第42話 目覚め、そして再会①
幼い頃、比呂はアネモネとさまざまな話をした。
楽しい話や愉快な話もたくさんしたけれど、誰にも打ち明けられない苦しい胸の内もたくさん聞いてもらった。
時には、彼女の前で泣きだすことも。長い間、一人ぼっちだった比呂にとって、心置きなく何でも話せる相手はアネモネだけだったのだ。
けれど、さすがに高校生になって、アネモネを困らせるようなことを言うのはやめようと決心した。
いつまでも子どものままでいたくない。今まではアネモネに守ってもらってきたけど、これからは胸を張って彼女のそばに立てるようになりたい。いつしか、そう願うようになっていたからだ。
「それに実際、もう僕は一人じゃない。柚先輩や大介先輩、湊先輩がいる。それから、三雲先輩やソピアー社の蓮水さん、冬城さん……この街に来て、たくさんの人と知り合う事ができたんだよ。誰も僕を『悪魔の子』と言って罵ったりしない。みんな僕を一人の人間として受け入れてくれている。僕、この新世界市の事をすごく好きになれそうなんだ」
声を弾ませて付け加えると、アネモネはふと微笑んだ。
「……。そうか、良かったな。本当に……良かった」
良かった――その言葉とは裏腹に、アネモネはどこか悲しそうに見えた。今まで見たこともない彼女の寂しそうな表情。比呂の胸は激しく搔き乱され、きりきりと締め付けられる。
「アネモネ……? どうしたの?」
比呂はどきりとし、思わず尋ねた。自分は何かアネモネを傷つけるようなことを口にしてしまっただろうか。けれどアネモネは何事も無かったかのように、にっこり笑って立ち上がると、比呂へ手を差し出してくる。
「さあ、そろそろ行こう。いつまでもここにいるわけにはいかないだろう?」
「……うん」
「君とネットオカルト研究部が関わっている件は、おそらく君たちが思っているより深刻だ。ネットオカルト研究部はそれなりに経験が豊富なようだが、そんな彼らでさえひどく手こずるだろう。……だから比呂、決して無理をしてはいけないよ。君が窮地に陥ったら、必ず僕が駆けつける。けれどそれも、あくまでMEIS空間上でのことだ」
「分かっているよ。アネモネは心配性だな」
比呂は茶目っ気を込めて笑ったが、すぐに真顔になってアネモネを見つめる。
「……でも、僕の事を探しに来てくれてありがとう。また君に会いたいよ」
「ああ、僕もだ」
アネモネも即答するが、ふと視線を落とす。
「けれど……」
「アネモネ……?」
「ねえ、比呂。僕は最近、ふと考えるんだ。君がいつか僕の事を必要としなくなる、そんな時が来るんじゃないかって。君たちは僕と違って、著しく変化していく生命体だから。現に、ここ数日の君の変化は目を見張るものがある。僕はこれまで、ずっと君の成長をそばで見守って来たけれど、こんなことは今までになかった」
比呂は先ほど、アネモネが寂しげな表情をした理由が分かったような気がした。アネモネはおそらく、比呂の変化に戸惑っているのだ。叡凛高等学校に入学し、それまでの比呂の世界は一変したから。
まず、《アンノウン》という存在を知り、ネットオカルト研究部に所属してそれらと戦うことになった。さらに柚や大介、湊という頼もしい仲間もできた。それまでの、ひどく閉じた比呂の生活を思い出すと、考えられないほどの劇的変化だ。
アネモネはもしかしたら、自分が置いて行かれたような感覚を覚えているのかもしれない。
比呂は勢い良く立ち上がり、同時にアネモネの両手を握りしめた。先ほど、アネモネが比呂の手を握ってくれたのと同じように。
「確かに……僕はこの新世界市に来て変化したかもしれない。でも、僕が君の事を必要としなくなる日が来るだなんて、そんなことあるはずがないよ。何があっても……いつだって僕の一番はアネモネだよ!」
「……。ありがとう、比呂」
アネモネが笑った瞬間、視界が真っ白に染まり、比呂は再び微睡みに誘われる。
おぼろげになる意識の中で、比呂はふと思った。
比呂が母の杏奈の事を諦められないのは、恋しさだけが原因ではない。彼女の最期を知らないからだ。
杏奈が帰って来たあの黄昏の日、比呂は母を助けようとして家の外へ出、そして戻った瞬間に気を失ってしまった。再び意識を取り戻した時には、母はいなくなっていた。何の痕跡も残さず、いつの間にか姿を消してしまっていたのだ。
だから余計に母が「死んだ」という実感が持てない。彼女は今もどこかに存在しているのではないか。その気持ちが高じるあまり、《電脳幽鬼》という存在するかどうかも分からない噂話に希望を抱いてしまう。
しかし、では実際に何があったのか、それを知るのは躊躇われた。母の最期、彼女のそばにいたのがアネモネだからだ。
(アネモネは……母さんの『死』に関わっているんだろうか……?)
幾度となくその可能性について考えてきた。ひょっとしたら、アネモネが母さんを……。
だが、それをアネモネに直接尋ねることはできなかった。真実を知れば、きっと何かを失うことになる。それが怖かった。
(アネモネ……君は何を知っているの? 僕に何を隠しているの……?)
けれど、その問いが発せられることはない。
アネモネは比呂の全てだ。アネモネとの関係を守るためなら、何だって犠牲にしてみせる。今までずっとそう思ってきた。それほどまでにアネモネの事を純粋に愛してきた。
そして、その気持ちは今でも全く変わらない。比呂にとって、誰よりも何よりも大切な、最愛の人。
しかしそれ故に、強い不安に駆られることがある。
真実を知った時、比呂はアネモネを選び続けることができるだろうか。それでもアネモネを愛せるだろうか。二人の関係は今まで通り、変わらずにいられるだろうか。
答えはまだ出ない。
やがて比呂の意識は完全に途切れ、闇の中へと溶けていったのだった。
✽✽✽
どれほど眠っただろうか。
うっすらと瞼を開くと、鮮烈な光が差し込んできた。
比呂は顔をしかめ数度まばたきをする。眩しさに慣れ、改めて目を凝らすと、そこには真っ白い天井が広がっていた。
どうやら比呂はどこかに設置されたベッドに身を横たえているらしい。点滴バッグが天井から吊るされているのも目に入る。
(ここは……?)
新世界市にある下宿先のマンションの部屋ではない。かと言って、見慣れた祖母の家でもない。では、一体ここはどこだろうか。
ぼんやり考えていると、視界に妹の詩織の顔が飛び込んできた。
「お兄ちゃん? 目が覚めた?」
ベッド横にあるキャビネットに泊まっていた白羽と黒羽も、横たわった比呂の胸の上に舞い降りてくる。そして嬉しそうにちょんちょんと跳ね回った。
「比呂、目覚めたゾ!」
「目覚めタ、目覚めタ!!」
「詩織……? ここは……」
「ここは病院だよ。叡凛大学附属病院の一般病棟。お兄ちゃん、第二区域・再開発地区の街中で倒れて救急車で運ばれたの。覚えてる?」
「うん、なんとなく……」
そう答え、比呂は身を起こそうとした。けれど、まだ体にうまく力が入らない。腕には点滴針が刺さっているので、余計に身動きが取り辛い。
それに気づいた詩織が、リモコンを使って電動ベッドの上半分を起こしてくれた。
一息ついたところで、詩織はベッドサイドテーブルに置いてあったビニール袋を手に取り、比呂に差し出した。
「はい、これ。お見舞いに買ってきたんだ。お兄ちゃん、プリン好きだったよね?」
「ありがと。それより詩織、こんなところに来ていいのか? ここ、一般病棟なんだろ?」
一般病棟は隔離病棟とは違い、MEISや他の通信が認められている。だから白羽と黒羽の姿を目にした時、すぐにそうだと分かった。電脳ニューロン(人工神経細胞)の移植に対する拒絶反応、MEIS疾患を患っている詩織には、良くない環境なのではないか。
そう尋ねると、詩織は嬉しそうに身を乗り出した。
「実はね、昨日から隔離病棟の外に出てもいいって許可が出たの。病院の外はまだ駄目だけど、一般病棟ならいいって。こうやって少しずつ行動範囲を広げて、MEISを慣らしていくの」
「そうか……なら、退院ももうすぐだな」
「うん!」
「良かったな。今までよく頑張ったよ」
「それを真っ先にお兄ちゃんに伝えようとしたら、救急車で運ばれたって連絡が入ってきたの。もう、びっくりしちゃったよ! せっかくあたしが退院できても、お兄ちゃんが入院なんて……そんなの嫌だからね!」
「心配かけてごめん、詩織」
そういえば、ネットオカルト研究部の活動が忙しくて、入学式以降はあまり詩織の見舞いにも行けなかった。無事に回復しているようで本当に安心した。
(そういえば、大介先輩や湊先輩はどうなったのかな? 二人とも、何も無ければいいけど……心配だな。そもそも、あれからどれくらい経ったんだろう? もう柚先輩の謹慎も解けたんだろうか……?)
取り留めも無くそんなことを考えていると、比呂の腹が不意にぐう、と音を立てた。空腹はあまり感じなかったけれど、体は栄養を欲しているようだ。それに気づいた詩織は笑って立ち上がった。
「お兄ちゃん、丸二日も眠り続けていたんだもん。お腹空いたでしょ? 看護師さんに食事ができないか聞いてくるね。それからついでにお茶も買ってくる」
「ありがとな」
「何がいい?」
「ええと……それじゃ烏龍茶で」
「りょーかい!」
体が弱っているのか、少し会話しただけで疲労を感じた。そのままベッドに身を預けじっとしていると、詩織が看護師を連れて戻って来る。
それから看護師は比呂にあれこれ質問や説明をしたり、血圧を計ったりしてくれた。そして改めて、比呂がMEISヒーリング店の帰りに倒れてから二日が経過していることを知らされる。
念のために尋ねると、特に体に異常は見当たらないらしい。ただ、このところ高校生の意識不明が続いており、MEISの検査もしておいた方がいいという判断のもと、もう一日だけ入院することになったと告げられた。そして、すぐに食事の手配をしてくれるという。
運ばれてきた膳には、粥や具の無い茶碗蒸し、ゼリーなど柔らかいメニューがよそってあった。空っぽになった胃に、負担にならないようにという配慮だろう。
食事を終えると、詩織が口を開いた。
「高校はどう?」
「まだ始まったばかりだから何とも言えないけど……今のところすごく楽しいよ。クラブにも入ったんだ」
「え、何の部? やっぱり剣道? お兄ちゃん、小学生の時けっこう強かったもんねー」
「そうだっけ。でも僕が入ったのは剣道部じゃないよ」
「じゃあ何?」
「ネオ研……ネットオカルト研究部だよ」
すると、詩織は素っ頓狂な声を上げて目を丸くした。
「へ!? ネットオカルト研究部って……叡凛高校名物として有名な、噂のあの!?」
「そんなに噂になってるのか?」
「あはははは、ホントに!? お兄ちゃんが自分からそういう部を選んで入部するなんて、すっごく意外! ねえ、ネオ研ってどんな感じ? 具体的にどういう活動してるの?」
「そうだな……活動内容はいろいろあって、一言で表現するのは難しいけど、先輩たちはとても楽しくていい人たちだよ。優しくて面倒見も良くて、いろんなことを教えてくれる。とても信頼できる人たちだ。先輩たちと一緒にいたら明るくて前向きな気持ちになれる。僕、ネオ研に入って本当に良かったって思ってるんだ」
比呂はしみじみと呟いた。
それはまごうことなき比呂の本心だった。最初は《電脳幽鬼》に関する情報を得たいという目的ありきでネオ研に近づいた。でも今はネオ研に出会えたことを本当に感謝している。柚や大介、湊と出会えたこと、比呂の閉じた世界を変えてくれたこと。
もし、《電脳幽鬼》の情報が得られなかったとしても、比呂はこのままネオ研の活動を続けたい。真剣にそう思っている。
それを聞いた詩織は瞳を潤ませた。
「そう……そっか。良かった……お兄ちゃん、良かったねえ! 長い間、大変だったと思うけど……この新世界市に来れたこと、きっとお兄ちゃんにはすごく良かったんだね」
「ああ、僕もそう思うよ」
詩織は目元を指で拭うと、おどけて言った。
「機会があったら、あたしもネオ研の人たちと話してみたいなー」
「詩織はオカルトには興味ないんじゃなかったっけ?」
「それはそうだけど、挨拶しときたいの! うちの兄がお世話になりますーって」
「何だそれ」
比呂が笑うと、詩織も声を立てて笑う。
もっとも、内心ではそれもいいかもしれないと比呂は思っていた。詩織は難病を患っていて、病状が悪くなると学校に通えない事もある。だから知り合いが増えることは、詩織にとってもいい事なのではないかと考えたのだ。
白羽と黒羽も二人の周りを飛び回り、大いに盛り上がる。
「大丈夫だゾ、詩織! 比呂の面倒は俺たちが見ル!」
「そうダ! 俺たちがいれば、百人力だゾ!!」
「ふふ、二人ともお兄ちゃんをお願いね」
白羽と黒羽も詩織のことが大好きだ。けれど、詩織はこれまでMEISを使う事ができない隔離病棟に入っていたので、電脳ペットである二羽とは接することができなかった。両者とも、久しぶりの再会だ。
それから詩織は逡巡した後、どこか気まずげに切り出した。
「……。あのね、お兄ちゃんが眠っている間、お父さんがお見舞いに来たよ。お父さんに会う? 会うならあたし……」
「……いや、やめておくよ。あの人も忙しいだろうから」
詩織を困らせたくなかったから、比呂はできるだけ感情を込めずさらりと答えた。せっかく隔離病棟から見舞いに来てくれたのに、嫌な思いをさせたくない。詩織も比呂の気遣いを察したのか、その話題をあっさりと引っ込めた。
「そう……うん、分かった。あたしが言うのもなんだけど、しっかり寝てしっかり食べて、早く良くなってね、お兄ちゃん!」
それから十五分ほど喋ると、詩織は隔離病棟の方へ戻って行った。これから検査があるのだという。毎日何かしらの治療か検査を受けているようだが、それも少しずつ減ってきているらしい。
(詩織、元気になって良かったな。詩織は僕のことを心配していたけど、詩織は詩織で不安だったろうし大変だったはずだ。詩織が退院したら、退院祝いをしよう……!)
それから三十分ほど眠り、気づくと点滴が終わっていた。看護師に針を抜いてもらったあと、比呂は病院の中を歩いてみることにする。
広くて静かな院内は、どこもかしこも清潔に保たれていた。ほのかに消毒薬のにおいも漂ってくる。
比呂が入院している病棟は、中でも症状の軽い患者が多いのか、みな自由に移動したり散歩したりしている。休憩室の奥には広くて緑の溢れた中庭もあり、患者の憩いの場となっているようだった。比呂もその中を歩いてみる。
目の前を自動運転の車椅子に乗ったお年寄りが横切っていく。比呂は、ぎょっとしてそのお年寄りの肩を見つめた。そこに真っ黒い煤のようなものが付着しているのに気づいたのだ。
(あ……あれは《アンノウン》の幼生 ……!?)
そのお年寄りだけではない。他の患者にも黒煤をまとっている者は何人か見受けられた。また、自販機の隣や病室の入口に表示してあるデジタル・ルームプレートなど、黒煤はさまざまな場所や機器にも付着している。
だが、いずれも量は少なく、脅威度は低い。人体や通信環境に影響を及ぼすようなレベルではなく、成虫になる恐れもないだろう。
MEISの使用も特に制限されていないようだ。実際、比呂にもMEISを介して通信が入ってきた。ただ、入院している比呂を慮ってか、音声はなくメッセンジャーアプリよる文書通信だった。メッセージの送り主は柚だ。
『比呂くんへ。もし目が覚めたら連絡をください』
「柚先輩……!」
比呂はその場で《電脳物質》で構成されたキーボードとバーチャル・デスクトップを宙に浮かび上がらせると、文書を打ってすぐに返信した。
『柚先輩、僕はつい先ほど目が覚めました』
『ホント!? 比呂くん、大丈夫!?』
『はい。特に深刻な症状があるわけじゃないみたいです』
『ちゃんとご飯、食べれてる? ぐっすり眠れてる!?』
『食欲も睡眠も、ばっちりです!』
『はあぁ、良かった~! わたしも大ちゃんやみーくんも、みんなすっごく心配してたんだ!』
『すみません、迷惑をかけてしまって……』
『そんなことないよ! 比呂くんは何も気にしないで。今は回復することに専念して、ね?』
『ありがとうございます。……ところで、柚先輩の謹慎は解けましたか?』
『うん、今日は学校に登校してるよ! 今は休憩時間なんだ』
『そうですか、良かったです。また一緒にネオ研の活動ができますね』
『うん、そうだね。あ、そーだ! 放課後にネオ研のみんなで比呂くんのお見舞いに行きたいんだけど、いいかな?』
『あ、はい! すごく嬉しいです!!』
『それじゃ、授業が終わったらみんなと病院に行くよ! 到着したらまた連絡するから、病室の番号を教えてね~!』
そこでメッセージのやり取りは途切れた。柚が送ってくれたメッセージの様子だと、柚はもちろん大介や湊も比呂の身を心の底から案じているようだ。
みなの心配する顔が目の前に浮かび上がるようだった。




