第58話 サイバーテロ
「……ろ……比呂? どうしたの?」
自分の名を呼ぶ声に気づき、比呂は背後を振り返った。そこには芽衣が心配そうな面持ちをして立っていた。
「芽衣……」
「ぼうっとしてたよ。大丈夫? さっき意識を失っていたけど、それがまだ尾を引いているんじゃ……」
どうやら、芽衣は何度か比呂の名前を呼んでくれたらしい。アネモネとの会話に集中していて全く気付かなかった。
けれどそんな芽衣も、アネモネの姿には気づいた様子はない。彼女には、あくまで比呂が一人きりでいたように見えたのだ。
比呂は制服の袖で乱暴に顔を拭う。
「いや、問題ないよ。先輩たちが言っていた通り、僕たちは学校へ向かおう」
そう言うと、比呂は率先して走り出した。芽衣は小さく絶句し、それから戸惑いを浮かべ比呂の背中を見つめた。
「比呂……ひょっとして、泣いていた……?」
一方、がむしゃらに走る比呂を、白と黒の二羽のカラスが追いかけてくる。
白羽と黒羽はアネモネが来るといつもいの一番に出迎えるが、今日はわざと二人きりにしてくれたのだろう。
けれど、比呂とアネモネの会話は聞いていたらしい。比呂の目線と同じくらいの高さで羽ばたきながら、不服そうに尋ねてくる。
「何故ダ、比呂? 姐さんのこと、嫌いになったのカ?」
「そんなわけないよ。僕がアネモネのことを嫌いになるなんて、そんなこと絶対にあり得ない」
「だったら何故、姐さんを悲しませるような事を言うんダ?」
比呂の胸はずきりと痛んだ。別れ間際の、悲しみを含んだアネモネの微笑が脳裏に浮かぶ。いつも笑顔で見守ってくれた彼女に、そんな表情をさせてしまった自分が、情けなくて腹立たしくて仕方がない。
「僕だって……アネモネを悲しませたくなんかない。ずっと一緒にいて笑い合っていたい……! 新世界市のいろんなスポットへ行こうと約束した。二人で出かけて、楽しい思い出をたくさん作りたかった……!! でもその約束を諦めてでも、今は行かなきゃいけないんだ……!!」
自分の街を守るため、奔走する柚たちを裏切るわけにはいかない。この街で出会ったたくさんの人たちをこのまま見捨て、比呂だけ逃げ出すわけにはいかない。
だって比呂には、まだやれる事があるのだから。
「やれやれ、人間とはよく分からない生物だナ」
「弱くて、ややこしくて、矛盾だらけ。仕方が無いから、俺たちが守ってやル」
呆れながらもそう言うと、白羽と黒羽は先導するかのように比呂の前を飛んでいく。
「……ありがとう。白羽、黒羽」
比呂は小さく微笑んだ。
白羽と黒羽はアネモネがくれた、比呂の大事な家族だ。たとえ肉体の無い情報知性体だとしても、他に代えの効かない唯一無二の存在だ。
アネモネに出会ったから、白羽と黒羽にも会うことができた。思えばたくさんの大事なものを、アネモネは比呂に与えてくれた。
アネモネがいなければ、今の比呂は無かったと言ってもいいかもしれない。
自分の選択が正しかったのか、正直なところ比呂には自信が無かった。
でも今は、とにかく叡凛高等学校へ向かわなければ。
考えるのは全てが終わったその後だ。
自動運転で動く巡回バスが止まってしまっているので、比呂と芽衣は走って学校へ向かうことにした。
新世界市はほぼ正六角形をした人工島であり、高低差もあまりないので、徒歩移動もそれほど苦ではない。
目指す叡凛高等学校は第3区域・文教地区にあるが、第7区域・中心市街地を経由するのが最も近道なので、そのルートを選ぶことにした。
ところが、林立する高層ビル群の中へ足を踏み入れると、否応なしに大規模通信障害による惨状が目に入って来た。
第7区域・中心市街地では至る所で混乱が起きており、ひどい有様だった。
インフラ・交通・通信はどれも完全に麻痺している。あちこちで自動車やロボットなどが事故を起こし、飲食店や商業施設に努める人々も右往左往している。
電気はもちろん、ガスや水道までもが止まってしまってしまったらしい。当然、ビル街を彩る電子看板もみな明かりが消えて真っ暗だ。
それだけではない。
MEISがほとんど機能不全に陥っているので、電脳看板にもノイズが走って画像が乱れ、よく分からない模様や文字群が乱れ飛んでいる。SFの世界のように華やかだった中心街は、ひどく不気味で寂しいディストピアと成り果てていた。
おまけに路上は、情報が得られずパニックに陥った人々で溢れている。
それを目にし、比呂たちは思い知らされた。ヴォイドの起こしたサイバーテロは確実に新世界市を蝕んでいるのだと。
その証拠に、街中のそこかしこで黒い蛾がひらひらと鱗粉を撒き散らしながら飛んでいる。比呂たちにしか見えない、蛾型の《アンノウン》だ。
大きさはまちまちで、五百円硬貨くらいの大きさから野球のグローブぐらいのもの、中には座布団くらいの大きさをした個体までいる。
ただ幸いなことに、巨大型の《アンノウン》はいない。
芽衣は混乱しきった街中を見渡し、憤りと不安で声を震わせた。
「ひどいね……たった数時間でこんな惨状になるなんて……!! この混乱が本当に故意に引き起こされたのだとしたら、あまりにも残酷すぎる! 許せないよ……!!」
比呂もその言葉に頷いた。
「僕もそう思うよ。おまけに、巨大型とまではいかないまでも、けっこうな大きさの《アンノウン》がたくさん飛んでいるね。宿主は多分、既に意識を失っているはずだ。このままじゃ、先輩たちの言っていたMEIS災害も現実味を帯びて来るかも……」
「あのビトラという人は、どうしてこんなことをするんだろう? 何故、ここまで新世界市を憎んでいるの? 分からないよ……私たちが何をしたっていうの!?」
「……」
ビトラ――いや、ヴォイドはおそらく、人間に対して何か強い憎しみや恨みがあるわけではない。彼はただ、比呂たちの世界である《表層》を虚無で満たしたいだけなのだ。
そこにさしたる意味は無く、本当は悪意すらないのかもしれない。ありのままの自分どおりに振舞っているだけで、人間社会がどうなろうと興味すらないのかもしれない。
だがヴォイドの本心がどこにあろうとも、このまま黙って彼の思い通りになるわけにはいかなかった。
誰がどんな思惑を抱いて動いていようとも、比呂たちの手で新世界市を守らなければ。
さらに歩を進めると、あちこちで倒れている人の姿が見受けられた。
《アンノウン》に感染したせいか、それともMEIS障害による何らかの不具合や事故に巻き込まれたのか。中にはよほど深刻な状態に陥っている者もいるらしく、人工呼吸を施されたり、AEDを使用している場面も見られる。
あまりにも街中に《アンノウン》が溢れているためか、比呂たちのMEISもさすがに影響を免れなかった。
「うっ……目がくらくらする……!」
芽衣が足を止めて頭を押さえる。比呂も頭がぐらぐらし、目が回りそうだった。
「《アンノウン》があまりにも多すぎるんだ。このままじゃ、学校がどっちかも分からなくなってしまう……!」
実際、視界の大部分は、《アンノウン》の身体を構成する蠢く黒で覆われ始めていた。まさに黒い霧の中を彷徨っているかのようだ。
「こいつめ、コイツメ!」
「虫けら共め、薙ぎ払ってやル!!」
白羽と黒羽は周囲の《アンノウン》を嘴で攻撃し、小型のものを駆除してくれる。
「僕たちもサイバーウエポンで《アンノウン》を除去しながら進もう!」
「う、うん!」
比呂たちは念のために、指輪型通信端末・《プレロマ》やグローブ型のインターフェースを常に持ち歩くようにしている。現在の新世界市では、どこで《アンノウン》が発生してもおかしくない。
もっとも、ここまでの事態になるとはさすがに想定外だった。電子機器の支援があったとしても、どこまでやれるかは分からない。比呂や芽衣の経験値を考えると一抹の不安を覚えるが、今はやるしかなかった。
指にはめた《プレロマ》を操作し、比呂は片手剣を、芽衣はハンドガンのサイバーウエポンを取り出した。そしてそれぞれ、《アンノウン》に攻撃を加えていく。
唯一、幸運だったのは、第7区域・中心市街地に群がる蛾型の《アンノウン》のほとんどが比較的、小型や中型であることだ。
小型や中型の《アンノウン》は大型・巨大型と違って、光子フィールドを持っていない。おかげで、サクサクと倒すことができる。
あまりにも数が多すぎるので、全滅には程遠いが、スキルを併用するなど工夫し、何とか視界を確保するくらいは減らすことができた。
数多の《アンノウン》に苦戦しつつも学校を目指して進み続けていると、複数のパトカーや救急車、消防車とすれ違った。そういった緊急車両は、今でも自動運転ではなく人が手動で動かしているのだ。
信号が完全停止してしまっているため、警察官が街頭で交通整理などしている。消防車が出動しているところを見ると、出火しているところもあるようだ。
しかし街中の人たちはみな、何が起こっているかまでは把握していないらしく、自分の置かれた現状に対処するので精一杯の様子だった。
比呂は俄かに不安を覚える。被害はどこまで広がっているのだろうか。情報が取得できないため、今どこで何が起こっているのか、何も分からない。
携帯電話すら誕生していなかった昔はそれが当たり前だったという。けれどMEISを搭載し、当り前のように情報やサービスを含めたあらゆる世界と繋がっている比呂たちにとって、それは世界から隔絶されたような心許なさを覚える、ひどく不自然で不安定な環境に感じられるのだった。
救急車も忙しなく行き来しているが、行き先はおそらく病院だろう。
(街中がこんな状態で、大学病院も既に《アンノウン》で溢れている……それなのに、怪我人や病人、意識不明者を受け入れることができるのだろうか? 心配なのは病院だけじゃない。新世界市はこの危機を本当に乗り越えられるのだろうか……!?)
目下のところ、最大の懸念は柚たちの向かった叡凛大学附属病院だった。
街中がこれだけ《アンノウン》で溢れかえって混乱しているのだ。大学病院の惨状はいかばかりだろうか。柚たち三人は、本当にひしめく巨大型・《アンノウン》を倒すことができるのだろうか。
比呂は芽衣と共に《アンノウン》を倒しつつも、時おり大学病院の方へと視線を向ける。胸騒ぎがして仕方がないが、今は自分のすべきことをするしかない。
比呂は芽衣や白羽・黒羽と共に、ただ一心に叡凛高等学校を目指すのだった。
✽✽✽
その叡凛大学附属病院に到着した柚と大介、湊の三人は、目の前に広がる光景にさすがに息を呑み、愕然とした。
「これは……何てことだ!」
「おいおい、とんでもねえことになってんじゃねーか!!」
湊や大介が悲観的な声を上げるのも無理は無かった。大学病院の敷地内では、大勢の患者が倒れていたからだ。
医療従事者たちも慌ただしくその対応に追われている。しかしその医療従事者の中にも倒れたり動けなくなるものが出ているようだ。
それもそのはず、あたりには小規模や中規模の大きさをした蛾型の《アンノウン》があちこちで黒い鱗粉を振りまきながら、ひらひらと舞っている。まさに周囲一帯、黒い靄が立ち込めているかのようだった。
それだけにMEISの通信環境にも凄まじい負荷がかかっている。アクセス権5の柚ですらも、若干、眩暈を覚えるほどだ。
「確かに想像以上だけど……ここで怯んではいられない! 大ちゃん、みーくん! とにかく片っ端から《アンノウン》を除去していこう!!」
柚が気力を奮い起こすと、湊や大介も我に返って頷いた。そうだ、この異常事態に圧倒されている場合ではない。
「ああ、もちろんだよ!」
「ここが踏ん張りどころって奴だな。《アンノウン》の奴ら、ぶっ倒してやろうぜ!!」
そして柚たちは指に嵌めた《プレロマ》を起動させ、それぞれのサイバーウエポンを出現させると、さっそく《アンノウン》の除去に取り掛かった。
柚は魔導書で球状の魔法陣を発動させると、魔法弾を発して《アンノウン》を手当たり次第に薙ぎ払っていく。
幸い、一般病棟に湧き出した《アンノウン》はどれもそれほど大きくない。光子フィールドを展開することも無いため、《シューティング・スター》や《スターダスト》といった複数弾を使えば、効率的に除去することができる。
アクセス権4の湊も弓矢をどんどん放ち、攻撃を行っている。弓を扱うアーチャーは、一度に広範囲を攻撃することができるため、こういった状況には有利だ。湊もそれを自覚してか気丈に戦っている。
だが、彼の表情は苦悶の色に染まっていた。《アンノウン》の数があまりにも多いため、MEISに強い負荷がかかっているのだろう。その中でサイバーウエポンを操り、《アンノウン》と戦っているのだ。高熱の中、長距離マラソンを走るようなものだ。
残る大介は、アクセス権が1でもともと情報処理能力が低いためか、逆にそれほど直接的な影響は受けていないようだ。
しかしデータ量が重すぎてXRヘッドマウントディスプレイの処理速度が遅いらしく、視界が悪いらしい。大剣を操る動きにいつものキレが無く、ただ振り回すだけになってしまっている。
三人の中で問題なくいつも通りに戦えているのは柚だけだった。どうしても戦力低下は否めない。
そもそも仮にみなが万全の態勢だったとしても、三人だけでは圧倒的に人手が足らなすぎる。《アンノウン》の数はあまりにも多く、どんなに倒しても次から次へと無限に湧き出してくるからだ。
(でもだからって、こんな危険な場所に比呂くんやめーちを連れて来るわけにはいかない……!)
柚が二人の一年生に叡凛高校へ向かうよう指示したのは、もちろん学校の方の《アンノウン》に対処してもらうためというのもある。
だが一番の理由は、学校の方がまだしも安全だからだ。今の叡凛大学附属病院はこの新世界市のどこよりも危険な地帯となってしまっている。
隔離病棟に五十体もの超巨大型・《アンノウン》が蛹という形で眠っており、いつ爆発するか分からない火薬庫と化しているからだ。
(隔離病棟は、理論上は電脳識海と切り離されているから今回の《アンノウン》の大量増殖とは関係ないはずだけど……何か嫌な予感がする……!!)
残念ながら、柚の予感は的中する事となる。
一般病棟で無我夢中になって《アンノウン》に対処していると、一般病棟の担当ではないと思われる看護師が飛び込んできて、重大事態を告げたからだ。看護師は病棟前にやってくるや否や、切迫した様子で叫んだ。
「誰か! 至急、手が空いている人を集めてください! 応援をお願いします!!」
「む、無理です! 院内はどの科も混乱していて……この状況で余っている人手なんてありません!!」
「お願いします、隔離病棟が大変なことになっているんです!!」
柚はそれを聞き、はっとして隔離病棟の方へ目を向ける。するとその上空に、これまで見たことも無いような大きさをした蛾型の《アンノウン》が出現していた。芽衣のマンションで遭遇したものより更に一回り以上も大きい。まるで隔離病棟全体に覆い被さるほどだ。
「大ちゃん、みーくん! あれを見て!!」
柚が声を張り上げると、必死で《アンノウン》の駆除に追われていた大介や湊もようやく顔を上げた。そして、すぐに隔離病棟の上空を舞う極大の《アンノウン》に気づいて瞠目する。
「何だ、ありゃあ!?」
「な……なんて凄まじい大きさなんだ……!!」
「あれも《アンノウン》か? あんなでけえの、これまで見たことがねえぞ!! っつーか、本当に倒せるのか……!?」
その大きさたるや、歴戦のネオ研メンバーも怯むほどだった。それほど、隔離病棟に出現した《アンノウン》は大きい。桁外れに巨大すぎる。もはや電脳識海における怪獣だと言っていい。
「とにかく、隔離病棟に行ってみよう!」
柚たちは急いで隔離病棟に駆け付けた。
そこは他の病棟より、遥かに深刻な恐慌状態に陥っていた。大勢の人々が駆け足で行ったり来たりしている。倒れている人もあちこちに見られた。外傷があるわけではない事から、MEISに高負荷が懸かって身動きが取れないのだと推測される。
近くで見ると、蛾型の《アンノウン》はさらに大きい。まるで空全体を覆い尽くしてしまうかのようだ。MEISや電子機器への負荷も尋常ではない。
「何だ、これ……頭がグラグラして割れそうだ! くっ……吐き気までする……!!」
湊は近くにある街灯に手をつき、呻くようにしてそう言った。何かに掴まっていなければ、立っているのも困難な状況なのだろう。
「ちくしょう、こっちもXRゴーグルがほとんど役に立ちゃしねえ!」
大介が装着しているXRヘッドマウントディスプレイもオーバーワークのためか、煙を噴き出している。
「大ちゃん! みーくん……!!」
柚もさすがにMEISへ高負荷がかかりすぎていて、足元がふらふらする。
こんなことは初めてだ。アクセス権5である柚は、どれほど過酷なMEIS環境下であっても、苦痛を感じたことなど無かったのに。
戦う前からこのような有り様で、本当にこの超弩級の《アンノウン》を除去することができるのだろうか。
しかも柚の勘が当たっているなら、目覚める可能性のある《アンノウン》は他にもたくさんいる。
この隔離病棟には少なくとも五十体以上の《アンノウン》の蛹が収納されているのだから。




