!!」
比呂は再びアネモネに抱きつき、えぐえぐと泣きじゃくる。アネモネはそんな比呂の背中をそっと撫で続けた。鮮やかな茜色をした夕日が、比呂とアネモネを照らし出す。地に落ちる長い影は一つだけだが、それでも彼女は確かにそこにいて、静かに比呂へと囁きかける。
「大丈夫。僕は……僕だけはずっと、何があっても君のそばにいる」
「うん、アネモネ……。うん……!」
比呂は何度も頷いた。アネモネを抱きしめ、何度も、何度も。
そういったことは、一度や二度ではなかった。比呂はそれ以降もたびたび『一人ぼっち』になったが、必ずアネモネはやって来て、比呂のそばに寄り添い、手を握り、時には優しく抱きしめ、最後まで話を聞いてくれた。
不思議と比呂は、アネモネに対しては何でも打ち明けることができた。アネモネが『普通の人』でないことは最初に会った時から気づいていたが、それでも彼女と一緒にいる時は淋しさを忘れることができた。
それが何故なのかは分からない。
分かっているのは、アネモネが比呂にとって孤独を消し去るほど特別な存在ということだけ。
どれだけ辛い目にあっても比呂の心が完全に凍り付いてしまわなかったのは、アネモネがいてくれたからだ。
彼女がいてくれたから、比呂はきっと比呂のままでいられた。




