第57話 別れの予感
「どうすんだ、柚?」
大介が問いかけると、柚は瞳をきゅっと閉じた。しかし次の瞬間には、決意を固めたように顔を上げ、きっと叡凛大学附属病院の方を睨む。
「ここは二手に分かれよう。わたしと大ちゃんとみーくんは、大学病院へ向かう。だから比呂くんとめーちは学校へ行って《アンノウン》の足止めをして欲しいの」
比呂はぎょっとして反論した。
「ま……待って下さい! 病院には巨大・《アンノウン》の蛹に汚染され、眠り続けている叡凛高校の生徒が今や五十人以上もいるんです! MEIS通信の機能しない隔離病棟に入れられているとはいえ、もし彼らに何かあったら、五十体もの巨大・《アンノウン》がいっぺんに羽化することになる……そんなの、いくら柚先輩たちでも危険すぎます!!」
もちろん、叡凛高等学校も決して安全だとは言えない環境だ。少なくとも、比呂と芽衣の二人でどうにかできるような生易しい状況ではない。
だがそれでも、叡凛大学附属病院の危険性に比べれば十分に他愛もないと言ってしまえるレベルだった。
それほど、今の叡凛大学附属病院はリスクが高い場所と化してしまっている。
いくら《アンノウン》の排除に慣れている柚たちであっても、とても手に負える規模ではない。柚もそれは分かっているだろうに。
しかし、柚は気丈に笑うのだった。
「それでも行かなきゃ。だってわたし達は、叡凛高校MEIS災害対策チームなんだから」
「柚先輩……!」
どうして、そこまで。
いくらアクセス権5の柚とはいえ、巨大・《アンノウン》五十体を相手にするのは、あまりにも荷が重すぎる。自身に重大な危険が及ぶ可能性すらあるのに、どうしてそこまで抗おうとするのか。
愕然として目を見開く比呂だったが、徹底抗戦の意志を見せたのは柚だけではなかった。最初は《アンノウン》の多さにたじろぎ、危惧を浮かべていた大介と湊も、柚が意を決したのを見るや否や闘志を漲らせ、それぞれ笑みを浮かべたのだ。
「そうだな。ここで尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかねーよな!!」
「あのビトラっていうハッカーの思惑通りというのも癪だしね。……新世界市は僕たちが守る。革命を騙った悪意なんかには決して負けない!!」
「大介先輩、湊先輩……!!」
大介も湊も、ネオ研の仲間として、部長として柚に厚い信頼を寄せている。その柚が決めたことなのだ。二人ともどこまでも彼女について行くつもりなのだろう。
何より、三人はよく知っている。この状況を解決することができるとしたら、それは《アンノウン》の存在を感知することができるネットオカルト研究部――いや、叡凛高校MEIS災害対策チームのみだということを。
「行こう、大ちゃん、みーくん! わたし達の手でわたし達の街を守ろう!!」
柚が叫ぶと、湊と大介も大きく頷く。
「ああ、そうだね。こんなところで愚図愚図してはいられない。急ごう! ……比呂と芽衣の方も大変だと思うけど、絶対に無理はしないようにね」
「そうだぜ。病院の方はちゃっちゃと済ませて、学校の方へ向かうからよ。それまで何とか持ちこたえてくれ!」
比呂と芽衣にそう念押しすると、ネオ研の先輩三人組は大学病院の方へ向かって走り出した。芽衣は不安を隠しきれない様子でその後ろ姿を見つめる。
「先輩たち、大丈夫かな……?」
「……」
比呂は両手を握りしめた。
本当は三人を引き止めたい。自ら苦難の道を行こうとしている三人を、どうにかしてこの場に止めたい。
しかし、どう説得すればいいのか分からなかった。
三人が本気であること、そして比呂では三人の意志を覆すことができないことを分かっていたからだ。
(どうして……? 柚先輩も、大介先輩も湊先輩も……ただの部活動に、どうしてそこまで……!?)
あんなに上空が黒く煙っているのだ。大学病院はきっと《アンノウン》で溢れ返り、現時点で既に手の付けられない状態になっていることは容易に想像がつく。
いくらネオ研の柚や大介、湊たちが経験豊富であっても、対処しきれるとは思えない。ただその身を危険に晒すだけだ。
柚もそれは分かっているだろうに、なぜ自ら死地へ飛び込んでいくのだろう。
(いや……危険だとか何とか関係なく、きっと柚先輩たちは勇敢に立ち向かっていく。誰か他の人のために自ら戦うことができる、そういう人たちなんだ。だからこそ、僕も好きになった。この人たちのようになりたいと、心から願ったから……!!)
柚は芽衣を救うため、罰を受けることを承知でマンションのセキュリティシステムに不正アクセスを行った。そして強敵だと知りつつ、率先して巨大・《アンノウン》に立ち向かった。
柚だけではない。大介も湊も、どれだけ疲れ果てていようとも、学校に湧き出る蛾型の《アンノウン》と戦い続けた。その情熱と使命感は、もはやクラブ活動の域を越えている。
柚たちがどれだけ勇猛果敢か、どれだけ高潔で気高いか。痛いほどよく分かっているだけに、比呂は苦しくてならなかった。
比呂は今回の黒幕がヴォイドであることを知っている。
彼がアネモネと同じで、比呂たちを簡単に凌駕する力を持っていること、そして強い悪意をもってMEISとそれによって支えられている社会を破壊しようとしていることを知っている。
柚たちは決して敵うはずのない相手に、いわば勝算の無い無謀な戦いを挑んでいるのだ。
『これまで仕込んだ卵たちはいずれ一斉に目覚める。『虚無』からは逃げられない。どんな環境に隔離していようと無駄だ。MEISを搭載した者はすべからく、『深淵』で繋がっているのだからな』
今更ながらに、ヴォイドの吐き捨てた声が聞こえてくるようだった。
もはや疑う余地はない。叡凛大学附属病院はおそらくこれから、最悪の事態に陥るだろう。被害が大きければ大きいほど、社会が受けるダメージも深く、同時にMEISに対する不満や不信感も増大していく。
ヴォイドはそれが狙いなのだ。
(大学病院の隔離病棟では、超巨大級・《アンノウン》の蛹に汚染され、意識を失って眠り続けている叡凛の生徒が今や五十人近くいる。ヴォイドの言ったことが本当なら、たとえ隔離病棟に入れられ、識海から完全隔離されていたとしても関係が無い。彼らに感染した蛹が一斉に羽化し、超巨大・《アンノウン》およそ五十体の成虫が出現することになる……!
巨大・《アンノウン》一体でもあれだけ苦戦したんだ。それが五十体も一度に……そんな奴らと戦って除去するなんて、さすがの柚先輩や大介先輩、湊先輩でも無理だ! いや、絶対に不可能だと断言してもいい!! それどころか、そんな大型の《アンノウン》が本当に五十体も出現したら、間違いなく通信もインフラも今以上に混乱するだろう。最悪、MEIS激甚災害に発展していまいかねない……!!)
柚たちもその可能性を十分に理解していながら、それでもたった三人で大学病院へ向かった。
医療施設はただでさえ病にかかったり酷い怪我を負ったりして弱っている者が多い。大学病院なので、重度の病や難病の治療、或いは手術なども数多く行われている。
そんなところで《アンノウン》による深刻なMEIS障害、ひいてはMEIS災害が発生したらどうなるか。全ての業務が滞り、治療や手術までもがただちにストップしてしまうだろう。
それどころか、命にかかわるような緊急を要する処置も不可能となってしまうかもしれない。ネオ研のみなもそれを放ってはおけないと判断したのだ。
その気持ちは比呂もよく分かる。
(だって、大学病院には妹の詩織や、女子テニス部の三雲先輩もいるんだから……!!)
比呂には巨大・《アンノウン》に対抗する力など何もない。
だが、どうしても諦められなかった。このまま何もせず、ただ柚たちを見送ることなどできなかった。
一つだけ、《アンノウン》に対抗する術があることに思い至ったからだ。
比呂は新世界市が好きだ。詩織や三雲るりだけではない。ソピアー・ジャパンの蓮水や冬城、学校の級友や先生たち。そして何より、大切なネオ研の仲間たち。新生活が始まってまだ間もないが、こんなにも好きになった。
みな、比呂のことを一人の人間として受け入れてくれたから。偏見なく、同じ社会の一員として接してくれたから。
地元にいた時には感じたことのない温かい感情が込み上げる。ここにいてもいいのだという安心感が傷ついた心を癒してくれる。
この街に来て、初めて比呂は居場所を得たのだ。
だからこそ、心から思う。新世界市を、そこで生きる人々を救いたいと。
柚たちのように、己の身を犠牲にしても守ろうとすることに大きな価値があると、今なら理解することができる気がする。
迷った末、比呂は芽衣のそばから離れると、心の中で呼びかけた。
「……アネモネ、そこにいる? お願いがあるんだ」
すると、すぐさま比呂の視界にアネモネが姿を現した。
「何だい、比呂?」
アネモネは、先ほどヴォイドと会話していた後に比べると、随分と落ち着いていた。黒曜色の瞳には、青紫の光が宿っている。
ただ、アネモネの姿を捉えることができるのは比呂の網膜ディスプレイだけだ。芽衣や他の通行人、ソピアー社の社員は彼女がそこにいることに気づいていない。
比呂はなおも躊躇していたが、意を決して切り出した。
「柚先輩と大介先輩、湊先輩の三人が叡凛大学附属病院へ向かったんだ。でも、先輩たちみなの力を合わせても、きっと病院にいる《アンノウン》すべてに対処することはできないだろう。ただでさえ既にあれほどの《アンノウン》が溢れているんだ。それなのに、あそこには隔離病棟に封じられている超巨大・《アンノウン》が五十体近くも眠っている。
だから……君の力で先輩たちを助けてあげて欲しい。どうか病院を救って欲しい。病院には僕の妹、詩織もいるんだ。本当は僕たち自身の力で解決できたらそれが一番なんだろうけれど……おそらくその願いはもう叶わないだろう。
もはや頼れるのは君しかいない。MEISヒーリング店を使って今回のMEIS災害を仕掛けてきたヴォイドと同じかそれ以上の力を持つ君にしか、この混乱を収拾させることはできない。君にしか頼めないんだ……!」
「……」
「頼んで……いいかな?」
比呂がそう口にすることを予期していたのか。アネモネは特に動揺も見せず、静かに尋ねた。
「……どうして僕にそんなことを?」
「アネモネ……?」
一方、芽衣は比呂がそばにいないことに気づいた。周囲を見回すと、比呂はソピアー・ジャパンの敷地内へ戻っていた。
どうしてそんなところに。疑問に思った芽衣は、さらに比呂の様子がおかしい事に気づく。比呂は芽衣の方でも、学校や病院の方でもない、何の変哲もない植木のそばをじっと見つめていたのだ。
「比呂……?」
訝しむ芽衣の髪を、風が乱暴に搔き乱す。その荒々しい風は比呂にも吹き付け、髪や制服をざわざわと揺らした。けれど、アネモネの黒髪はそよりとも動かない。
比呂は、僅かに伏せられたアネモネの瞳を窺うようにして、じっと見つめる。
「……アネモネ、怒っているの?」
「そうじゃない。でも、これまで君は僕に一度もそんな頼みをした事は無かっただろう? 君はこれまでたくさんの感情を僕と共有してきたけれど、僕に《表層》で起こる事象に干渉するよう頼んだことは一度たりとも無かった」
「そう……だったっけ」
「ああ、そうさ。それなのに、どうして今回は心変わりをしたのかい?」
「それは……今までは君に迷惑をかけたくなかったし、こんな大事件を経験したことも無かったし……」
しかし比呂は、そのどれもが、ただの言い訳に過ぎない事に気づく。
(そうか……僕は、はっきりと認識したくなかったんだ。だから気づかないふりをしていた。アネモネが僕たちとは『違う』ということを……!)
もちろん、頭では理解していたつもりだった。アネモネには肉体が無い。電脳識海上のみに存在する、『深淵より生まれし者』。
けれど比呂は全てを知った上で、あくまで一人の人としてアネモネに接したかった。肉体を持つか持たないかという違いはあっても、互いに本当に想い合っていれば、必ずやそこを克服することができる。そう信じていたし、実際にこれまではアネモネがそばにいてくれるだけで良かった。
しかし、こうしてアネモネに人の力の範疇を超えた願いをするということは、すなわち比呂自らが証明してしまうことになる。自分はアネモネのことを「人間」ではないと思っているのだと。
(駄目だ……これ以上、踏み込むと、アネモネとの関係が変わってしまうかもしれない。これまで二人で築いてきたものが崩れ去ってしまうかもしれない……!!)
不安や恐怖が膨れ上がり、比呂はさらに不吉な記憶を思い出してしまう。アネモネは比呂に対し、何か大きな秘密を抱えていること。杏奈の『死』に、間違いなくアネモネが関係していることを。
(僕……僕は……!)
アネモネは比呂にとって、かけがえのない唯一の存在だ。だから、他の何を犠牲にしても、彼女との関係を優先させてきた。
たとえ、そのせいで電脳識海上のどこかにいる母に会えないのだとしても。アネモネがそばにいてくれるなら、それすらも構わないと心の底から思えた。
アネモネはそれを見透かしたかのように囁く。
「……ねえ、比呂。君はもう、この件に関わらない方がいい。関わらなければ何も失うことは無いし、辛く悲しいことを思い出す必要もないんだ。今まで通り、これからも僕たち二人だけでずっと……ずっと一緒にいられるんだよ」
それからアネモネは、その青紫の瞳を比呂に向け、誘うように右手を差し出した。
新世界市に来る前の比呂なら、迷わずのその手を取っていただろう。現に今も、強い誘惑を感じる。何ら思い悩むことなくこの手を握ることができたら、どんなに良いだろう。アネモネと二人だけの世界に浸り続けることができたら、どんなにか幸せだろう。
しかし比呂は、アネモネの手を取ることなく、自らの両手を握りしめるのだった。
「……僕もずっとそう思っていた。君さえいれば他には何もいらないんだって。ついこの間までそう信じていたんだ」
「比呂……」
「でも、もう昔のままではいられない。僕は『外の世界』を知ってしまったから……!」
一度、思いを口にしてしまうと、もはやそれを止めることはできなかった。言葉は次から次へと溢れ出す。比呂はそれを余すところなくアネモネに伝えた。
「この新世界市に来て、叡凛高校に入学してネオ研に入部して……初めて信頼できる先輩ができた。仲の良い友達や気軽に話せる級友もできた。始めてアネモネ以外の誰かを好きだと思えたんだ。失いたくない。守りたい。そう思ったんだ! 僕にとってアネモネはとても大切な存在だけど、だからと言って柚先輩たちや芽衣や詩織を、僕の中から切り離すことなんてできない。どちらか一方だけなんて選ぶことはできないよ……!!」
「……」
「ごめん、アネモネ……本当にごめん……!」
――アネモネを裏切ってしまった。
強い罪悪感が胸を締め付ける。
アネモネはいつだって比呂のそばにいてくれた。そして、白羽と黒羽という家族まで与えてくれた。あらゆる方法を用いて比呂を守ってくれたのだ。
比呂とアネモネの関係は、どちらか片方の努力だけで築かれてきたものではない。比呂がアネモネを想うのと同じくらい、アネモネは比呂のことを想ってくれたのだ。それを今、自分は粉々に破壊しようとしている。
アネモネはしばらく黙っていたが、やがて一転して優しい口調になって言った。
「比呂、謝ることは無い。それが君の望みならば、僕は喜んでそれを叶える。君の変化はおそらく、君自身にとっては良いものなのだろうから」
そして、アネモネは叡凛大学附属病院の方へ視線を向ける。そこに湧き上がり、上空まで黒く染め上げる数多の《アンノウン》を。
「あれは僕が引き受けよう。……本当は最初からそのつもりだったんだ」
「え……?」
「謝るのは僕の方だよ。試すようなことを言ってすまない、比呂。でも、どうしても君の本当の気持ちを知っておきたかったんだ。僕にとっては、何より重要なことだから」
「アネモネ……」
「君は前に進むことを選んだんだね。それなら、僕はその選択を心から祝福するよ」
――ああ、そうだったのか。
けれど、そう思った時には既に遅かった。
アネモネはただ、比呂の心を確認したかったのだ。比呂の気持ちを比呂の口から直接聞きたかったのだ。
だがその事で、図らずもそれは決定的になってしまった。二人はもう、共にいられないのだというその事実が。
そんな――そんな。
青ざめる比呂をその場に残し、アネモネは静かに身を翻す。比呂はその背中に向かって思わず叫んだ。意味が無い事と分かってはいたが、それでも叫ばずにはいられなかった。
「アネモネ! 信じてもらえないかもしれない……都合が良すぎると思うかもしれない! それでも……君は僕の一番だよ!!」
アネモネは振り返った。その顔はいつもと同じように優しい微笑を浮かべていて、けれど、どこか悲しげだった。
比呂は息を呑み、彼女の横顔を見つめる。その一瞬の隙を突くようにして、アネモネは音も無く姿を消したのだった。
比呂は、はっきりと悟る。
永遠など存在しない。
変わらないものなどこの世には存在しない。
アネモネとの関係もいつかは変わる。
そしてとうとう、その時が来てしまったのだと。




