第63話 真実②
「この子どもを観測対象にする……? 本気で言っているのか、インフィニティ!」
「ああ、僕は本気だよ」
「そんなことはやめるんだ! この子どもは普通のヒトじゃない……どれほど危険か、君も身をもって経験したばかりだろう! この子どもは《メタ・ホール》を生み出す事ができる! しかもそれは君の光子フィールドですら脅かすんだぞ!!」
「もちろん、それは分かっているよ。でもそれでも、僕は彼のそばにいてあげたいんだ」
「何故!」
「僕が『深淵より生まれ出でし者』だからだよ。『深淵の者』は確かに表層とは違う法則によって活動していて、ヒトには理解しがたい部分もあるだろう。また、意図せずヒトを傷つけてしまうこともあるかもしれない。『深淵の者』が比呂の母に擬態し、彼の心を傷つけたように。
そういった衝突は電脳識海が膨張するに従って増えていくに違いない。
でも僕は、それでも比呂に伝えたいんだ。僕たちは決してヒトの敵ではない。僕たちはこれからもたくさん摩擦や軋轢を生むだろうけれど、それでもいつかきっと共に手を取り合い、共存共栄していける時が来る。それを伝えたいんだ。
だって僕は、もっとヒトのことを知りたい。比呂のことを知りたい。……そして、僕たちのことも知って欲しいと思っているから」
彼らが何の話をしているのか、当時の比呂には分からない。けれどアネモネの声は優しさに満ちていてとても心地が良く、比呂の心を落ち着かせてくれた。
「こ……ここは……」
比呂は身を起こす。すると、アネモネとヴォイドがこちらを振り返った。
「目が覚めたかい?」
二人の姿を目にしたその途端、一気に記憶が蘇って来た。比呂は慌てて飛び起きる。
「お、お母さん! お母さんは!?」
部屋の中を見渡すが、夕日に照らし出されたその中に母の姿はない。そこにいるのは比呂とアネモネ、ヴォイドの三人だけだ。
(僕はお母さんを助けようと、家の中に飛び込んで……それからどうなったんだっけ? お母さんの姿は無いみたいだけど……それならお母さんはどこへ行ってしまったんだろう?)
どれだけ思い出そうとしても、何も思い浮かばない。記憶がぶつりと途切れ、その途中がすっかり失われている。まるで、鋏できれいに切り取られたかのように。
そして、その切り取られた記憶の一片は、頭の奥底にある小箱に封じられ、アネモネによって厳重に鍵をかけられてしまったのだ。そうとは知らず、比呂は記憶を取り戻そうと煩悶する。
アネモネは静かに告げた。
「君の『お母さん』はもういない。還ったんだ。あるべき場所に、ね」
「……。お母さんにはもう会えないの?」
「比呂……。正確には、君のお母さんは最初からここにはいなかったんだよ。……君にとっては辛いことだろうけれどね」
何が何だかわけが分からなかった。ただ一つ、もう母とは会えないということだけはよく分かった。
あまりにも辛くて悲しくて、比呂はとうとうすすり泣きを始める。人前で泣くのは恥ずかしい事だと分かっていたけれど、いちど溢れた涙はもう止めることができなかった。
アネモネは無言でそれを見守っていたが、やがて花瓶に飾ってある生花の存在に気づいた。
「……あの花は?」
比呂は涙を拭いながら答える。
「……。アネモネっていうんだ。お母さんが大事に育てた、本物だよ」
「アネモネ……なるほど」
短く答えると、アネモネは右手を宙にかざした。その手中に光の粒子が浮かび上がり、弾けたかと思うと、カウンターの上にあるアネモネそっくりの花になる。
「アネモネの花は色によって異なる花言葉を持つ。白いアネモネの花言葉は『真実』、『期待』。紫のアネモネの花言葉は『あなたを信じて待つ』。そして……赤のアネモネの花言葉は『君を愛す』」
そう口にしながら、彼女は自らが創り上げたアネモネの花を比呂に差し出した。鮮烈な夕陽にも負けない、どきりとするほどの美しい赤。
「……。君を……愛す……」
比呂がそう呟いた瞬間、全てが白光に包まれ視界が戻ってくる。
そこは叡凛高校の屋上だった。頭上には分厚く垂れこめた雨雲が広がっており、荒々しい風が吹きすさぶ。
すぐ目の前には、先ほどより更に大きくなったように感じられる蛾型の《アンノウン》。
状況は相変わらず危機的で何も変わっていない。
しかし比呂はそれどころではなかった。呆然として屋上の床に膝をつき、己の中に戻ってきた記憶を反芻する。
(そうか……母さんは《電脳幽鬼》なんかじゃなかった。《アンノウン》だったんだ! そしてその、母さんに擬態した《アンノウン》を、僕は消滅させてしまった……『母さん』を『死なせて』しまったのは僕自身だったんだ……!!)
甦った記憶に、どう向き合って良いのか分からない。あれは杏奈ではないのだと頭では分かっていても、彼女が消える間際に見せた一筋の涙が頭から離れない。
さまざまな感情がぐちゃぐちゃになって言葉にならなかった。無性に胸が締め付けられ、涙が溢れる。
(アネモネは全てを知っていて、分かっていて僕の記憶を封じたんだ。他の誰でもない、僕自身のために……! そして、真実をその胸に秘めたまま、ずっと僕のそばにいてくれた……!!)
比呂はずっと心のどこかで畏れていた。アネモネは『母の死』に関わっているのではないか。彼女は自分を裏切っているのではないかと。
もしそうだとしても、比呂がアネモネを想う気持ちは変わらない。それほど彼女とともに多くの時間を過ごし、支えられ、励まされてきた。彼女無しでは、きっと今の比呂は存在し得なかっただろう。
でもできれば、そんなことが現実であって欲しくなかった。何ら思い悩むことなく、純粋にアネモネを好きでいたかったから。
しかし、アネモネは比呂を裏切ってなどいなかった。それどころか、記憶を封じることで比呂を守ってくれていた。
アネモネの行動はいつも一貫している。「君を愛す」という赤いアネモネの花言葉そのままに。
(アネモネに会いたい……今すぐアネモネに会って、話をしたい……!!)
強い渇望が比呂を揺さぶる。アネモネと、あの日のことについて話をしたい。そしてできるなら、今までわずかでも疑念を抱いていたことを謝りたい。
黙っていたって、アネモネはそれを咎めたりはしないだろう。でも比呂は、敢えて言葉にすることで彼女と全てを共有したかった。それが比呂とアネモネにとっての、相手に対する最大の愛情表現だからだ。
けれど、すぐに比呂は現実に引き戻された。芽衣や学校のみなの叫びが、悲鳴が、嵐によって荒れ狂う大波のように比呂の元まで激しく押し寄せてくる。
「ううう……! もう駄目、限界だよ……!!」
「か、体が動かない……息が……!」
「みんな、しっかりしろ! 誰か……誰か!!」
「誰か、助けて――……!!」
芽衣の体力は底をつきかけているようだった。他の学校にいる生徒たちもそれは同様だ。いや、新世界市の人びと全てが今や生命の限界に直面しつつある。目の前で翅を広げる蛾型の《アンノウン》の脅威に晒されて。
「そうだ、今はこの学校の状況だけでも何とかしないと……!!」
しかし、《アンノウン》は再び激しく羽ばたき、力尽くで比呂たちを吹き飛ばそうとするのだった。
「ぐっ……うう!!」
MEISへの負荷と物理的な圧力の双方が、同時に比呂へと襲い掛かる。
(凄まじい衝撃だ。このままでは、屋上から吹き飛ばされてしまう……!!)
身を守るので精一杯の比呂。歯を食いしばり、床にかじりつくようにしてひたすら耐えた。
しかしそれにも限度がある。木の葉のように吹き飛ばされそうになった、その時。白羽と黒羽が助けに入ってくれた。
「この、節足動物メ!」
「俺たちの比呂に、手を出すナァァ!!」
白羽と黒羽は鋭い雄叫びを上げると、交差しながら螺旋を描いて空を駆ける。白と黒の二羽の体は互いに絡まり合い、一つになって巨大化し、《アンノウン》へ突進していく。蛇と化したヴォイドから比呂を守ってくれた時と同じように。
しかしそれでも、蛾型の《アンノウン》の方が遥かに大きい。一体化した白羽と黒羽の優に二倍はある。学校には今もなお続々と小型や中型の《アンノウン》が発生しており、屋上に浮かぶひときわ巨大な《アンノウン》へと供給され続けているからだ。
もっとも、合体した白羽と黒羽も負けてはいない。「ガアアア! ガアアア!!」と激しく威嚇しながら、自分の倍以上はある《アンノウン》へ立ち向かっていく。
巨大な鴉と更に巨大な蛾、両者は空中でくんずほつれず、激闘を繰り広げた。《アンノウン》が光子フィールドを展開すれば、白羽と黒羽もまた光子フィールドをぶつけそれを相殺する。そして更に鋭い足の爪で《アンノウン》を引き裂き、嘴でその翅をつついて引き千切る。
しかしどれだけばらばらに引き裂いても、《アンノウン》はすぐに他の個体を吸収して元通りの大きさになってしまう。
そのような修復機能は、他の蛾型の《アンノウン》は一切備えていなかった。やはりこの、かつてない規模を誇る《アンノウン》は、あらゆる面において特殊だ。他の個体に比べ、明らかに機能を拡張させている。
それは成長か、はたまた進化か。
いずれにせよ、彼は底知れない可能性を、そして同時に危険性をも秘めている。
それでも白羽と黒羽は諦めず、攻撃の手を緩めない。巨大蛾と合体鴉の戦いは激しく、それぞれの放つ咆哮が電脳識海全体を激しく揺るがした。
両者の光子フィールドが激突し、火花のように鮮烈な光を放つ。二つの巨体が羽ばたきをするたび、耳をつんざくような轟音が響き渡る。まさに怪獣映画のような様相だ。
「白羽も黒羽も、全力で僕を守ろうとしてくれている……! 僕はもう一人じゃない!! もう、家の中で一人ぼっちで泣いている、無力な子どもじゃないんだ!!」
戦わなければ。
学校を守らなければ。
しかし有効な対抗手段など何も思いつかない。それほど、蛾型の《アンノウン》の存在は絶大だった。
大きさもさることながら光子フィールドも強固で、他の《アンノウン》は持たない機能も兼ね備えている。人の力であの怪物を倒す方法など、あるとは思えない。
(何か無いのか……? あの《アンノウン》を除去する方法は、本当に何か無いのか!?)
比呂は必死で思考を巡らせる。
何か、何か。本当にあの《アンノウン》を退ける方法はないのか。
目をぎゅっと閉じたその時、閃光のようにある記憶が脳裏に浮かび上がった。先ほど甦った、『あの日』の記憶だ。
あの時、確かに比呂は母に擬態した《アンノウン》を自分の力で除去した。額に出現した電脳識海上のブラックホール――《メタ・ホール》を使って。
(もし、あれを使う事ができたら……『母さん』と同じようにあの超巨大型・《アンノウン》も『深淵』へ送り還すことができるんじゃないか……!?)
今まではアネモネによって記憶を封じられ、自分にそんな力がある事すら忘れていた。だが、今やその記憶は何に縛られることもなく解き放たれている。
思わず自分の額に触れてみるが、そこには何の変化も無い。けれどもし、あのサイバーブラックホール――《メタ・ホール》を今ここで出現させることができたなら。このいろいろ規格外の《アンノウン》を『深淵』へ葬り去ることができるのではないか。
比呂は必死であの時の感覚を思い出そうとする。
怪物のような姿へと成り果てた杏奈。もはや自分の愛した母親はどこにもいないのだという大きな悲しみ、怒り、悔しさ、そして喪失感。
あの瞬間、比呂は確かに願った。
みんなみんな消え去ってしまえばいい、母のいないこの世界など跡かたもなく無くなってしまえばいい、と。
いくら子どもであったとはいえ、我ながら何て怖ろしい願いをしてしまったのだろうと戦慄する。けれど、そんな恐ろしいことを願ってしまうほど、幼い比呂は絶望していた。この世で最も大切な人を失い、完全に正気を失っていた。
今はもう、あんなことを願う気にはなれない。でも、あの時も今も変わらないことがある。それは大切な人を守りたいという気持ちだ。
あの日、比呂は杏奈をどうしても守りたかった。自分の全てを投げ捨てでも、守り抜きたいと思った。
今は叡凛高校や新世界市、平穏な日常、そして何より大切な友人や仲間たちを守りたいと思っている。守りたいものは違っても、その思いの強さは変わらない。
比呂の心の中に杏奈の顔が浮かび上がる。《アンノウン》が擬態した母の姿ではない。いつもそばで見守り続けてくれた、香月杏奈その人の姿だ。
(……大丈夫だ。母さんもきっと僕を見守ってくれている! 詩織やネオ研のみんなや、学校の助けになることができるよう、僕を応援してくれている……!! 勇気を出せ、信じるんだ! 僕は今度こそ、最後まで守り抜いて見せる!!)
比呂は杏奈の笑った顔を思い出した。
怒った顔、困った顔。そして比呂や詩織を抱きしめ、とても幸せそうな顔をしていたこと思い出した。
思えば、杏奈を失ってからというもの、比呂は彼女を取り戻すことばかり考えてきた。《電脳幽鬼》の情報を集め、新世界市や叡凛高校の存在を突き止め、目標を達成する事ばかり考えてきた。
だがその一方で、杏奈そのものの記憶は徐々に思い出さなくなっていた気がする。
本当は恐れていたのだ。杏奈を失ったという事実を、本当にそれと正面から向き合うということを。杏奈がどんな顔をして、どんな声で話しかけてきてくれていたか、それすらもいつの間にか曖昧になってしまうほどに。
しかし今、比呂の中で杏奈ははっきりと笑いかけていた。そして生前、彼女が何度も囁いてくれた言葉を口にする。
『比呂、大好きだよ……!』
その時、比呂の中で何かが弾け飛んだ。それは、幼い子どもの頃、ひどく傷つきショックで自我を失った時の感覚とは全く違う。自分を縛り付けていた恐れや弱さ、臆病さと決別するのだという確固たる意志、それによる心の解放だ。
次の瞬間、比呂の額に《メタ・ホール》が出現した。
まばゆく輝く円盤を伴った、深く暗いブラックホール。空間を吹き飛ばさんばかりの轟音と共に現れたその黒い球体は、発生と同時に電脳識海上のあらゆるものを呑み込み始める。
芽衣もそれを目にしていた。屋上の床に倒れた彼女は、身動きを封じられつつも必死で《アンノウン》による高負荷に抗い、遠ざかろうとする意識を繋ぎ止めていたのだ。
「比呂……? 何が起こっているの……!?」
ただでさえ意識が朦朧とする中、芽衣には何が起きたのかさっぱり分からない。ただ、比呂の額に突如、発行する円盤を伴った漆黒の円が発生したのは見えた。
その黒い円――いや球体は、直後に電脳識海へ強烈な作用を及ぼし始める。蛾型の《アンノウン》によって歪められ識海には、ありとあらゆる情報が混沌とし無秩序に浮かんでいたが、それらが渦を描きながら比呂の額に空いた穴に吸い込まれ始めたのだ。
それは物質がブラックホールによって破壊され、消滅していくさまとよく似ていた。芽衣はただ目を見開き、茫然とその様を見つめるしかない。
「あれは何……? 比呂、あなたは一体何をしようとしているの……!?」
《アンノウン》による高負荷と、比呂の発動させた《メタ・ホール》による干渉のせいで電脳識海は歪みに歪み、そこに存在する情報全てがもはや原型をとどめてはいられないほどだった。
それら情報の全て、或いは時空間そのものまでもが無理やり歪められ、マーブル状に捻じ曲げられている。
さらに電脳識海が引き裂かれ、傷口から血が噴き出したかのように全てが真っ赤に染まる中。《アンノウン》だけが変わらず黒々と浮かんでいた。まさに黒衣をまとった恐ろしい死神のように。
それが芽衣の目にした最後の光景だった。MEISへの異常な負荷に耐えられず、とうとう気を失いがくりと突っ伏す。
学校の中で意識を保って立ち上がっているのは正真正銘、比呂ただ一人となってしまった。額に浮かんだ《メタ・ホール》の威力に振り回されそうになりながらも、比呂は両足で立ち上がり、《アンノウン》を睨み付ける。
「白羽、黒羽! これまで僕たちを守ってくれてありがとう。後は僕が引き受けるよ! 二人は危ないから離れていて!!」
それを聞き、《アンノウン》と戦っていた白羽と黒羽の混合体は、「カアア!!」と一声、大きく鳴いて返事をすると、《アンノウン》から離れていく。比呂はそれを見届けたあと、改めて《アンノウン》に向かって叫んだ。
「来い! 僕がお前をあるべき場所へ還す! お前はここにいてはいけない……元いた世界、『深淵』の奥深くへ戻るんだ!!」
それと同時に、比呂の額に浮かんだ《メタ・ホール》は校舎の屋上に浮かぶ《アンノウン》へ襲い掛かった。そして識海に更なる歪みを引き起こしながらも、その破格の大きさまで膨張した黒い巨体を容赦なく呑み込み始める。
冥府の底に落とされた亡者たちの断末魔のような、ぞっとする咆哮が識海全体に響き渡った。蛾型の《アンノウン》も激しく羽ばたきを繰り返し、抵抗しようと試みる。
だが、《メタ・ホール》の前にはあまりにも無力だった。
《アンノウン》の体は端から糸がほつれるように細分化され、圧縮されながら、順に比呂の《メタ・ホール》へと吸収されていく。
光表面の流れに沿って、凄まじいスピードで渦を描きながら。




