第65話 そして、別れ
比呂はアネモネの手を優しく包み込む。
「言っただろう、アネモネ。僕は君に僕たちのような肉体が無くても、君のことを『生命』だと思っている。君は間違いなく僕たちと同じヒトだよ。だって僕は君のことを想うと、こんなにも苦しい。君が僕のためを思って嘘をつき続けてくれたこと、心苦しかっただろうに秘密を守ってくれたこと。その間、君がどんな思いでいたのか、想像するだけで魂がこんなにも激しく揺さぶられるんだ」
「比呂……」
「アネモネの気持ちを僕が完全に理解することはできないのかもしれない。アネモネの心はアネモネにしか分からない。でも僕はアネモネが好きだよ。たとえアネモネが僕を欺いていたのだとしても……それでも、アネモネのことが大好きだよ」
それは嘘偽りのない、比呂の本心だった。アネモネが好きだ。他の誰よりも大好きだ。彼女の変わりなんて、どこにもいない。もしアネモネが比呂を裏切っていたとしても、それでもやっぱりアネモネが大好きだ。
すると、アネモネは初めて微笑む。その瞳は心なしか潤んでいた。
「……とても不思議だ。その言葉を聞けて、僕はとても嬉しい。君が僕の事を好きだと言ってくれるだけで、こんなにも幸せな気持ちになれる」
「本当?」
「ああ。とても……とても心地の良い優しさと温かさで、胸がいっぱいに満たされているようだよ」
「それはきっと、アネモネの中にも愛があるからじゃないかな。アネモネのことを好きだと思う僕の気持ちに、アネモネの心が共鳴しているんだ。きっと……そこに愛があるからこそ」
比呂がそう囁くと、アネモネは比呂の指に自らの指を絡ませる。
「……そうか。もしこれが『愛』であるなら……『愛』とはとても神秘的な情報のやり取りだね。一見すると片方向であるように感じられるのに、同時に双方向的でもある。想いが通じ合うのは一瞬で、でもその一瞬は永遠にも等しい広がりを内包しているんだ。単純であり、複雑であり、曖昧模糊としているようでいて確かにそこに存在する。理論ではとても説明できない。実に不可思議で興味深い現象だよ」
それを聞いた比呂は破顔する。
「アネモネは難しく考えすぎだよ。でも、僕はそんなアネモネも大好きだ。アネモネ、愛してる……!!」
そして比呂はアネモネを抱きしめた。
躊躇なく、思いきり抱きしめた。
アネモネは一瞬、驚いた表情をする。比呂の方からアネモネに抱きついたのは久しぶりだったからだ。
けれどアネモネもすぐに嬉しそうに笑って、比呂の背中に両腕を回し、その体を抱きしめた。
「……ああ、僕もだ。比呂、愛してるよ」
頭上からキラキラと輝く破片……《表層》から降ってきた情報の欠片が雪のように降ってきて、足元に横たわる暗闇へと吸い込まれていく。その様は、水底から浮かんだ泡が元いた場所へ戻って行くようでもあり、無数の星々が宇宙の彼方へ流れていくようでもあった。
そんな、この世ならざる幻想的な光景の中、二人は熱い抱擁を交わし合う。
アネモネに肉体はない。でもこうして、比呂は彼女の温もりを、体の柔らかさやしなやかさを感じている。
それだけで十分だ。アネモネが何であるかなんてどうでもいい。たとえヒトでなくたって構わない。
こうしてそばにいてくれたら、ただそれだけで。
他には何も望まない。
「僕とアネモネ、ずっとこうしていられたらいいのに」
唇から思わず本音が零れる。けれど、アネモネは小さく首を振った。
「それは無理だ。君は長くはここにいられない。君には戻るべき世界がある」
「分かっているよ。でも……君と離れたくないんだ。いちど離れたらもう二度と会えない気がして……!」
「比呂……」
アネモネはひときわ比呂を強く抱きしめると、静かに瞳を閉じる。
「……ありがとう。ようやく決心がついたよ」
「アネモネ……?」
比呂はその言葉に違和感を覚え、アネモネから体を離した。
決心がついた……? 彼女は一体、何の事を言っているのだろう?
すると、アネモネの背後で何かがぞわりと蠢いた。
――いつの間に。比呂はぎょっとする。
それは巨大な黒い塊だった。色や質感は《アンノウン》に酷似しているが、大きさが尋常ではない。叡凛高等学校の屋上に出現した、規格外のサイズをした蛾型の《アンノウン》より更に巨大だ。
ただ、あまりにも大きすぎてその巨体を維持することができないのだろう。ぐにゃぐにゃとしたアメーバのような形と成り果てている。もはや何であるのかすらも判然としないほど崩壊しきったその姿は、杏奈に擬態した《アンノウン》の末路を彷彿とさせた。
だが、それほどまでに不安定な形状をしているにもかかわらず、彼が凄まじい感情の波動を放っているのは、はっきりと伝わって来た。
怒り、苦しみ、困惑、憎しみ……およそ人間の抱くことのできる負の感情の全てをその身にまとい、対峙するだけで全身に鳥肌が立つほどのおぞましい化け物となってしまっている。
比呂はぞっとしながらアネモネに尋ねた。
「アネモネ、これは……!?」
「新世界市に放たれた人工の《アンノウン》の集合体だ。そのうち、学校に出現したものは君が《メタ・ホール》で吸い込み、病院に出現したものは《深海の魔女》が倒したり僕が『深淵』へ送り還したりした。でもそれは、全体のごく一部に過ぎない。街中にはかなりの量の《アンノウン》が残されていたし、病院の《アンノウン》も手強くて、僕でさえ一度に除去することはできなかった。だから、それらをここまで一緒に連れてきたんだ」
「僕たちはこんな恐ろしい相手と戦っていたのか……」
「彼らは何故、自分たちがこの世界に生み出されたのか分からず、戸惑い、苦悩し、嫌悪を燻らせ、自らが存在する世界に対して怒りや憎しみさえ抱いている。それが強い破壊衝動へと繋がっているんだ。他の《アンノウン》とは比べ物にならないほどの強く暗い、怨念ともいうべき感情を宿しているんだよ」
「そうか……確かに恐ろしいけど、何だか……とてもかわいそうだね」
比呂は少しだけ目の前の《アンノウン》に同情した。
新世界市や叡凛大学附属病院、そして学校を滅茶苦茶にされかけた時は、《アンノウン》の存在が恐ろしくて仕方なかった。比呂たちの世界を破壊しようとすることが許せなくて憎かったし、除去することしか考えられなかった。
けれど彼らもまた、好んで《表層》にやって来たわけではないのだ。ただ、ヴォイドの企みに巻き込まれてしまっただけで。
比呂の言葉に、アネモネも頷く。
「ああ。彼らは自分以外の他者の都合でその存在を歪められてしまった。その歪みが、彼らをこんな恐ろしい姿にしてしまっているんだ。その間違ったもつれを戻し、僕が新たな秩序を与えよう」
そう言うと、アネモネは手を伸ばし、アメーバ状の《アンノウン》にそっと触れた。
次の瞬間、真っ黒い巨体が大きく変形していき、やがて流れるような美しい流線形へと姿を変える。
目の覚めるような純白に輝くその姿は、一頭の大きなシロナガスクジラだ。
「……! これは、鯨……!?」
「うん、いいね。その姿の方が君にはふさわしい。とても美しいよ」
アネモネは目を細め、満足そうに微笑んだ。
「さあ、『深淵』の奥深くへ戻ろう。君はここにいるべきじゃない。在るべき場所へ僕と共に還ろう」
鯨はアネモネの提案に答えるかのように、ゆったりとした甲高い鳴き声を発す。その声は空間全体を震わせ、どこまでも響き渡る。
「白羽、黒羽。おいで」
次にアネモネが呼びかけると、どこからか二頭のペンギンが現れ、光が差し込む空間の中を滑るようにして泳いでやって来た。
背中は黒いが、ぽってりとした腹は白い。愛くるしい姿をしているにもかかわらず、空を飛ぶのと変わらないほどの凄まじい速さで、比呂の周りを旋回する。キラキラと輝く光の破片が尾を引き、彼らの泳ぐ軌跡を残す。
比呂は目を見開いた。
「白羽と黒羽……? 二人ともどうしたんだ、その姿!?」
「ここは《表層》じゃない、《漸深層》だ。だから環境に合わせて姿を変えたんだよ。肉体を持たない、情報生命体ならではだね」
アネモネはそう言うと、ペンギンたちへ告げた。
「白羽、黒羽、比呂のことを頼むよ」
その言葉を聞き、比呂は眉根を寄せる。
「アネモネ……? アネモネはどうするの!?」
するとアネモネは、大きなシロナガスクジラへと視線を向けた。
「僕は『彼』を『深淵』まで送り届けなければならない。だから比呂、君とはここでお別れだ」
「また……会えるよね!?」
「……約束はできない。いつ戻れるか、そもそも戻れるかどうかも分からないんだ。なにしろ、電脳識海はあまりにも広くて深いからね。でも……それでも、僕は行かなくてはならない」
「どうして!」
叫んでから比呂は気づく。
「もしかして……僕のため……?」
初めて出会ってからずっと、アネモネが動くのはいつだって比呂のためだった。自惚れでも何でもない。それは確かな事実だった。アネモネは頷く。
「僕はヒトのことを完全に理解しているわけじゃない。この新世界市のことも、興味深いとは思っているけれど、君がこの街に抱いている情熱を完璧に共有することができるわけじゃない。僕にとってこの街はあくまで《表層》に多く存在する都市機構、情報集積地の一つに過ぎないのさ。
でも……比呂、君は新世界市を守りたいと言った。ここで生きる人たちを、友人たちを守りたいと言った。それほどまでに君が守りたいと願うものなら、僕も共に守りたいと思う。僕も君のいる世界を守りたいんだ。
……他の誰でもない、君だけのために」
アネモネの瞳には揺るぎのない静かな決意が浮かんでいる。
「比呂、君が僕に『愛してる』と言ってくれた時、そうすべきだと分かったんだ。……君と別れるのは辛い。とても……とても、ね。でも、それでも僕は行かなければならないんだ。君を愛する気持ちに嘘はつけないから」
「アネモネ……!!」
行かないで。そう訴えたかった。
どこにも行かないで、いつまでもそばにいて。喉元までそう出かかった。
しかしそれを口にしてはならないことも分かっていた。それはアネモネの気持ちを否定してしまうことになるからだ。
比呂もまた彼女を愛する気持ちに嘘はつけない。そして、アネモネの想いを拒むこともできない。だからこそ、軽々しく引き止めることなどできなかった。本心ではどれだけそばにいて欲しいと願っていても。
アネモネは比呂の頬に優しく手を添える。
「いつかまた戻ることができたら……きっと君に会いに行くよ」
「……」
「比呂……?」
比呂は溢れそうになる涙を必死で堪えた。
こんな時まで、アネモネを困らせたくない。アネモネは比呂のために別れを選んだのだ。ただの虚勢にすぎなかったとしても、彼女の意思を尊重したい。その一心で歯を食いしばり、顔を上げる。
「……大丈夫、僕はもう子どもじゃない。アネモネの前で泣いたりしないよ」
そして、できる限り努力し、笑ってみせた。
きっと、とてもぎこちなくて格好悪い笑顔になってしまっているだろうけれど、それでも構わなかった。
比呂のために最良の未来を選んでくれたアネモネに、悲しみではなく感謝の意を伝えたかった。
「……待っているよ、アネモネ。いつまでもずっと、君が戻ってくるのを待ってるから……!!」
アネモネも笑った。
とても寂しそうで苦しそうで、これまで比呂の見たことも無い表情だった。
本当はアネモネも比呂と別れたくはないのだ。それを目の当たりにし、比呂の胸も一層しめつけられる。
いかないでと、彼女を抱きしめたい衝動に駆られたが、必死でそれを抑え込んだ。
「比呂……どうか元気で」
「……ああ。アネモネも気を付けてね」
そう答えると、アネモネは比呂の頬から手を離す。
やがてアネモネの生み出したシロナガスクジラはゆっくりと向きを変えると、気持ちよさそうに泳ぎ出した。そしてどんどん電脳識海の奥底へ沈んでいく。
それを先導するのはアネモネだ。比呂はその場に留まり、去り行く二人の背中を見つめる。ペンギンの姿をし、比呂の周りを泳ぎ続ける白羽や黒羽と共に。
「アネモネ……大好きだよ……! ……愛してる。愛してる……!!」
比呂は何度も呟いた。その言葉は、彼女にはもう届かないと分かっていたが、溢れ出す気持ちを声に出さずにはいられなかった。
自分のこの気持ちが少しでも彼女に伝わればいい。そして遠くへ行ってしまっても、少しでも《表層》のことを、そして比呂のことを思い出して欲しい。
そう願わずにはいられなかった。
けれど、純粋な祈りの気持ちは長くは続かなかった。ひょっとしたら、これが最後の別れになってしまうかもしれない。ふと最悪の可能性が脳裏をよぎる。
その途端、不安が頭をもたげ、引き裂かれそうなほどの悲しみが押し寄せた。
どんなに辛い時や苦しい時も、必ずそばにいて支えてくれたアネモネに、もう二度と会えないかもしれない。そう考えただけで寂しさが胸を締め付けられ、息をするのも苦しいほどだった。
これまで、どれだけ彼女に与えてもらってきたか、そしてどれほど守られてきたか。改めて思い知らされる。
とうとう理性のコントロールが決壊し、抑え込んでいた涙が溢れ出した。いちど零れ落ちた悲しみの雫は止めることができず、比呂は嗚咽を漏らす。
涙で視界が容赦なく歪むが、それでも少しでも長くアネモネの姿を瞳に焼き付けておきたくて、沈んでいく彼女と白い鯨を食い入るように見つめる。
やがて二人は闇に呑まれ、完全に姿を消した。
のし掛かるような圧倒的な静けさに包まれる中、比呂は白羽と黒羽に尋ねた。
「……ねえ、白羽、黒羽。またアネモネに会えるだろうか?」
すると、白羽と黒羽は口々に答える。
「会えル! 絶対に会えるに決まってル!!」
「そうダ、そうダ!」
姿はペンギンだが、口調はいつもの白羽と黒羽だ。それに内心で安堵しつつも、比呂は苦笑して突っ込む。
「いやに自信たっぷりだな」
すると、白羽と黒羽はきっぱり断言する。
「当たり前ダ! 姐さんが、俺たちの事を見捨てるワケがなイ!」
「俺たちも、比呂も……たとえ離れ離れになっても、心は姐さんと繋がっているんだからナ!!」
「アネモネと、心が繋がっている……」
――そうか。比呂は、はっとした。
世界はみな、MEISで繋がっている。比呂とアネモネもまた繋がっているのだ。どんなに遠く離れていようとも、人工神経細胞を介して心は結びついている。
だから信号を発すればきっと彼女に届くはずだ。
これまでのように簡単にはいかないだろうし、ひょっとしたら返信も来ないかもしれない。それでも、諦めなければいつか必ず比呂の言葉は彼女に届く。
「……そうだ。アネモネに手紙を書こう。今までずっとそうしてきたように、アネモネに手紙を書こう……!!」
比呂が口にすると、二頭のペンギンも嬉しそうに旋回する。
「それは良い考えだナ!」
「比呂が手紙を書いたら、俺たちがそれを姐さんの元へ届けル!」
「でも……届くかな? アネモネはかなり遠くへ行ってしまうみたいだけど……」
「そんなの、やってみなければ分からないゾ!」
「それに……もし手紙が届かなくても、想いは絶対に届ク。……そうだロ?」
比呂は微笑み、その言葉に深く頷いた。
「ああ、確かにそうかもしれないね。……何だ、白羽と黒羽にしてはいいこと言うな」
「何オウ!?」
「ありがとう。少し……元気が出たよ」
これで最後にさせはしない。
比呂のために《深海層》へ旅立って行ったアネモネへ、信号を送り続けよう。
僕はここにいる。帰ってきて、アネモネ。いつまでも待っているよ……と。
いつかまた会える、その日まで。
「……」
「……そうカ。それなら良かっタ」
比呂の顔に明るさが戻ってきたのを見て、白羽と黒羽もどことなくほっとしたようだった。やはり二人とも、比呂の家族だ。どれだけ軽口を叩いても、比呂のことを案じてくれているのだ。
しばらくすると、二頭のペンギンは比呂へ告げる。
「……比呂、戻ろウ!」
「俺たちの世界へ戻ろウ!」
「うん……そうだな。行こう」
「こっちダ!」
「遅れるなヨ」
白羽と黒羽が先導するように泳ぎ出したので、比呂も急いでそれに続いた。
白羽も黒羽も、比呂に合わせ手加減をしているとはいえ、泳ぐのがとても速い。ペンギンの姿は伊達ではない。
比呂は二人に遅れないように、必死で両手両足を動かし、電脳識海の中を泳いでいく。
やがて行く手に白い光が見えてきたかと思うと、それは瞬く間に空間全体を覆っていった。
前を行く白羽と黒羽が最初にその光に包まれ、比呂もまたまっさらな白い世界へと呑み込まれていく。
そしてすぐに何も分からなくなった。




