第54話 ビトラ②
詩織はアクセス権こそ高レベルの4だが、同時に電脳ニューロン移植に対する拒絶反応の一種を起こし、それによってずっと苦しめられてきた。
慢性光情報過敏症アレルギー症候群Ⅵ型――いわゆるMEIS疾患は難病に指定されており、現在の医学で完治させる方法は無い。
詩織は辛さや苦しさを比呂の前ではあまり見せないが、本当は筆舌に尽くしがたいほどの苦労をしてきたことだろう。
詩織にとってMEISを搭載したことは良かったのか、それとも悪かったのか。きっと本人でさえ簡単に答えは出ないに違いない。
ひょっとすると、ビトラも同じ立場に立たされたことがあるのだろうか。
蓮水も当然、その可能性に思い至っただろう。ビトラの言葉を聞き、僅かに語勢を緩めた。
「……なるほど。君の言いたいことはよく分かったよ、ビトラ。しかし僕たちは急いでいてね。君のいささか偏向した思想に基づく革命ごっこにつき合っている余裕は無いんだ。君の仕込んだMEISヒーリングのせいで大きな被害が出た。これだけ世の中を掻き乱したんだ、もう十分満足しただろう? あまり過激なことをしすぎると人の心は離れる。これ以上の犠牲が出れば出るほど君たちの理想に共鳴する人は減少していく。それは君たちADAMASにとっても不本意なことなんじゃないか?」
「……」
「どうだろう。この辺りで手打ちと行こうじゃないか。君がクーポンチケットに仕込んだ人工・《アンノウン》の除去方法を教えてくれ。巨大蛾の成虫にまで成長させず、卵や蛹の段階のものを取り除く方法を、だ」
ネオ研の面々もビトラの反応を注視した。彼が新世界市で仕出かしたことの数々は、到底許せるものではない。だが今は、意識を焼失したまま眠り続けている生徒を救うのが最優先だ。
けれどビトラは無表情のまま肩を竦める。
「そんなものは存在しない。お前たちがあの人工・《アンノウン》を取り除こうと思ったら、成虫になるのを待つより他にはない」
「それで僕たちが大人しく引き下がると思っているのか? このまま交渉決裂だというなら、MEISヒーリング店の危険な実態と既に多くの子どもが犠牲になっていること、それに反BBMI解放戦線・ADAMASが関わっていることなど全てを世間に公表させてもらう。
警察を始めとした行政機関はサイバー犯罪の取り締まりに対し決して積極的ではないが、被害者がこれだけ存在しているとなればさすがに動かざるを得ないだろう。君たちに対するマークは間違いなくこれまで以上に厳しいものとなる。ADAMASの活動も、これからはさぞかしやりにくくなるだろうね」
蓮水の言葉は明らかに脅しを含んでいた。彼はどんな手を使ってでも、ビトラから譲歩を引き出したいのだ。
ところが、高田の体を乗っ取ったビトラはそれに怯むどころか、すっと両目を細め剣呑な光を浮かべるのだった。
「世間に公表……? やれるものならやってみろ。《アンノウン》の存在が公になって困るのは、俺たちADAMASではなく、むしろお前たちソピアー社の方だろう?」
「……!!」
「《アンノウン》はMEIS技術の暗部であり、同時にMEISの普及を推進しているソピアー社の暗部でもある。一刻も早い解析と原因究明、対処方法の確立が求められているが、《アンノウン》自体が多くの人間にとって感知できない存在であるため、ソピアー社内部でも見解や評価が割れている。
そんな状況で本当にMEISヒーリング店のことを公表できるのか? 《アンノウン》と切り離せないあの店の存在を? 《アンノウン》のことを公表されて窮地に陥るのはむしろソピアー社の方ではないか?」
「く……!」
痛いところを突かれ、蓮水は渋面になった。
確かにビトラの言う通り、世間にMEISヒーリングのことを公表するとなれば《アンノウン》の説明は避けては通れない。そして、ソピアー社にとってそれは大きなリスクを伴うだろう。
大多数の人々は《アンノウン》の姿を視認することができない。そして人は、己の感知できないものには強い恐怖を抱く。下手をすると、MEISに対する反感や不信感が一気に爆発しかねない。
つまり実際には、MEISヒーリング店の存在はおいそれと公にはできないという事だ。
ビトラはこちらの弱みや限界を冷静に理解し、しっかりと把握している。『公表』の二文字をちらつかせるや否や、蒼白になって慌てふためいた高田求道とは違って、格段に冷静で機転が利く。下手な脅しはむしろ逆効果だ。
かと言って、このまま泣き寝入りというわけにはいかない。苦虫を噛み潰したような顔をする蓮水に代わって、今度は柚が声を荒げた。
「それじゃあなたは、このままたくさんの犠牲者が出続けても平気だというの!? 自分たちの理念や理想さえ実現すれば、その他のことはどうでもいいなんて、絶対おかしいよ!! ……そもそも、どれだけ事態が深刻か、本当にあなたは理解しているの!? このままじゃいずれ死者が出るのも免れない。大量の《アンノウン》が孵化すれば大規模なMEIS災害だって起こる……そんなことになったら、もう取り返しがつかないんだよ!? 本当にそれでも良いって思ってるの!?」
しかし、ビトラは動じない。
「……誰かと思えば、《深海の魔女》・冷泉柚か。アクセス権は高くても中身はまだまだ子どもだな。我々は多少の犠牲は覚悟で行動を起こしている。そんな、いかにもな感情論で同情を引こうなどと、笑止千万だ」
ビトラはどこか馬鹿にしたような口調でそう言った。それを聞いた大介は激怒する。
「何だと!? 柚の言ったことは『いかにもな感情論』じゃねえ! 柚は人として当然のことを言ったまでじゃねえか! それを笑止千万だぁ!? てめえにゃ、心ってものが無えのかよ!?」
「そうだ。こんなことをして、あなたの良心は本当に痛まないのか!? これから先、何が起こっても断じて後悔しないと言えるのか!!」
湊もまた声を張り上げた。ビトラのあまりにも身勝手で無責任すぎる言い分に、我慢がならなかったのだろう。しかしビトラは、やはり冷ややかにそれをあしらうのだった。
「何故そんなに憤る? 確かにMEISヒーリングは被害者を生み出したかもしれない。しかし我々はその被害者たちにMEISの不完全性を体験させることで、B‐IT社会は誤りであるという真実に目覚めさせ、むしろMEIS社会の呪縛から解き放とうとしているのだ。一時的に責められたとしても、いずれ必ずその正しさが証明される時が来る」
「歪んでる……あなた達が正しいなんて、絶対にそんな時が来るわけない!! 何だかんだと理論武装をしたところで、あなた達が私たちを傷つけ、依存性で利用した事実は変わらないんだから!!」
芽衣は胸元で両手を握りしめ、肩を震わせつつも叫んだ。MEISヒーリング店を利用したことによって実際に意識を失いかけた彼女にしてみれば、ビトラの主張など加害者の戯言にしか聞こえないに違いない。
けれど、それすらもビトラには全く効果をなさなかった。ビトラはフンと鼻を鳴らすと、侮蔑を含んだ視線を芽衣に送る。
「お前はMEISヒーリングの経験者か。ならば分かっているはずだ。問題は外ではなく、己の内にあるのだということを」
「なっ……!?」
「MEISヒーリングはあくまで内在していた問題を表面化させただけに過ぎない。その証拠に、MEISヒーリングを経験した者が全て依存症になっているわけではないし、その全てが意識不明に陥っているわけでも無い。お前がMEISヒーリングで傷ついたのは、他でもない、お前自身の問題のせいだ」
「そ……それは……!」
「逆にお前は考えたことは無かったか? MEISさえ無ければ、親友の八雲彩月にあれほど嫌われずに済んだ。MEISさえ――アクセス権の存在さえなければ、今でも彼女と友達でいられたのに……と」
八雲彩月。その名を聞いた芽衣は、真っ青になり身を竦ませた。
「どうしてそれを……!!」
動揺が走ったのは、他のネオ研のみなも同じだ。
「こいつ……何で芽衣の友人の名前を知ってやがんだ!?」
大介の声は完全に上擦っており、衝撃を隠しきれていない。
芽衣は新世界市に来てからずっと孤独で、ネオ研の他に親しくしている人間はいないようだった。彼女と彩月の間で起こったトラブルを明かしたのはおそらくネオ研のみだ。
それなのに何故、ビトラは芽衣の友人のことを知っているのか。まさか、事前に芽衣の身元を調べ上げたとでも言うのだろうか。こうして自身とネオ研が対峙することを予想していて。
だが、果たしてそんな事が可能なのか。
「いや、ビトラは僕や柚のことも知っていた。もちろん、他のみんなのことも知っているだろう」
そう告げる湊の頬にも、冷や汗が滴っている。
そういえば、ビトラは《深海の魔女》という柚の異名や、湊の家のことまで知っていた。彼は一体、何をどこまで知っているのだろう。どうやってそれらの情報を知り得たのだろう。
考えれば考えるほど、ビトラに全てを見透かされているような気味の悪い感覚に陥る。
まるで直接、頭の中を覗かれているかのような。
「ビトラ……君は一体、何者なんだ!?」
蓮水は改めて質問を浴びせた。しかしビトラは欠伸交じりに頭を振るばかりだ。
「それをお前たちに教える義理も、義務もない。こっちは反BBMI解放戦線・ADAMASの一員だと明かしてやったんだ。それで十分だろう? ……我々は自らに正義があると信じている。多少の犠牲を払おうとも、その正義のために最後まで革命を成し遂げる覚悟だ。話はこれで終わりか?」
ビトラは億劫そうな口調でそう吐き捨てた。その言葉は虚無感に満ちていて、どこか投げやりになっているようにも感じられる。彼は、もはやこの『会談』にさしたる価値は無いと判断したのだろう。
事実、常に会話の主導権を握り、自らの情報をほとんど明かすことの無かったビトラに対し、ネオ研と蓮水は惨敗だった。黒幕であるビトラを引き摺り出したところまでは良かったが、クーポンチケットの卵の除去方法や意識不明の解決方法など、求めていた情報は何一つ得られず、ビトラが何者なのかさえ暴くことができない。
大介はぎりぎりと悔しげに奥歯を噛みしめる。
「ちくしょう、ここまで追いつめたってのによ……!!」
「結局、意識不明から回復する方法も、《アンノウン》の卵を除去する方法も、何一つ分かっていない。ただでさえギリギリで踏み止まっている状態なのに、このままじゃ全てが悪化するばかりだ! それに対し、僕たちには何ひとつ為す術が無い……!!」
湊も悲嘆の言葉を発した。
おそらく、これ以上、対話を続けたとしても、ビトラが口を割ることは無いだろう。ビトラは圧倒的に優位な立場にいる。リスクを冒してまでネオ研に情報を開示する必要がない。
何より、ネオ研には他に切れるカードがない。比呂たちはビトラが何者かさえ分からないのだ。仮に高田を捕らえたとしても、彼からビトラの情報を引き出すのは不可能に近い。
つまり、これ以上は交渉そのものが成立しないという事だ。
ビトラは両足を組み背にその身をもたれ、椅子の手すりに肘をついた。そして頬に人差し指と中指を添え、くっと顎を上げる。まるで天上から比呂たちを見下ろすかのように。
高田求道の姿をしているが、それは完全に別の誰かだった。
「ふ……よく分かっているじゃないか。そう……お前たちは無力だ。できることなど何もない。己の分をわきまえ、余計なことをせず、事の成り行きをただ黙って大人しく眺めているがいい。こちらが求めるのはそれだけだ」
「待って! まだ話は終わってない!!」
柚が叫ぶが、ビトラは取り付く島もない。
「それはお前たちの言い分だろう。俺には他に話すことなど無いし、これ以上の対話が有益であるとも思えない。……こちらの用は済んだ。俺はこれで引き揚げさせてもらう」
「そんな……!!」
芽衣は声を震わせた。ネオ研のメンバーも歯噛みをし、蓮水もまた焦りを滲ませている。
本当にこれ以上はどうすることもできないのか。MEISヒーリング店を取り締まることはおろか、叡凛大学付属病院で《アンノウン》の蛹に取り付かれ、眠り続けている生徒たちを目覚めさせてやることもできないのか。
黒幕はすぐ目の前にいるというのに、彼がこのままのうのうと逃げ去るのを、指を咥えて眺めているしかないのか。
みなが手詰まり感と絶望感に包まれる中。
それまでほとんど黙っていた比呂が、ビトラに対し始めて口を開いた。
「ビトラさん……でしたよね? もう一つだけ聞きたいことがあります」
「比呂くん……!?」
柚を始め、その場にいる全員が驚いたように比呂の方を振り返った。まさかこのタイミングで比呂が言葉を発するとは思いもしなかったのだろう。ビトラもまた、冷笑を隠しもせずそれに応じる。
「……何だ? そういえば、もう一人いたのだったな。貝のように口を閉ざしていたから、この場にいることすら忘れていたぞ。……それで聞きたいこととは何だ?」
その言葉を聞き、比呂は遠慮なくビトラに問いかけた。
「あなたは本当に反BBMI解放戦線・ADAMASのメンバーなんですか?」
すると、ビトラは初めて警戒した様子を見せた。組んでいた足を解いて前かがみになり、観察するような鋭い視線を比呂に向ける。
「……。どういう意味だ?」
他のネオ研メンバーや蓮水も訝しげな表情をしている。
彼らは高田のMEISを操っているビトラは反BBMI解放戦線・ADAMASのメンバーだと信じ、それを疑っていない。
そもそもビトラがサイバーテロ組織の人間であることが偽りであるなら、何故わざわざそんな詐称をするのか。意味が分からないではないか。みな、そう考えているのだろう。
ビトラを含め、その場に集った面々から食い入るように見つめられているにもかかわらず、比呂は自分でも不思議なほど落ち着いていた。これまでのビトラの言動から、一つの確信を抱いていたからだ。
自分はずっと昔、ビトラと会っている。ビトラが何者なのか、自分はそれを知っている。
後はただそれを確かめるだけだ。
比呂はひどく落ち着いた声音でビトラに尋ねかけた。
「あなたは先ほど、自分に正義があると信じていると言った。でもあなたの口調は、どう考えても正義を確信している者のそれじゃない。むしろ本心では、そういう正義や理想など、どうでもいいと思っているんじゃないですか? ……あなたの言葉からは何も感じ取れない。虚無と絶望に満ちていて、鬱屈とした破壊衝動しか感じない」
「……」
「そもそも人間はまだ、MEISのヒト‐ヒト間・直接干渉を行う技術を確立させていない。現在のMEIS通信は電子機器による補助を介した間接通信が主流ですが、それも様々な障壁や防御装置が設けられていて、他人のMEISを完全に乗っ取るなんて事実上は不可能です。……そうですよね、蓮水さん?」
「……。ああ、そうだね。MEISは人間の莫大な脳機能のごく一部を拡張しているに過ぎない。電脳ニューロンをよほど効率的かつ完全に支配できなければ、他人の意識を乗っ取るなど不可能だ。現行の技術では外部からの干渉でそこまで支配することはできない。たとえ機械の力を借りたとしても、技術的に不可能なんだ。誰かを催眠にかけたり洗脳したりすることは可能でも、ロボットじみた外部入力による完全支配をすることはなかなかできないのと同じだね」
蓮水の説明が終わるのを待ってから、比呂は再びビトラに語りかける。
「……ですから、あなたがどれだけ優れたハッカーだとしても、高田社長のMEISをそこまで完全に支配するなんて、現在のMEIS技術ではできるわけがないんです。……あなたが本当に『人間』であるのならば」
しん、と、水を打ったように部屋の中が静まり返った。
「比呂くん……? それ、どういう意味?」
さすがの柚も、比呂の話について行くことができないらしい。おそらく彼女は聡明であるが故に、理解はできていてもそれを受け入れることができないのだ。
柚だけではない。
蓮水や他の面々も、みな呆気に取られたような顔で比呂を見つめている。それでも比呂は、揺るぎのない視線をビトラへ注ぎ続けた。
「けれど、もし僕たちのような肉体を持つ人間に限らなければ……それが可能な存在が電脳識海にいることを僕は知っています。……彼女は電脳識海上のみに存在する『生命』であり、肉体という制限がない故に『無限』の存在でいられる。そして、識海に繋がっている全てのMEISを介して、超越的な影響力を行使する事ができる……!」
比呂が暗に示したのはアネモネのことだった。
アネモネは幼い比呂のMEISに直接干渉して身動きできないようにしたことがあるし、つい最近も芽衣のMEISに干渉して強制的に眠らせたことがある。
彼女は人間のような肉体を持たない、電脳識海上のみに存在する高位電脳情報識体だ。
《深海層》からやって来た新しい生命体、ゼノ・ヴィータである彼女にとって、人間のMEISに干渉するなど造作も無いことなのだ。
何故なら、アネモネはMEISを介してこの世のあらゆる人間と繋がっており、もやはMEISそのものであると言っても過言ではない存在なのだから。




