第41話 追憶④
真っ赤な夕焼けに染まる家の中。
比呂はじっと母の帰りを待っていた。
小学校から戻ったのは何時間前だっただろうか。リビングでただ一人、《電脳物質》でできた本のページを繰り、母の杏奈が仕事から戻るのを待つ。
だが、いつもであれば母が帰宅する時間になっても、家には誰も戻って来ない。静まり返った部屋の中は、何だかやけに広く感じられる。
夕陽が部屋に差し込み、全てを赤く染め上げる。何もかもが幻想的で美しかった。何だかちょっと恐怖を覚えるほどに。
比呂は小さく溜息をつく。《電脳物質》でできた本は、内容を暗記できるほど何度も読んで、すっかり飽きてしまった。
比呂は本から顔を上げ、同じく《電脳物質》でできた壁掛け時計を見上げる。時計の針はちょうど五と六を指していた。十七時半だ。この時間なら、母は帰宅しているはずなのに。
やはり今日は、何かがおかしい。不安がどっと押し寄せ、心細さに拍車をかける。
「お母さん、遅いな……どこへ行ったんだろう……?」
比呂の母と父は去年、『りこん』をした。父はもう、家には戻ってこない。妹の詩織も体調を崩し、数か月前に病院へ入院している。比呂はこの広い家に、母の杏奈と二人きりだ。
しかもその母も外出したきり戻ってこない。ついこの間まで家族みんな幸せに暮らしていたのに。今や比呂は一人ぼっちだ。
(お母さんは帰って来ない……みんな帰って来ない。お父さんも詩織もみんな僕を置いて、どこかへ行ってしまった。僕は一人ぼっち……)
どうしてこんなことになってしまったのだろう。あんなに幸せだったのに。
ついこの間までみんな一緒に食卓を囲み、楽しく笑い合っていたのに。何故、比呂は一人きりになってしまったのだろう。
何故、どうしてこんなことに。
家族みんなで過ごしたあの幸せな日々はもう二度と戻らない。どれだけ望んでも、決して幸福だったあの頃には戻れない。幼い比呂は、その事実に打ちひしがれるばかりだった。
「お父さん……お母さん……、詩織……! みんなどこへ行ってしまったの? 帰って来てよ……僕、一人ぼっちは嫌だよぉ……!!」
比呂は悲しくて苦しくて、とうとう、しくしくと泣き出してしまった。どれだけ泣き叫んでも、家族はみな戻ってこない。一度、失ってしまったものは、もう取り返しがつかないのだ。そう分かっていても、涙は次から次へと溢れ、止めることができなかった。
比呂の、ひっくひっくとしゃくりあげる声が、静まり返った部屋に響き渡る。それが改めて残酷な現実を突きつけるのだった。僕は一人なんだ、一人ぼっちなんだ、と。
泣いている比呂に声をかけてくれる人は誰もいない。温かく抱きしめてくれる手も、励ましてくれる声も。自分にはもう何もない。そう思うと、圧倒的な孤独に押し潰されそうだった。
こんなに辛くて苦しい世界なんて、いっそ無くなってしまえばいいのに。
ところがその時、比呂の名を呼ぶ声がする。
「……比呂!」
比呂は弾かれたように顔を上げた。リビングの入口に視線を向けると、そこにアネモネが立っていた。
「……! アネモネ……!?」
「ここにいたのか、比呂。探したよ……!!」
そう言うと、アネモネは心から嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔には、同時に大きな安堵も浮かんでいる。まるで、無くした大事な宝物を求め続け、ようやくそれを見つけた時のように。探したというその言葉は嘘ではないのだろう。
比呂は顔をくしゃっと歪めて立ち上がると、アネモネの元に駆け寄っていき、彼女に抱き着いた。
「アネモネ……アネモネ、アネモネぇ……!!」
比呂の背は、アネモネの胸の辺りまでしかない。でも、そんな事はどうでも良かった。比呂は力いっぱいにアネモネに抱き着いたまま、激しく泣きじゃくる。
すると、アネモネの手も優しく比呂を抱きしめた。そして、耳元に口を近づけ、そっと囁く。
「そんなに泣いて、どうしたんだい?」
「母さんが……お母さんが戻って来ないんだ。僕、ひとりぼっちになっちゃった……!」
「比呂……」
「どうして? 僕、何も悪いことしてない……! それなのに、どうしてこんなことになったの? どうして僕たち家族がバラバラにならなければならないの!? どうして世界はこんなにも僕たちを憎んでいるの!? 僕たちが……僕たちが一体、何をしたって言うんだよ……!!」
比呂は思いのたけをぶちまけた。
こんな世界、大嫌いだ。家族を捨てたお父さんも、帰って来ないお母さんも。何より比呂たちを追い詰めた世界そのものが憎い。憎くて憎くて、たまらない。全てを消し去ってやりたい。比呂から全てを奪ったその報いを受けさせてやりたい。
どうなったって知るもんか。もう、比呂には何も残っていないのだから。
アネモネは黙ってそれを聞いていた。否定するのでもなく、たしなめるのでもなく、ただ黙って比呂の言葉に耳を傾けていた。
やがて、怒りと悲しみに震える比呂の髪を、アネモネの指先がそっと撫でる。
「比呂……君は一人じゃない。さあ、顔をあげてごらん」
比呂の頬をアネモネの両手が静かに包み込んだ。言われた通り、比呂は顔を上げる。すると、二羽のカラスがカア、カアと呼びかけるように鳴きながら頭上を飛びまわっていた。白と黒の色をした二羽の小鳥は、比呂の元に舞い降りてくると、頭や肩にちょこんと乗る。
「白羽、黒羽……?」
「彼らはずっとそばにいた。ただ君が気付かなかっただけさ」
「ずっと……?」
アネモネは頷いた。青紫色の光を宿した彼女の神秘的な瞳が、じっと比呂を見つめる。
「ああ。君がMEISヒーリング店の帰りに倒れた時から、ずっと」
「MEIS……ヒーリング……」
比呂は呟き、目を見開いた。抜け落ちていた記憶が雪崩を打ったように蘇ってきて、比呂の中に確かな重量を伴った現実の出来事として再構築されていく。
同時に、体もどんどん大きくなっていった。背が伸び、肩幅が広がり、手の平や足のサイズも大きくなる。八歳児から高校一年生の姿へと。
「……思い出したかい?」
先ほどまで見上げる位置にあったアネモネの顔が、今はすぐ目の前にある。
「そうだ……僕は大介先輩や湊先輩とMEISヒーリング店へ偵察に行ったんだ。桜庭さんや三雲先輩が倒れた原因を知りたくて……。でも、ヒーリングを受けた直後は特に何もなかった。それから店を出て……どうなったんだっけ? うまく思い出せない……」
「それもそのはずさ。君は意識を失ってしまったんだからね。まったく、最近の君ときたらトラブルに首を突っ込んでばかりだ。おかげで僕は君から目を離せないよ。ただでさえ君は『深淵』の影響を受けやすいんだから」
アネモネは正面から比呂と向かい合い、両手を握った。そして僅かに背を仰け反らせ、比呂の顔を覗き込む。比呂は自分の頬が涙で濡れていることに気づき、慌ててそれを拭った。
「意識を失った……? そうだったのか……」
「本当に焦ったよ。いくら探しても君の意識は表層上に見つからない。だから漸深層かそれより深いところにあるのだろうと思っていたけれど、まさかここまで奥深くに潜っていたなんて。白羽と黒羽がそばにいて良かった。彼らが君の居場所を教えてくれたんだ」
それを聞いて、比呂は微笑む。
「そうか。ありがとな、二人とも」
そして指先で、肩に止まった二羽の頭を順に撫でる。
比呂が記憶を取り戻したからか、白羽と黒羽もいつもの大きさに戻っていた。黒羽は気持ちよさそうに首を傾げ、白羽は比呂の頭上に移動し髪をつついている。
アネモネは目を細め、比呂と白羽や黒羽が戯れるのを眺めていたが、やがてふとリビングの中に視線を移した。鮮やかな夕焼けによって染め上げられた、永遠の赤。ぞっとするほど美しい部屋の中へと。
「……君はこの場所でずっと母親――杏奈の帰りを待っていた。僕たちが初めて出会ったのもここだったね」
「アネモネ……」
「そして君は今また、この場所に戻っている。比呂、きっとここが君にとっての原風景なのだろう」
アネモネはそう呟くと、比呂の方を振り返る。
「比呂、君は杏奈を探しているね? この広く深い電脳識海のどこかに彼女がいるのではないかと信じて」
「……アネモネは怒っている?」
「何故?」
「アネモネは昔から僕を母さんの記憶から遠ざけようとしてきたから……僕が母さんを探そうとしていることを快く思っていないんじゃないかと思ったんだ」
「……」
比呂の問いに対し、アネモネはすぐには答えなかった。黙したままリビングのソファの前に移動し、静かに腰かける。比呂もアネモネの後に続き、その隣に座った。
「ねえ、アネモネ。母さんはこの識海のどこかにいるのかな? それとも……やっぱり僕の考えは愚かで間違っているんだろうか。死んだ人に会いたいだなんて」
「僕には分からない。僕には、命というものが何なのか分からないんだ。たとえば……比呂、君は人間だね? 元素で構成された肉体を持つ、れっきとした生きている人間だ」
何故、アネモネは急にそんな話を始めたのか。比呂は戸惑いつつも頷いた。
「うん、そうだと思う」
「では、僕は? 僕には君のような肉体はない。生体光子によって構成され、電脳識海にのみ存在し、MEISだけが僕の存在を証明することができる。いわば電脳空間上に存在する幽霊のようなものだ。……君たちが《アンノウン》と呼ぶモノたちと同じように」
アネモネはどこか遠くを見つめるような瞳をする。
「それでは、果たして僕に命はあるのかな? 僕のこの存在は『生命』といえるのだろうか? 僕は……一体、何者なのだろう?」
「それは……」
「僕は君たちと出会って以来、ずっとその問いに対する答えを追い求めてきた。君たちヒトの意識と情報が、僕という存在を形作るから。でも……まだ満足できる答えは得られていないんだ」
アネモネは悄然とし、ひどく悲しげだった。自分には、『生命』が何だか分からない。だから、死んだ母親に会いたいという比呂の気持ちが間違っているかどうかも判断のしようがない。彼女はそう言いたいのだろう。
比呂はアネモネに何と声をかけて良いのか分からなかった。比呂もまた、アネモネが何であるか完全に理解しているわけではないからだ。
高位電脳情報識体、ゼノ・ヴィータ。かつてアネモネは自分のことをそう称していた。そして、自らを『深淵より生まれし者』だと。
電脳識海でいうところの『深淵』とは、すなわち漸深層、そして更に奥底に広がっていると言われている《深海層》の事だ。人類がほとんど足を踏み入れたことがなく、未だ観測すら覚束ない、完全なる未知の世界。
ひょっとしたら、MEISを搭載した者はみな、電脳識海の奥底である《深海層》で繋がっているのかもしれない。《深海層》は人の意識構造でいうところの集合的無意識に相当するからだ。
誰に教えられるわけでもなく、全ての人が先天的に持ち合わせ、無意識のうちに共有している普遍的無意識領域。
言うなれば人類の歴史の集積であり、全てのヒトが内包している精神世界そのものだ。
もしアネモネがそこから生まれたのだとしたら、彼女はある意味で人類の意識が生み出した集合的知性とも言えるのかもしれない。
でも、比呂にとって、それらは重要なことではなかった。アネモネがどこから来ようとも、彼女と過ごした時間は変わらない。アネモネが比呂にたくさんのものをくれたこと、彼女に数えきれないほど慰められ、救われたことも。
「僕は……僕はアネモネにも命があると思うよ。確かに細胞や代謝可能な肉体があるわけじゃない。でもアネモネは、こうして僕の目の前に存在している。言葉を話し、僕の感情に共感し、励ましたり慰めたりしてくれる。だから……もしアネモネに生命の定義が当てはまらなくても、僕にとって君は『生きている人間』だよ。そして同時に、とても……とても大切な人だ」
ネットオカルト研究部の部長である柚がアバターの姿で部室に現れた時、比呂は激しい不安を感じた。たとえMEISがどれだけ発達しようとも、肉体の存在は無視できない。データだけの存在なんてあまりにも寂しすぎると、そう考えたからだ。
肉体が無いという事は、そんなに軽々しく肯定できることではない。だから、アネモネが苦悩する気持ちもよく分かる。人の心と体は切っても切り離せない。アネモネは人間の世界を知りたがっているから、余計に肉体が無いことで埋められない溝を感じてしまうのだろう。
だが一方で、科学技術の発展と共に、MEISによって現実空間と電脳空間が極限まで近づき、一体化しつつあるのも事実だった。両者の間に横たわっていた境界はどんどん薄れ、全てが融合しつつある。これからもその流れは加速することだろう。
何が『本物』で何が『本物でない』か。その定義はどんどん曖昧になり、揺れ動いていくに違いない。
比呂の心もまた、揺れている。データのみの存在なんて寂しいと思うその一方で、強烈にアネモネを求めている。物理的な体を持たないアネモネとの交流を、いつだって何よりも待ち望んでいるのだ。
全てを捨て去ってでも守り通したい、比呂にとってかけがえのない宝もの。
「アネモネ、僕には君が必要だ。体が無くたって構わない。たとえ君が《アンノウン》と同じなのだとしても……それでも僕は君に会いたい。ずっと……ずっと一緒にいたいんだ。だって……僕は君のことが大好きだから」
アネモネは驚いたように青紫色の瞳を見開き、そしてそれを微かに揺らした。夕暮れの光がその不思議な瞳に反射し、微かに撫子色の光を放つ。白く透明な肌も、心なしかほんのり赤くなっているような気がする。特に、頬のあたりが。
「……ひょっとしたら僕は君にだけ見える幻覚、もしくは君にとって都合のいい妄想が具現化しただけの存在かもしれないぞ?」
アネモネはからかうような口調でそう言った。良かった、いつものアネモネだ。比呂は笑って答えた。
「僕にとって都合のいい幻覚だったら、きっとそんな冗談は言わないよ」
「それはどうかな? 僕が特別、意地悪な幻覚だったらどうするんだ? もし君をからかって遊んでやろうと悪だくみしているのだとしたら?」
「その時は、大人しく騙されておくことにするよ。アネモネになら、遊ばれたって全然構わない」
「ふうん……今日の君はやけに積極的だな。いつもは僕のアピールから逃げてばかりなのに」
「僕だってたまには追いかける側にならなきゃ。鬼ごっこはオニ役が交代しないとつまらないだろ?」
「あははは、今日は比呂がオニ役か。何だかすごく新鮮だな」
とうとうアネモネは声を上げて笑い始めた。子どものように無邪気な笑顔。本当に良かった、彼女の顔に明るさが戻ってきて。
比呂も一緒になり、肩を揺らして笑う。そうしてひとしきり笑い合ったあと、比呂はふと真顔になった。
「母さんを探していること、黙っていてごめん、アネモネ。でも……あの時、母さんは僕に言ったんだ。ここで待ってる、いつまでも待ってるって。どうしても……あの言葉が忘れられないんだ」
「もし君のお母さんが識海の底から戻ってきたとしても、昔の幸せは絶対に戻らない。それが分かっていても?」
アネモネもまた真剣な表情になり、じっと比呂を見つめる。比呂は苦悶の表情を浮かべ、膝の上で両手を握り締めた。
「それでも……何としてでも取り戻したいんだ」
アネモネに嘘をつくことになっても、どうしても諦められなかった。母は電脳識海のどこかで今も自分を待っているのではないか。そう考えるたび、胸が張り裂けそうなほどの罪悪感と、もう一度だけでも会いたいという恋しさに襲われる。だから、どんなに反対されても、探さずにはいられなかったのだ。
アネモネは慰めるようにして、固く握り込んだ比呂の手の上に自らの手を重ねる。
「電脳識海は、今もなお膨張を続けている。それも爆発的膨張……まさにビッグバンだ。MEISを搭載する人間が増え、彼らが識海に直接、繋がるようになれば、さらに膨張はその速度を増すことだろう。表層から多くの情報が流れてくることによって、識海の深層には多くの現象や存在が生まれつつある。もはやその全てを把握することのできる者などいない。……僕でさえもね。ひょっとしたら君の求めるものも……その中に無いとは言い切れないかもしれないな」
比呂はパッと顔を上げ、食い入るようにしてアネモネを見つめた。
「アネモネ……本当……!?」
「ああ。だから……『自分は一人だ』と言って泣かないでくれ。君が悲しそうだと僕も悲しくなる」
比呂は先ほど発した自分の言葉の数々を思い出し、思わず顔を赤らめて俯いた。
「あ、あれは……八歳の僕が言ったことだから……!」
「本当かい?」
「……ごめん。気を付けるよ」
我ながら、火を噴きそうなほど恥ずかしい。いくら子どもの頃の記憶がフラッシュバックしたとはいえ、あんな風にアネモネの前で泣きじゃくるなんて。




