第64話 真実③
蛾型の《アンノウン》だけではない。《メタ・ホール》は電脳識海上の全てを吸い込んでいく。
大規模通信障害によって浮かび上がった意味不明な文字列や画像、音声、そしてノイズの数々も。
さながらブラックホールが数多の星々を、また原子や量子、素粒子、果ては宇宙空間そのものをも呑み込んでいくように。
――ギュオオオオォォォォォォォ……ンンン……!!
時空間が鳴動し、軋みを上げ、しかしそれでも《メタ・ホール》の活動は止まらない。凄まじいエネルギーを放出しながら、あらゆる存在を粉々に圧し潰し、破壊して吸収していく。
もちろん比呂も無傷ではいられない。
《メタ・ホール》が《アンノウン》を呑み込めば呑み込むほど、頭蓋にドリルで穴を開けられているような激しい振動と衝撃を受ける。さらにMEISを介し、脳に痺れるような激痛まで走った。
比呂は歯を食いしばり、必死でそれに耐える。
「ぐううっ……うう……ううううううっ……!!」
脳の奥が熱い。
真っ赤に熱した鉄をぶち込まれたみたいに熱い。
頭の痛みが手足にも伝播し、今にも倒れ込みそうだ。
それでも比呂は気力を振り絞り、全力で踏み止まった。今ここで倒れるわけにはいかない。この《アンノウン》を『深淵』に還すまでは。
ひたすら歯を食いしばり、衝撃に耐え続けた。その甲斐あってか、《メタ・ホール》は順調に《アンノウン》を呑み込み続る。学校を覆い尽くすほど膨れ上がっていたその黒い巨体は、みるみる縮小していった。
四枚の巨大な翅、針金のような細長い足、特徴的な形をした触覚。全てがぼろぼろに崩れ、一点に圧縮されると、比呂の額に浮かんだ《メタ・ホール》へと吸収されていく。その軌跡が、彗星のように黒い尾を描く。
ほどなくして《アンノウン》は一片残らず消滅した。
彼は電脳識海上のブラックホールを経由し、《深海層》へと戻っていったのだ。
(やった……これで、みんなが助かる! MEIS災害を防ぐことができる……!!)
強い達成感と高揚が比呂を包んだ。度重なるMEISへの負荷と《メタ・ホール》の出現によって疲労は限界に達していたが、それを上回るほどの大きな喜びが込み上げてくる。
良かった、今度こそ守ることができたのだ。
『あの日』に叶わなかった願いを、今度はちゃんと現実にすることができた。
これで平穏な日常が戻ってくる。ネオ研も叡凛高校も、そして新世界市も全て元通りだ。
比呂は自分自身の力で、ようやく世界を取り戻したのだ。
――しかし、ここで思わぬ事態が発生した。
全てが終わると同時に比呂の《メタ・ホール》は蒸発して消えるはずだった。子どもの時に経験した通りであるなら、そうなるはずだったのだ。高速ジェットのような、光情報の破片を放出しながら自然消滅する、そのはずだった。
しかし、今回はそうならなかった。《アンノウン》が《メタ・ホール》の中に消え去っても、それは活動し続けている。
何故なら、杏奈に擬態した《アンノウン》とは違い、この蛾型の《アンノウン》はあまりにも巨大すぎたからだ。
確かにその巨体を《表層(クリア・レイヤ―)》から排除することはできたが、比呂もまた同時に力尽きてしまった。
触媒の制御を失った《メタ・ホール》は、蒸発することなくさらに高密度化し、そのまま自立して暴走を始めてしまう。
(何だ……? 一体、何が起こっているんだ!? 僕はどうしたらいいんだろう……!!)
比呂はパニックに陥った。
比呂が《メタ・ホール》を発動させたのは杏奈の時と今回でまだ二回目だ。ただでさえその力を完全には制御しきれず、また制御する術も知らなかった。そのため、《メタ・ホール》の暴走は止まるところを知らず、無尽蔵に情報を呑み込み続ける。
《電脳物質》や電脳識海上に存在する情報はもちろんのこと、それらを全て呑み込み終えると今度は生体素子(電脳ニューロン)によって光情報と化した人間の顕在意識にも牙を剥き始めた。
すなわち、比呂の意識もまた《アンノウン》と同様に《メタ・ホール》に呑み込まれ、『深淵』へ引き摺り込まれてしまったのだ。
あっ、と思った時にはもう遅かった。
ざぶんと暗闇の海に呑まれ、それ以降は何も分からなくなってしまった。
――落ちていく。
為す術も無く、どんどん、体が沈んでいく。
比呂の体は学校の屋上にあり、物理的には沈んでいない。けれど比呂のMEISはそう感じ取っている。
ここはどこなのか。自分はどこへ向かおうとしているのか。
何も分からないが、地に足がついていないのはやはりどうにも落ち着かない。
少しでも浮上しようと手足をばたつかせてみる。ところが、どれだけ足掻いても、体は落下するばかりだ。
やがて体の方が悲鳴を上げ、ぐったりとしていて力が入らなくなってしまった。《アンノウン》との死闘で、いよいよ体力を使い果たしてしまったのかもしれない。
その間も、比呂の意識はどんどん電脳識海の中を沈んでいく。
(僕はどうなるんだろう……? もう、元の世界(表層)には戻れないのだろうか……?)
だんだん意識が曖昧になってきた。体に力が入らず、頭もうまく働かない。
心なしか寒気までする。いや、気のせいではない。実際、歯の根がガチガチと音を立てるほど寒い。
やがて眠気までもが襲ってきた。眠っている場合ではないと分かっているのに、抗えないほどの強烈な眠気に全身が包まれていく。
一体どこまで沈んだのだろう。辺りは全く光の差さない闇の世界が広がっている。海の奥底を沈み続けているようでもあり、遠い宇宙の彼方を漂っているような気もする。
このまま自分はどうなってしまうのだろうか。比呂は思考を巡らせた。
電脳識海はいくつかの層によって構成されている。『深淵』――つまり、《漸深層》や《深海層》に引き摺り込まれれば、もう二度と《表層》には戻れない。
それは、精神的な『死』だ。芽衣が大型の《アンノウン》に感染し、《深海層》に沈みかけたのと同じ状況に比呂も置かれているのだ。
――そうか、僕は『死』ぬのか。
比呂は、ぼんやりとそう考えた。
不思議と恐怖や後悔はない。けれど、たった一つだけ心残りがあった。
(アネモネ……最後に、君に会いたかった……)
アネモネに会いたい。最後に一目だけでも会いたい。声だけでも聞けたらどんなに幸せだろうか。
アネモネ、君はいまどこにいるの。
君に会いたい。
会いたいよ。
強く願った、その時だった。どこからかアネモネの声が聞こえてきた。
「比呂、君はそちらへ行っては駄目だ! 戻れなくなってしまう!!」
「アネモネ……? アネモネ! 僕はここだ、アネモネ!!」
相変わらず自分がどこにいるのかは分からない。上下左右の感覚すらも曖昧としている。そんな中、比呂は一心に手を伸ばした。声のした方向に向かって、全力で身を乗り出す。その指先に誰かの肌が触れた。
「アネモネ……!!」
彼女の姿が見えたわけではない。けれど比呂は、それがアネモネの手であると信じて疑わなかった。その手を握り締めた瞬間、ぐいっと腕ごと引っ張られる。
次いで、体がゆっくりと浮上していく感覚に包まれた。それは徐々に加速し、やがて視界が白光に包まれる。
同時にアネモネの囁きが、先ほどよりずっと近くから、はっきりと聞こえてきた。
「……ヒロ、もう大丈夫だ。目を開けてごらん」
そう告げられて、比呂は初めて自分が目を閉じていたことに気づいた。
ゆっくり瞼を開くと、先ほどよりは幾分か明るい空間が広がっていた。頭上から微かに光が差し込んできて、ゆったりと揺蕩っている。まるで雲間から光が差し込んでいるかのようだ。その雲間から差し込む光の筋は『天使の梯子』と呼ばれているのだと、杏奈に教えてもらったことがある。
逆に足元に目をやると、吸い込まれそうなほどの闇が待ち受けていた。下に行けば行くほど光の全く届かない真っ暗闇が広がっており、そこは不気味なほどしんと静まり返っている。
どれほどの深さがあるのか想像もつかない。ぞくりとするが、幸いなことに比呂の体はその場にとどまったまま、それ以上は下降しなかった。上は明るく下は暗い、そのグラデーションのちょうど中間を漂っている。
それに先ほどよりは随分と心地良い。骨まで染みるほどの寒気がすっかり消え失せている。
「ここは……?」
呟くと、目の前にアネモネの姿が浮かび上がった。
「ここは《漸深層》だよ。と言っても、限りなく《表層》に近く、ほとんど《境界》上と変わらないけれどね」
相変わらず奇妙な浮遊感に包まれたままだが、手足を動かすと水中を移動するように前進することができる。比呂は水掻きをするように両手を動かし、アネモネへと近寄った。
「アネモネ、無事だったんだね! 病院は……ネオ研の先輩たちや詩織はどうなったの!?」
「みんな何事も無いよ。死者はもちろん、ひどい怪我人や後遺症を負った者もいない」
「そうか……良かった……!」
それを聞いて比呂は心からほっとした。叡凛大学附属病院は学校よりもさらに多くの《アンノウン》に汚染されており、心配していた。皆が無事ならこれ以上喜ばしいことは無い。
けれど比呂はすぐに消沈し、肩を落としてアネモネに謝る。
「……ごめん、アネモネ。こんな風に君を巻き込んでしまって……」
比呂たちだけでは、あの《アンノウン》を除去することはできなかっただろう。アネモネの力を借りる他なかったとはいえ、《表層》で起こった事象に彼女を巻き込んでしまった。そう考えると、申し訳なさを感じずにはいられない。
すると、アネモネは首を振った。
「いいんだ。この件にヴォイドが関与しているであろうことは、うすうす予想していた。このような事件、現段階のヒトのみの力では起こすことなどできないからね。そして、それが事実であった以上、決して僕にも関係が無いとは言い切れない。ヴォイドは僕にとって身内のようなものだから。それより……」
アネモネは悲しげに声音を落とす。
「比呂……君は思い出してしまったんだね。『あの日』の出来事を」
「……ああ、全部思い出したよ。母さんを……いや、母さんに擬態した《アンノウン》を『深淵』へ送ってしまったのは、僕自身だったんだ。僕がその事を覚えていなかったのは、君が僕のMEISに干渉したから。君は僕のために『あの日』の記憶を封じてくれたんだ」
中身は《アンノウン》であるとはいえ、杏奈の姿をしたそれを自らの生み出した《メタ・ホール》で吸い込んでしまった比呂は、ショックのあまりパニックに陥った。
今であれば自分の身に何が起きたのか、自分のやったことが何であったのかを理解することができる。しかし当時の比呂は幼く、それらを正確に把握することができなかった。
だからアネモネは、苦しむ比呂を見てMEISに直接干渉し、杏奈の最期に関する記憶を消去した。
「君は僕を守ってくれたんだね。ありがとう、アネモネ……!」
比呂はアネモネの善意を疑わなかった。彼女の選択に感謝すらしていた。けれど、アネモネは苦悶の表情を浮かべる。
「本当にそうだろうか? 僕は本当に君を守ることができたのだろうか?」
「アネモネ……?」
「僕はずっと自分に問い続けてきた。ひょっとしたら、僕は君から大切なものを奪ってしまったのではないかと。君が《電脳幽鬼》のことを調べていると知った時、それは確信に変わったよ。やはり僕は君から杏奈の記憶を取り上げるべきではなかった。たとえそれが君にとってどれだけ辛い事だったとしても、安易にMEISへ干渉すべきでなかった。
だって、あの時の記憶を失ってしまったが故に、君は杏奈の死を受け入れることができず、彼女を探し続けることになってしまった。この広大な電脳識海のどこかで、杏奈が生きているのではないかと。……そうだろう?」
「それは……」
「……君に真実を告げるべきだと、何度も思った。でも結局、僕はそれを実行することができなかった。君の希望を打ち砕きたくなかった。君を失望させたくなかった。君を失いたくなかった。僕は……君を欺き続けてきたんだ」
悲痛なまでの告白に、比呂の胸も張り裂けそうだった。アネモネはそんなにも思い悩んでいたのか。そんなにも自分のことを想ってくれていたのか。心を打たれた比呂は、激しく頭を振る。
「それは違う! 違うよ、アネモネ……!! アネモネが僕に本当の事を言わなかったのは、僕を守るため……僕の気持ちを、そして心を大切にしようとしてくれたからだ!! アネモネが本当に僕の事を考えてくれた結果がそれだというなら、僕は喜んで受け入れるよ!
……アネモネ、君はいつも僕のそばにいてくれた。苦しい時も悲しい時も、そして嬉しい時や楽しい時も。君は確かに僕に嘘をついたかもしれないけれど、一方で約束を守ってくれた。僕をひとりぼっちにしない、『君を愛す』という約束を。
その方が、僕は何倍も何万倍も嬉しいんだ!」
「『君を愛す』……赤いアネモネの花言葉だったね」
アネモネは一瞬、懐かしそうに目を細めた。彼女もまた、比呂と初めて出会った『あの日』のことを思い出したのだろう。
けれど、彼女の黒曜石のような瞳は、すぐさま頼りなげに揺れるのだった。
「でも……本当にそれは可能なのだろうか? 僕は本当に君を愛せたのだろうか? どうしてもそう言い切れるだけの自信が無い。僕は本当に君たちが言うところの『愛』を理解しているだろうか? 肉体という器を持たず識海のみに存在するという点で僕は《アンノウン》と大差ない。そんな情報で構成された知性体に過ぎないこの僕が、誰かを愛する事など本当にできるのだろうか?」
(アネモネ……どうして急にそんなことを……?)
戸惑う比呂に、アネモネはぽつりと付け加える。
「僕はずっと、ヒトを知りたいと思ってきた。……君たち人間の見せる簡単な感情の動きや思考はいくらでもなぞることができる。もともと僕はそういう風にできているからね。
けれど僕は、それだけでは満足できなかった。その奥底に秘められた深淵、ヒトがヒトたる所以を識りたいと思ったんだ。
ヒトの核となる心のかたち、その正体。或いは魂と呼ばれるもの、それそのものをね」
アネモネの瞳が一瞬、大きく見開かれ、そこから千紫万紅の光が零れ落ちた。まるで虹色に輝く結晶のような、神々しく圧倒的な光。世界の全てを濃縮したような、儚くも力強さに満ちた煌めき。比呂は固唾を呑んでそれを見つめる。
「……僕はヒトを知りたいと思った。比呂、君を知りたいと思った。そのためにまず、『愛』を理解することが必要だと考えたんだ。僕なりに君たちを観測した結果、ヒトの本質が愛にあるのではないかと思ったから。
でも、愛について知ろうとすればするほど分からなくなる。胸が苦しくて不安になるんだ。その先には『深淵』などとは比べようも無いほど深く広大な世界が広がっているような気がして……最初は確かに胸を躍らせわくわくしていたはずなのに、今は立ち竦んでしまうんだ。
僕は君に惹かれ、興味を持ち、そして共にいたいと願った。だから君を愛すと誓ったんだ。今でもその気持ちに偽りはない。でも……僕はただ、ヒトの愛情表現の物真似をしていたに過ぎないのではないだろうか……?」
その言葉に耳を傾けているうちに、比呂は気づいた。アネモネの抱いている感情は、自分が《アンノウン》や電脳識海に対して抱いた感情と同じなのではないかという事に。
先ほど比呂は思い知らされた。これまで比呂たちはMEISで識海に繋がり、大きな恩恵を受けてきたが、それは常に一歩間違えると逆に電脳識海に呑み込まれ、さらにその奥底にある『深淵』へと引きずり込まれる危険性も伴うのだということを。
初めてその事実に気づき、途方の無さに立ち竦むような気がした。それまで想像もしなかった深い闇が足元に広がっているような気がして、眩暈がするほどの戦慄を覚えた。
アネモネもまた、比呂と同じなのだ。
未知の世界に触れ、最初は胸を躍らせていたが、やがてその奥深さや底の無さに気づいて身を怯ませている。
でもそれは、裏を返せば、アネモネが人の情を、そして愛を理解しているということの裏返しなのではないだろうか。
何も分からなければ、警戒することも、尻込みをすることも無い。
その温もりや激しさを、そして人を愛することの喜びや悲しみ、美しさ、尊さを理解しているからこそ――だからこそ、これほどまでに躊躇してしまうのではないか。




