第62話 真実①
MEISの機能不全に陥った人は専門の治療が必要だし、被災者は避難生活を余儀なくされる。
自然の力によって家や道路、さまざまな施設が破壊されるわけではないが、IOT社会では通信が断絶されただけで暮らしが成り立たなくなってしまうので、日常生活が脅かされる点は全く同じだ。
まさにB‐IT社会における災害であるといえるだろう。
生活が完全に元通りになるまでどれほどの月日が必要となることか。そんな重大な出来事が今、比呂たちの身に現実として起ころうとしているのだ。
(そんな……いやだ……! せっかくネオ研の先輩たちや芽衣と仲良くなれた。仲間ができたんだ! 友達や先生もみないい人そうで……!! これからなんだ! これからきっと楽しい学校生活が始まる、そのはずだったのに……!!)
もはや打てる手は何もない。手足は痺れて硬直し、サイバーウエポンを握る事すら敵わない。それでも、比呂は歯を食いしばり、もはや怪獣と化しつつある《アンノウン》を睨み上げた。
するとその時、さらに奇妙なことが起こる。MEISに対する負荷と電脳識海の歪みが極限に達したからか、視界全体が赤く染まり始めたのだ。
乱雑に並ぶ映像も、意味の分からない文字の羅列や亀裂のように走るノイズも、全てが鮮烈な赤に呑み込まれていく。
比呂はぎょっとした。まだ日が落ちる時間帯ではない。いや、たとえ夕日の影響だとしてもこの紅色は異常だ。
だとするなら、負荷に耐えられなかった網膜ディスプレイの毛細血管が出血し、それが眼球全体に滲んだのではないか。そう考えつき、慌てて目を擦った。血を想起させるほどの禍々しい赤だった。けれど、特に出血などはしていない。
一体何が起きているのか。
学校も校庭も、生徒や比呂たちも全てが鮮烈な赤に染められる中、《アンノウン》だけが今も変わらず黒々としている。
一点の染みも無く、陰影すらも無い。真の暗闇。
夕日で染まったかのような赤、その中でくっきりと浮かび上がる、黒々とした《アンノウン》。
それを見つめているうちに、比呂はずきりと頭の奥が痛むような違和感を覚える。
(あれ……? 僕はこの光景をどこかで見たことがある……!?)
何かが自分の奥底から溢れ出してくる。
とても懐かしくて苦しくて、それでも大切な記憶。鍵をかけられ、厳重に封じられていたそれが解き放たれようとしている。
もう一方で、激しく叫ぶ自分もいた。「……駄目だ。それ以上、思い出してはいけない。『それ』は封じたままにしておかなければならない」、と。
相反する二つの声は比呂の中で激しくせめぎ合う。
――思い出せ、いや思い出すな。思い出すべきだ。
やめろ、よせ。それ以上は……!
しかし結局、目覚めた『それ』を抑え込むことはできなかった。とうとう、比呂の中であの時の記憶が蘇る。母の杏奈と離れ離れになってしまった、あの日のこと。
全てが燃え上がるような夕焼けに染まった、あの切なくも悲しい思い出のことを。
あの日、比呂は杏奈が戻ってくるのを一人、家で待っていた。
父と母が離婚し、妹の詩織も体調を崩して入院してしまい、比呂は一人ぼっち。心細くて不安で、でもどこへも行けなくて。ただ母が帰ってくるのを待っているしかなかった。
やがて帰って来た杏奈は、一瞬、夕日の逆光によって黒い姿をしているように見えたものの、すぐにいつもの彼女に戻った。
そして比呂と杏奈は二人でハンバーグを作って夕ご飯にしたのだ。一緒に台所で調理をし、他愛のない会話をしながら。
思えば、あれが最後に母と共にした晩餐だった。
もう大丈夫……心から安堵した時だった。彼らが比呂の元へやって来た。
アネモネ――当時はインフィニティと名乗っていた――と、ヴォイドの二人が。
比呂は杏奈を家の中へ残し、訪問してきた彼らに対応した。彼らは幼い比呂に告げた。「僕たちはね、君のお母さんを迎えに来たんだ」、と。
「え……?」
それを聞いた比呂は凍り付く。
「お母さんは家の中かい?」
アネモネは宝石のような黒い瞳を比呂の家へと向けた。その瞳は、夕日の光を反射して微かに赤みを帯びていた。比呂は胸騒ぎを覚え、彼女の前に立ちはだかる。
「ま、待って下さい! 母を迎えに来たって……どういうことですか? 母をどこかへ連れて行くんですか!?」
「残念だが……あれはもう、君のお母さんじゃない。厳密には君のお母さん、香月杏奈の残滓のようなものだ。……本当は君もとっくに知っているんじゃないかな?」
「い、嫌だ! お母さんはお母さんだ! たとえどんな姿になっても……僕のお母さんなんだ!!」
「香月杏奈は死んだ。二週間も前に」
「……!!」
「あれはファントムさ。ここにいてはいけない『存在』なんだ。だから僕たちは彼女をあるべき場所へと還す。表層のずっと奥深くに広がる《深淵》にね」
アネモネはそう言うと、比呂の額に指を突き付ける。
「な……!?」
驚いて反射的に仰け反ろうとしたが、何故か全く身体が言うことを聞かない。
(か、体が……動かない……!)
その時の比呂は幼く、自分の身に何が起こったのかよく分からなかった。しかし、今思えばアネモネが比呂のMEISに直接干渉することによって、身動きを封じたのだろう。アネモネはどこか悲しみをその瞳に浮かべて続けた。
「君はこの場にいた方がいい。お母さんを……大切な人を失う苦しみを二度も味わうことになってしまうから」
そうして、彼女は比呂とヴォイドをその場に残し、家の中へ入って行ってしまった。アネモネの黒いコートの裾が大きくはためく。けれど、比呂の手はその端を掴むことさえできない。
(母さん……このままじゃ、お母さんが連れて行かれてしまう! せっかくまた会えたのに……ずっと、ずっと一緒にいられるはずだったのに……!!)
何とかしなければ。そう思うものの、体は全く動かない。比呂の気持ちは焦るばかりだ。
(お母さん、お母さん……! お父さんはもういないんだ。僕がお母さんを、家を守らなきゃ……!!)
比呂は強く念じた。
――戻らなければ、今すぐ戻らなければ。
そして母を守らなければ。
「諦めろ、どんなに望んでも香月杏奈は戻らない。どれだけ科学技術が進歩しようとも、ヒトは死から逃れることはできないんだ。……俺にしてみれば、これ以上もなく羨ましい話だがな」
ヴォイドは冷酷に現実を突き付けてくる。だが、その言葉さえも比呂は全く気にならなかった。全ての意識を己の中へと集中させる。
動け……動け、動け、動け、動いてくれ!
手よ、足よ、身体よ。どうか動いてくれ!!
念じれば念じるほど、頭の奥が熱くなる。感覚が研ぎ澄まされ、爆発したエネルギーの奔流が、やがて一か所に収束していく。
そして何かガチリと枷が外れたような感覚がした、その瞬間。途端に体がふわりと軽くなった。
アネモネの拘束が解けて身動きが自由に取れるようになったのだ。
「これは……まさかコラプサーか!? いや、違う……この子どもはそんなもの持っていないぞ! 一体どういうことだ……!? このままではインフィニティのプロテクトが……!!」
ヴォイドの言葉も、もはや比呂の耳には届かない。
「お母さん! お母さん!!」
比呂は杏奈を助けなければという一心で走り出す。そして、靴を脱ぐのもそこそこに玄関から家へと飛び込むと、廊下で足を滑らせるのも構わずリビングへ駈け込む。
だが、そこに広がっている光景を目にし、比呂は驚愕のあまり入り口に立ち尽くした。
そこで比呂を待ち受けていたのは、変わり果てた杏奈の姿だった。体はもはや人間のそれではない。ぐにゃぐにゃに歪んで、まるで溶けかけたソフトクリームのようだった。どこまでが手でどこまでが足かさえ分からない。
色は立体感を感じさせない完全なる暗黒色。
それは、高校生となった今の比呂にはとても馴染みのあるものだった。
そう、《アンノウン》の色や質感にそっくりなのだ。
煤のような黒い粒子をザワザワとまとっているところも全く同じ。もっとも、その当時の比呂は《アンノウン》の存在を知らなかった。だからそうとは分からなかっただけだ。
だが、全身が崩れかけた黒煤で覆われた中、顔だけは元の杏奈のままだった。母の虚ろな瞳が、キロリと動いて比呂の姿を捉える。
「ひ……ひろ……!」
「か……母さん……? 本当にお母さんなの……?」
杏奈のそばにはアネモネの姿もあった。比呂が飛び込んできたのに気づいて、ひどく驚く。
「比呂……? どうしてここに……確かに身動きを封じたはず!」
しかしその声は、幼い比呂の耳には届かない。
比呂は青ざめて、ただただ杏奈を見つめ続けた。真っ黒な泥人形に成り果ててしまった母の姿。もはや杏奈以外、何も目に入らない。
その比呂に向かって、杏奈は手を伸ばす。黒い《アンノウン》に覆われ、原型を全く留めていない両腕を。
「ああ、ひろ……わたしの、ひろ……!」
「か、母さん……」
「ひろ……ひろ……ヒロ……ずっと一緒にいましょう……ずっと『深淵』の底で二人だけ……ひろは優しい子だから、お母さんのお願いを聞いてくれるわよね……?」
「ぼ……僕……!」
「逃がさない……逃ガサナイ、逃ガサナイ逃ガサナイニガサナイ! 私ノ比呂!! アナタハ私ノ……俺ノ僕ノ我ノ俺タチノアタシラノ、私達ノモノダ!!」
杏奈の顔はにんまりと笑った。悪意ある好奇心と邪心を剥き出しにし、執着を隠しもしない顔。そして唯一、残ったその顔すらもどろりと溶けていく。
ここまでくると、比呂も認めざるを得なかった。目の前に存在しているものがもはや杏奈ではなく、人間ですらないのだということを。
何かが自分の中で、音を立てて崩壊していく。
「比呂、やめるんだ! それ以上はいけない!!」
アネモネはそう叫んだ。
しかし比呂はショックを受けるあまり、彼女の忠告が全く耳に入らなかった。
「お前は……お前は、お母さんなんかじゃない!!」
比呂の全てが目の前の出来事を拒絶していた。自分を辛うじて繋ぎ止めていた何かが、音を立てて砕け弾け飛ぶ。
怒り、悲しみ、悔しさ、苦しさ、そして絶望。ありとあらゆる感情が爆発し、奔流となって溢れ出す。
そしてその時、『それ』は比呂の額に現れた。
ぽつんと浮かび上がった真っ黒の球体。最初は針で突いたかのように小さかったそれは、急速に膨張していくと、あっという間に成人の拳大ほどの大きさへと成長する。
それが真っ黒なのは、光を全く通さないからだ。だから、球体をしているにもかかわらず、空間が凹んで穴が空いているように見える。
さらに黒い球体の周囲には発光する円盤状の構造物が浮かび上がった。そしてその円盤の渦の流れに沿うようにして、部屋の中を漂っている黒煤や《電脳物質》が比呂の額に空いた穴へと吸い込まれていく。
まるでブラックホールによって無数の星々が呑み込まれていくように。
「うわああああああああ!!」
比呂自身、己の身に何が起きているか分からず錯乱していた。MEISから放たれるエネルギーの激流に振り回され、ただ絶叫するしかない。
一方、アネモネも驚愕と戸惑いの入り混じった顔を大きく歪めた。
「くっ……何て強力な《メタ・ホール》なんだ……! ヒトの身でありながら、これほど『深淵』と強く結びつくことができるなんて……!!」
アネモネはそう呟きながら、自らの体を守るかのように右手を前方に突き出す。その先に半球型の光子フィールドが出現した。蛾型の超巨大・《アンノウン》が生み出すものとは比べ物にならないほど硬く精緻なものだ。
しかし、比呂の生み出した《メタ・ホール》の力は凄まじく、その光子フィールドですらみしみしと軋ませる。
「この光子フィールドも長くはもたないな。最後まで防ぎきれるか……五分五分といったところか……!! 『深淵より生まれ出でし者』である僕にですら、これほどの脅威を与えるなんて。比呂、君は一体……!?」
比呂の生み出した《メタ・ホール》――電脳識海上に発生したブラックホールは、識海における情報の全てを呑み込んでいく。それは変わり果てた姿の杏奈も例外ではなかった。杏奈の体は凄まじい勢いで比呂の《メタ・ホール》に吸い込まれていく。
「ひ……ろ……どうし、て……?」
最後に、杏奈の瞳に涙が浮かぶのが見えた気がした。彼女の顔はその大部分が崩れ去っていたが、右目の周囲はまだ原型をとどめていたのだ。
「お母さん!!」
比呂はようやく、ハッと我に返る。しかしその時には既に手遅れとなっていた。
どろりと溶けかけた黒い体も、差し出された両腕らしきものも。そして辛うじて杏奈の痕跡をとどめていた顔の一部も。彼女の全てが比呂の額に空いたブラックホールへと呑み込まれ、消失していく。
最後に比呂の額からキラキラと輝く光の粒子がジェット噴射のように噴き出した。まるで、ブラックホールから噴き出す高速ジェットのように。
それらは、比呂の《メタ・ホール》に呑み込まれ、粉々になった《電脳物質》の残した残骸だ。部屋に降り注ぐ夕日を浴びてその残骸が煌めくさまは、妙に儚く、そして美しかった。
やがて比呂の額に発生した《メタ・ホール》はそのまま自然に蒸発し、消え去った。その場に残ったのはいくつかの物理家具と、辛うじて《メタ・ホール》の干渉を防ぎ切ったアネモネだけだ。比呂はすっかり体力を消耗し、がくりとその場に膝をついた。
もう、指一本すら動かす力も残っていないが、体は小さく震えている。あまりの恐ろしさで、全身ががたがたと震えている。
自分のせいで、杏奈が消えてしまった。その事実が恐ろしくて仕方がなかった。
「か……母さん……! 僕がお母さんを『死なせて』しまった……!!」
アネモネは息を呑むと、比呂の小さな体を抱きしめた。
「違うよ、比呂。あれは君の母親じゃない。姿を模しただけの、全くの別物なんだ。あれは暗黒光子で構成された情報体で、表層の情報を模倣する習性を持つ。そうすることで、君たちの事を知ろうとしているんだ。あれはね、最初に観測した人間の意識の揺らぎをそのまま自身に投影するという性質を持つ。言い換えるならば、あの暗黒光子情報体はMEISを通して君の中にある杏奈の情報を読み取り、そして瞬時に擬態してしまったんだ。君はただ、あれを元いた場所へ……『深淵』へ送り返したんだよ。だから何も気に病むことはないんだ」
「で、でも、僕の事を比呂って呼んだんだ。僕の事を大好きだって……ずっと待ってるって言ったんだ! それなのに、僕……、僕……!!」
「比呂……」
「僕がお母さんを殺したんだ。僕がお母さんを……!!」
比呂の体の震えは止まらない。それどころか、どんどん激しくなる。涙が溢れ、激しくしゃくりあげ、嗚咽が止まらない。
その罪悪感は、幼い比呂の心に深く刻み込まれた。自分が何をしたのか、何を起こしてしまったのか、それは分からない。だが自分のせいで杏奈が消えてしまったのは確かだ。そうであるなら、母を死なせてしまったのはやはり自分なのではないか。
「……。そんなに自分を責めて、かわいそうに……」
アネモネの腕の中で、比呂は震え続けた。彼女の温もりをもってしても、幼い比呂の心を癒すことはできなかった。それほど深く生々しい傷を心に負ってしまったのだ。
アネモネはそんな比呂を見かねたのだろう。比呂から身を離すと、その顔を覗き込む。
「比呂、顔をあげてごらん」
「……?」
顔を上げた比呂の額に、アネモネは右手をかざす。
「君はまだ幼い。たとえどれだけ説明を尽くしたとしても、難しいことは理解できないだろう。だから今ここで体験したことは全て忘れるんだ。君が《メタ・ホール》を出現させたこと、その《メタ・ホール》が杏奈に擬態した『深淵の者』を吸い込んでしまったこと。その全ての記憶を僕が封印する。君はここで『杏奈』とは再会しなかったんだ。……いいね?」
「……」
比呂は急激な眠気に襲われた。つい先ほどまで全く眠いとは思わなかったのに、何かが強引に意識を奥底へと引きずり込んでいく。
逆らうことの許されない、圧倒的な力。
そして視界が暗転したかと思うと、あっという間に何も分からなくなった。
次に気づいた時、比呂は部屋に置いてあるソファの上に横たわっていた。
何だか手足の感覚が曖昧で、記憶にもぼんやりと靄がかかっている。何かがあったような気がするけれど、思い出せない。
――僕はどうしてここにいるんだっけ。
寝ぼけまなこを瞬いていると、アネモネとヴォイドの話す声がどこからともなく聞こえてきた。




