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第56話 惨劇の序章

 どくどくと、心臓の脈打つ音が早くなっていく。


 それまで強引に抑え込んできた疑問が、これ以上は我慢ならないとばかりに比呂の中で頭をもたげる。


 どうして、母の杏奈は見つからないのだろう。


 「ここで待っている」と言ったのに。彼女はこの電脳識海のどこかにいるはずなのに。


 比呂は杏奈が《電脳幽鬼(サイバーファントム)》になったのではないかと考えた。アネモネもそれを否定しなかった。けれど母は見つからない。


 それは一体、何故なのか。


 比呂は、母の最期に立ち会う事ができなかった。杏奈がどうなったのか、知っているのはアネモネだけだ。


 本当はあの時、何があったのだろう。比呂には何でも話してくれるアネモネが、どうしてあの時のことに関してだけは頑なに口を閉ざすのだろう。


「あ……アネモネ……」


 分からなかった。どうしていいのか、何を信じていいのか。


 アネモネを想うこの気持ちだけは変わらないはずなのに。


 どうしてこんなにも胸が苦しいのだろう。


 アネモネはその濃藍色の瞳に、深い悲しみを浮かべた。そして、それをゆっくりと比呂から逸らす。


「比呂……本当の事を言うとね、僕は君に真実など思い出して欲しくないんだ。思い出せば、必ず君は深く傷つき悲しむことになる。必ず……必ず、だ。だから僕は君が杏奈のことを探していると知りつつ、その記憶を封じ続けてきた。それが君のためになると信じて。だが……いくら僕が望んでも、いつか真実が明らかになる時は来る。結局、僕がしているのはただの問題の先送りだ。真実を思い出して欲しくないというこの思いも、ひょっとしたら僕のエゴに過ぎないのかもしれない」


「アネモネ、それは……どういうこと……?」


 比呂の声も震えていた。


 本当のことを知るのが怖い。怖くて怖くてたまらない。


 それでももう、これ以上、目を背け続けることはできなかった。


 けれど、アネモネはそれに応えてくれない。


「……比呂、僕には分からないんだ。どうすれば良いのか、どう振舞うのが君にとっての最良(最適解)なのか。こんなにも君のことを想っているのに、僕にはそれさえ分からない。僕が人でない故に意図せず君を傷つけ悲しませている……そんな可能性もあるのではないかと考えると、やりきれなくて胸が張り裂けそうになる。……僕は本当にこのまま君のそばにいて良いのだろうか? 僕には……本当にその資格があるのだろうか……?」


 アネモネは自問し続けた。まるで自らを罰するかのように、何度も、何度も。


 やがて部屋に差し込む夕日の光が更に鮮烈な光を放つ。世界の全てが、(くれない)色をした海に沈んでいく。


 アネモネの背中はその揺蕩(たゆた)う波間にかき消されていった。比呂は慌ててアネモネの背中に向かって手を伸ばす。


「待って、アネモネ! アネモネ……!!」


 そこで、はっと目が覚めた。比呂は二、三度、瞬きをする。


 ここは、どこだ。


 新世界市国際ホテルの中にある休憩室の中かと思ったが、そうではない。それよりはずっと無機質で簡素な部屋だ。


 しばらくして、ようやくそこがソピアー・ジャパン総合技術研究所の第三研究棟にある会議室の中であることを思い出した。


 比呂たちネオ研のメンバーはその会議室の中におり、MEIS通信を介して意識のみがパーティー会場に潜入する蓮水に同行していたのだ。


 それが何らかの理由で断ち切られ、意識が体の方に戻って来たのだろう。


 比呂が目覚めたことに気づいたのか、ネオ研のみなが心配そうな顔をし、横たわる比呂の元へ集まってくる。


「比呂、気づいた!?」


 芽衣は比呂が気を失っている間、ずっと手を握ってくれていた。


「気分は悪くない? 起きれる?」


 柚も比呂の身を案じ、顔を覗き込む。


「あ……はい。何とか……」


 比呂はそう答えると、どうにか身を起こした。頭は少しぼんやりするものの、他には特段、異常もない。湊と大介は起き上がる比呂を見て安堵の息を吐いた。


「良かった、大事は無さそうだね」


「もっとも、あっちはえらい事になってるみてえだがな」


 大介の視線の先には、非常用有線回線で外部と連絡を取っている冬城の姿があった。


「……はい。はいそうです。いえ……こちらもMEIS通信は全く繋がりません。……え、それは本当ですか!? 本社の方までそのような状態に……!?」


 いつも冷静な冬城の声が切迫し、上擦っている。話の内容から察するに、相手はソピアー・ジャパン本社にいる社員の誰かだろう。かなり混乱した状況であることが伝わってくる。


 比呂は周囲を見回し、あることに気づいた。蓮水の姿が見当たらない。


「蓮水さんはどうなったんですか?」


 尋ねると、湊は沈んだ表情で首を振る。


「それは分からない。突然、通信障害が起きて、連絡が途絶えてしまったんだ。蓮水さんは今も高田社長と国際ホテルにいるだろうけど、あっちがどうなっているかは分からない」


「通信障害……」


 確かに会議室の中はひどく暗い。それもそのはず、通常電源はみな落ちてしまっていて、非常用電源に切り替わっているのだ。いつもの照明とは違い、緊急事態を告げる警告灯のような赤い灯りが辛うじて室内を照らしている。


 また、空調や他の機器類も全て止まっていた。おそらくインフラ機能全般が停止してしまっているのだろう。


「この通信障害、今までのものとは明らかに桁が違うよ。MEIS通信が完全に麻痺してる。かなり大規模で深刻なものになりそうだね」


 柚も緊張した面持ちで呟いた。《深海の魔女》と称される柚がこれほど切羽詰まった気配を漂わせているのだ。よほどの事が起こりつつあるに違いない。そう考えると、比呂も俄かに緊迫感に包まれる。


 やがて外部と連絡を取っていた冬城が通信を終え、比呂たちの元へ戻ってきた。


「ちーちゃん、どうだった?」


 柚が尋ねると、冬城は未だ動揺の抜けきっていない様子で答えた。


「ソピアー社の本館へ連絡を取ってみたのですが、あちらもかなり混乱していて情報が錯綜しているようです。どうやらこの通信障害はかなり深刻で大規模なものになりそうですね。ただ二つ、気になる情報を耳にしました。一つは叡凛大学附属病院が特に壊滅的被害を受けていて、多くの人が倒れているらしいということ。もう一つは、叡凛高等学校でも多数の意識不明者が出ているようです」


「通信障害が起こっていて、しかも大学病院と高校で多数の意識不明……?」


「それって、例の蛾型の《アンノウン》が原因のやつじゃねえか!?」


 ネオ研のみなは顔を見合わせる。どの顔にも、激しい不安や恐れが浮かんでいた。比呂も途轍もなく嫌な予感に襲われる。ただでさえ、蛾型の《アンノウン》による被害は、かつてないほど深刻なレベルに達しており、ネオ研はその対応に追われてきた。そのことを思い出したからだ。


 蛾型の《アンノウン》によって意識を失い、叡凛大学附属病院へ搬送され、そのまま入院した生徒は今や五十名以上にも及ぶ。彼らに取り付いた《アンノウン》の(ピューパ)が羽化し全て成虫(イマーゴ)になったら、通信障害などとは言っていられないほどの大混乱が起きるだろう。まさにMEIS災害だ。そんなことになれば、この街は一体どうなってしまうのか。


 叡凛高等学校の方も楽観視はできない。MEISヒーリングが流行っていることを考えても、潜在的に《アンノウン》の(スポーン)に感染した生徒はかなりの数に上るに違いない。


 もし、彼らに何かあったら。この通信障害によって何かしらの刺激が加えられ、(スポーン)が一気に活動を活発化させるようなことにでもなれば、比呂たちの高校はどうなってしまうのだろうか。 


 いや、もはや可能性の話をしている段階ではない。もうすでに異常事態は現実の事として起こっているのだ。


「とにかく、ここにいたんじゃ何も分からない。まずは外に出てみよう!」


「ああ、そうだな。まずは状況を把握しねえと!」


 柚と大介の言葉に、他のみなも我に返る。


 ――そうだ、とにもかくにも、まずは外に出て状況を確かめなければ。


 冬城はさっそく会議室の入口へ向かった。


「今、部屋の扉を手動で開けますね」


「冬城さん、僕も手伝います!」


「わ……私も!」


 比呂たちは協力し合って非常ドアコックを操作し、どうにか会議室を脱出する。


 第三研究棟の廊下に出ると、他の社員や研究員たちが慌ただしく走り回っていた。研究棟の設備が動かないのでその対策に追われているらしい。


 現に廊下は真っ暗で、みな手元にあった端末(タブレット)の発する光を利用し、どうにか視界を確保している。部屋に閉じ込められたままになっている者もまだまだ多いようだ。


 何より研究棟の入口が閉め切られてしまい、厳重なセキュリティーを手動で解錠しなければならず、そちらに多くの人手が割かれている。このままでは外に出る事すら叶わない。 


 B‐IT社会では、あらゆるモノやサービスがMEISと繋がっている。つまり、MEISを介してそれらを動かすことが当たり前となっているのだ。そのため、ひとたび通信障害が起きると、途端に社会が立ち行かなくなってしまう。当然のように利用できていたモノやサービスが、全く使えなくなってしまうからだ。


 ようやく研究棟の扉が開き、比呂たちは他の社員たちと一緒に建物の外へ出た。


 その日は朝から曇り空だったが、今や降り出しそうなほどの黒々とした雨雲が空に立ち込めている。風も強い。比呂たちの髪や制服、全てがバタバタとはためいている。


 冬城もまた、風に煽られ髪が激しく乱れている。しかし彼女はそれに構わず、ソピアー・ジャパンの本社を指さして言った。


「私は本社の方へ戻るよう指示されています。通信環境が悪化しているので、おそらく私たちが十分にバックアップすることはできません。みなさん、くれぐれも無理はしないで下さい」


「分かってるよ。ちーちゃんも気をつけてね」


 柚は笑顔を浮かべ頷いた。冬城はこれから、通信障害の復旧に回るのだろう。MEISは新世界市を支える要だ。その通信環境を守ることができるのは、ソピアー・ジャパンの社員である冬城たちだけだ。


 そして、それを成功させるためにも、速やかに通信障害の元凶である《アンノウン》を除去しなければならない。そちらはネオ研の役目だ。


 比呂たちは街中の状況を確認するため、広大なソピアー・ジャパン本社の敷地から外へと飛び出した。


「こ、これは……!?」


「ひどい……!!」


 目の前に広がる光景に比呂たちは息を呑む。


 街中は信じられないほど様変わりしていた。あちこちで人の叫ぶ声、パトカーや救急車、消防車などのサイレンの音が鳴り響いている。普段は聞こえてくるはずのない、切羽詰まった喧騒。


 どこかで火事が起きたのか、煙まで昇っているのが見えた。MEISの大規模通信障害のせいで、自動運転の車は全く動かないし、中には暴走をして植え込みや店舗に突っ込んでいるものもある。


 警備ロボットや無人の輸送車も同様だ。道の真ん中で停止しているもの、派手に転倒したり、防護柵に衝突して煙を上げているものもある。


 第5区域はソピアー・ジャパンの他にもさまざまな企業の施設や研究所が建っているが、どこも混乱に見舞われているようだった。多くの従業員が慌ただしく出入りし、警報が鳴り響いている施設もある。


 以前はそれらの施設の前を通りかかるたび、網膜ディスプレイ上に施設名や企業の看板ロゴなどがお洒落に浮かび上がった。だが、今はそれにノイズが混じり、全く関係のない歪んだ画像や文字列で埋め尽くされている。


 昼間は比較的、閑散としている第5区域・先端技術研究地区でもこの有り様なのだから、人通りや交通量、情報量の多い他の地区はどうなっているのだろうか。


 観光客の多い第1区域・湾岸地区(ベイエリア)や、マンションや商店街の立ち並ぶ第2区域・再開発地区。学校施設の集まっている第3区域・文教地区や、新世界市の中心部である第七区域・中心市街地(セントラルシティ)。みな、どうなってしまっているのだろうか。


 想像するだけで背筋が寒くなるようだった。


 呆気にとられ、立ち尽くしていたその時。比呂の目の前を、真っ黒い蝶がひらひらと飛んでいく。


 大きさは小さく、普通の蝶と同じくらいなので最初は気づかなかった。けれどよく見れば、その姿は確かに比呂たちを悩ませてきた蛾型の《アンノウン》だ。


「これは……例の蛾型の《アンノウン》!?」


 比呂が驚いて声を上げると、他のみなもその存在に気づいた。


「本当だ。大きさはそれほどじゃないけど……とにかく、あちこちに飛んでる!」


 芽衣の言葉通り、蛾型の《アンノウン》は街中のそこかしこに飛んでいる。大小は様々だが、芽衣に取りついていたものほど大きくない。どれも手のひらサイズかそれ以下だ。


 だが、何と言っても数が半端ではない。数十、或いは数百の個体が集まり、あちこちで群れを成している。


 黒い蝶がひらひらと舞うさまは、どこか儚く幻想的であると言えなくもない。だが、それがあまりにも大量にひしめいているため、不気味さやグロテスクさの方が勝る。まるで、この世の終わりみたいだ。何とも言えずぞっとする光景だった。


「何なんだ……一体、何が起こってやがるんだ!?」


 大介は周囲を見回して眉を顰めた。湊もその異様な光景に、困惑した表情を浮かべる。


「もはや成長しきっていないものまで、ことごとく羽化しているというかんじだね」


「それだけじゃないよ! みんな、あっちを見て!」


 柚が指し示す方へ視線を向けると、街の向こうが真っ黒に染まっているのが見えた。


 火事の煙にも見えるが、そうではない。煙のような濃淡はなく、もっと純粋に黒い。雨雲の垂れこめた空を背景にしていても、その姿がはっきりと捉えられるほど黒々としている。


 また、ネオ研以外の人間は誰もそちらに注目していないことから、その黒い霞は比呂たちにしか見えていないと推察できる。おそらく、《アンノウン》が大量発生し、巨大な群れを形成しているのだ。


「あれは……《アンノウン》があんなにたくさん!?」 


「もはや空まで覆い尽くすほど、まっ黒じゃねーか!!」


 比呂と大介は驚愕の声を上げた。湊もまた緊張に包まれている。


「ここからでも、あんな黒く霧がかかっているように見えるなんて……相当な量の《アンノウン》が一斉に湧いて出ているに違いないよ」


「あっちは確か、大学病院がある方角だな……!」


 すると芽衣が北東の方を指さして叫んだ。


「その向こう、叡凛高校がある方を見てください! そっちも同じように真っ黒です!!」


 確かに叡凛大学附属病院のやや北側寄りに、もう一つ黒い靄の塊が見える。距離や方向を考えると、叡凛高等学校のある第3区域だ。やはり大学病院の上空と同様、黒々とした《アンノウン》が大群を成し、煙のように上空へと立ち昇っている。


「病院と高校……ちーちゃんが言っていた通りだね。蛾型の《アンノウン》が大量発生しているんだ!」


「ああ。どちらの施設も、元もとクーポンチケットに埋め込まれた特殊な人工・《アンノウン》に感染した人間が多い場所だった。何らかの理由で、それが同時に成虫(イマーゴ)化したんだ! そしてその成虫(イマーゴ)がこの大規模通信障害を引き起こしている……!!」


 比呂たちの懸念は現実のものとなってしまった。新世界市は危機に瀕しかけている。ヴォイドのもたらした人工の《アンノウン》によって、災害級とも言える大規模通信障害が発生しつつあるのだ。


 しかも、今はまだその序章にすぎない。本当の惨劇が起こるのは、これからだ。  


「くそっ……何もかも、あのビトラって奴の思い通りに進んでいるってことか!」


 大介は忌々しげに吐き捨てた。柚も唇を噛みしめる。


「悔しいけど……その通りだと思う。このままじゃ新世界市は通信や社会機能に大ダメージを受ける。B‐IT社会ではそれは致命傷だよ。ヒトもモノもサービスも、全てが電脳識海で繋がっているんだから。その繋がりが絶たれたり歪められたりしたら、社会が簡単に立ち行かなくなってしまう。この大規模通信障害が長引けば長引くほど、この街は壊滅的な被害を受けることになっちゃうよ」


「そうなったら、今回の事件はB‐IT史上、最大のサイバーテロになるだろう。ビトラはIOT社会の弱点を見事に突いてみせたんだ。MEISヒーリング店なんて手の込んだ仕かけまでして……ね」


 湊の指摘に異議を唱える者はいない。みな蒼白になって第3区域と第4区域を見つめる。今もなお、膨張し続ける《アンノウン》の群れを。


 上空でさえあれほどの数なのだ。その真下はどのような有り様になっているのか。考えただけで怖気が走った。一つ一つは小さいとはいえ、あれほど大量の《アンノウン》にMEISは耐えきれるのだろうか。


「そんな……どうしたらそれを防げるんでしょうか?」


 芽衣の発した呟きは絶望感に満ちていた。柚も厳しい表情をして瞳を伏せる。  


「これといった有効な手段は無いと思う。わたし達は結局、ビトラから意識不明を回避する方法や《アンノウン》の(スポーン)を除去する方法を聞き出すことができなかった。でも、だからと言ってこのまま何もしないわけにはいかない……!!」


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