第4話 散策
ただ、普通に暮らしていくなら、アクセス権は5も必要ない。
現状で最も多数を占めるのは、MEIS適応値が二百番台と三百番台の人々だ。アクセス権で言うと、レベル2とレベル3の人間が人口比率で最も多い。
だから、社会の主要なインフラはアクセス権が2もあれば十分に不自由なく暮らしていけるように設計されているのだ。
もちろん、この世にはまだまだ電脳ニューロンを移植していない人たちもいる。またごくわずかだが、電脳ニューロンを移植したにもかかわらず全く生体素子が増殖しなかった人も。
そういった、MEIS未搭載のお年寄りや、電脳ニューロンに適応していない人などは、専用の端末を操作すれば、同じサービスを受けることができる。
ただ、ちょっと……というか、かなり不便になってしまうのだが。
市民課で暫定住民登録を終え、市民IDを取得した後、比呂は白羽と黒羽を連れて、下宿先に指定されたマンションへ向かった。
比呂の下宿先は第二区域・再開発地区にあるマンションの一室だ。バスやタクシーで移動しても良かったが、せっかくだから街中を歩いてみることにした。地図アプリで確認してみて、下宿先が市役所からそれほど遠くなかったこともある。
実際に街中を歩いてみると、バスの車内から見たのとはまた違った趣きが感じられた。
広々とした歩道にはたくさんの人々が行き交っている。学生と思しき少年少女、仕事中の社会人、そして、比呂と同じように珍しげに街中を見回している観光客。
それにまぎれて電脳マスコットやロボットたちの姿も見えた。彼らもまた人々同じで、ごく自然に街の風景に溶け込んでいる。
車道にはお洒落なデザインをした無人の車やバスが行き交っているが、走行音はほとんど気にならない大きさで排気ガスも全くないので、街歩きもとても快適だ。都市部であるにもかかわらず静かで空気がおいしい。
上を見上げると、高層ビルの壁面のあちこちに巨大な看板が掲げられているのが目に入る。中には古いタイプの電子看板もあるが、そのほとんどはMEISのみが感知できる電脳看板だ。
その電脳看板に指先を重ね、生体マウスでクリックすると、その場で広告の商品を購入することができるし、関連商品を紹介してくれたりもする。もしその広告に興味がなかったり、不快だと感じたりしたら、指先で画面をスワイプし、別の広告にスキップしたり非表示にしたりすることもできる。
そのおかげだろうか。こんなに賑やかで活気があるのに、ストレスがない。全てにおいて自由で快適なのだ。
田舎育ちで人混みが苦手な比呂も気疲れすることなく、楽しんで街中を散策することができた。
ところがその途中で、比呂はふとあることに気づいた。
ビルの壁面や洗練された街灯の柱など、街のあちこちに黒い煤のような粒子の塊が付着している。木炭で描いたかのような、混じりけの無い純粋な黒。
極小の粒子がいくつも集まって群れとなっており、よく見るとその一つ一つの粒がぞわぞわと蠢いている。
通行人の中にはその黒煤を身にまとっている者までいた。モノレールの中で見た女子中学生と全く同じだ。
「この黒い煤、モノレールの中でも見たな。こんなにあちこちで見られるなんて……本当に一体、何なんだろう?」
何だか不気味で怖かったけれど、どうしても気になった。勇気を出し、道端に設置してあるトランスボックスに付着していたそれに、触れてみることにする。
黒煤はちょうど、ハンカチ一枚ほどの大きさに広がっていた。比呂が恐るおそる指先でその黒煤に触れると、塊そのものが一つの生き物のように大きく身動ぎをし、ぶわりと爆発して広がった。
比呂はぎょっとして素早く手を引っ込めるが、時すでに遅し。手には拡散した黒煤の一部が張り付いてしまっている。
さらにその黒い粒子は、比呂の手にびりびりと鋭い刺激をもたらした。まるで海月に刺されたかのような、焼けつくような痛み。
「うわっ、何だこれ!?」
比呂は慌てて手を振り、奇妙な黒煤を払おうとした。しかし黒い煤は手にへばりついてしまっていて、なかなか剥がれない。その間も、びりびりとした痛みはどんどん増していく。
一体どうしたらいいのだろう。蒼白になる比呂だったが、その時、白羽と黒羽がやって来て手の甲についた黒い粒子をついばみ始めた。
「い、いたたたたた! こら、くちばしでつつくな!」
しかし、白羽と黒羽は比呂の苦情などお構いなしに黒煤を啄んでいく。
「ウメー、ウメー!」
「美味、美味!」
「あ、黒いのが取れた」
白羽と黒羽はツンツンと忙しなく比呂の手をつつき、付着した黒い煤をあっという間に全部平らげてしまった。我が電脳ペットながら、何という食欲だろう。呆れかえる比呂だったが、ふと首を捻る。
(あれ……? でも、電脳ペットである白羽と黒羽が食べてしまったということは、この黒い粒子は現実にあるものじゃなくて《電脳物質》の一種ということなのか……?)
電脳ペットもまた、電子情報のみで構成された存在であり、現実での実体を持たないという意味では、広義の意味での《電脳物質》に属する。
《電脳物質》に干渉できるのは《電脳物質》だけだ。
現実の物体と《電脳物質》は互いに直接、干渉し合うことはない。
人が《電脳物質》に『触れる』ことができるのはMEISを介しているからであって、MEISを搭載していない人間は《電脳物質》に干渉することはできない。
つまり、この黒煤は現実に存在するものではなく、電脳上のみに存在する現象ということになるのではないか。
(MEISを介していると、目の前にあるものが本物の物体なのか、それとも《電脳物質》なのか。分からなくなることがあるのがちょっと怖いな。最近の《電脳物質》にはリアルな匂いや触感も備わっているから、なおさらだ)
例えば、新世界市市役所のエントランスには豪華なバラの花が飾ってあり、芳醇な香りを漂わせていたが、あれも《電脳物質》だ。
現実には存在しない花だが、リアルな造形はもちろん溢れんばかりの香りも放っており、触ればおそらく本物の生花と変わらぬ触感が返ってくる。
もはや一見しただけでは、《電脳物質》だと分からない。技術の目覚ましい発展によって、本物と虚構の境はどんどん曖昧になるばかりだ。
(それにしても、この黒い煤みたいな《電脳物質》、一体何なんだ? こんなに不気味で刺激もあるのに、他の人には全く見えていないようだし。僕のMEISが不具合を起こしているんじゃないよな……?)
不安になるが、白羽と黒羽が啄んでいたことを考えると、単なるMEISの不具合とも思えない。この黒煤は何なのだろう。その場でMEISを使い検索してみるが、それらしい情報は何も出てこなかった。今どきネット上にも情報が載っていないなんて。
一方、トランスボックスに付着していた黒煤は、元のハンカチほどの大きさに戻っている。けれど決して消えることは無い。先ほどの経験は幻というわけではなさそうだ。
「ほ、本当に大丈夫か、お前たち……? 変なもの食べて具合が悪くなっても知らないぞ」
比呂は心配になってきて、白羽と黒羽に声をかけた。しかし、二羽ともけろりとし、それぞれ比呂の肩や頭の上に止まって毛づくろいをしている。おかげで比呂の手に付着した黒い煤はきれいに取れ、刺激も感じなくなった。これで良かったのだろうか。
「本当に、何だったんだ……?」
さらに不思議なのは、街中を歩く他の人々は、その黒い粒子を気にも留めていないという事だ。何食わぬ顔で体に付着させていたり、踏んづけたりしている。明らかに黒煤は彼らの目に入っていない。見えていないのだ。
――何故。こんなにもくっきりとしていて、気味が悪いのに。
だが、どれだけ考えても答えは出ない。首を傾げつつ、比呂はその場を立ち去った。
壮観な高層ビル群のひしめく第七区域・中心市街地を抜けると、周囲の街並みには徐々に生活感が感じられるようになった。目の眩むような高層建築物は姿を消し、雑居ビルやマンション、アパート、一軒家などが立ち並んでいる。
第二区域・再開発地区に入ったのだろう。比呂は市役所で紹介された住所へ、まっすぐに向かった。
比呂に割り当てられた部屋は、十階建てマンションの八階にある一室だった。できたばかりの真新しいマンションで、外観も見たことがないほどお洒落だ。
豪華なエントランスは広々としていて高さもあり、床もピカピカ。天井からは煌びやかなシャンデリアが垂れ下がっていて、豊かな水を湛えた噴水まで設けてある。もはやマンションというより、ホテルみたいだ。
エレベーターに乗って八階で降り、指定された部屋に向かう。扉には電子ロックで鍵がかけてあった。MEISを起動させたまま手をかざすと、市役所で登録した指紋認証が発動して、自動で部屋の鍵が開く。
さらに比呂が部屋に足を踏み入れると、その途端、何もしていないのに部屋の照明が付き、エアコンが作動し始めた。家具はみなスマート機能が搭載されている。既に比呂のMEISと繋がっていて、バイタルデータに合わせて照明の光量やエアコンの温度・湿度などを、自動で快適な風に調節してくれるのだ。
他にもキッチンやクローゼット、ベッド、テーブルや机など、生活に必要な家具類は予めみな揃えられている。学生の下宿先としては破格ともいうべき豪華さだが、家賃はほとんどかからない。それは、叡凛高等学園に通う生徒が、新世界市で行われる新技術の実験の被験者でもあるためだ。
叡凛高等学園は最先端の技術やインフラを体験することができる特別な高校だ。しかしそれにもかかわらず、教育費がとても安い。新しい技術やインフラの実験も兼ねているため、高校生活で受けることのできるサービスのほぼ全てが無料となっているからだ。
つまり、叡凛高等学園の生徒は新しい技術の試験者でもあるということになる。
もちろん、それらの技術は国による厳正な審査を通ったものばかりで、危険なものはない。実質的には最新のサービスをただで体験できるも同然で、そこも叡凛高等学園が人気である理由の一つだ。
「まるで魔法の家だな。こんなすごい部屋に一人で住んで、本当に良いんだろうか……?」
新築特有の匂いが鼻先を掠める。まだ何ものにも染まっていない、真新しい空気。靴を脱いでこわごわと部屋に入る比呂の周りを、白羽と黒羽はからかうように羽ばたく。
「やれやれ、また目を丸くしているのカ」
「比呂、お前、この街に来てからというもの、口をあんぐりとさせすぎだゾ」
「仕方ないだろ。実際に驚きの連続なんだから! 白羽と黒羽は吃驚しないのか?」
「そうだナ……この家、少し息苦しいナ。まるで、常に誰かから見張られているような感じがすル」
「前時代的木造ボロ家屋の方が、気楽で良かっタ」
「まあ……白羽と黒羽は電脳ペットだから、住環境とかあまり関係ないかもな」
「何だト?」
「電脳ペット差別ダ!」
「はいはい。……荷物も既に届いてるみたいだ。さっそく荷解きに取り掛かろう。白羽と黒羽はその辺で大人しくしててね」
「探検ダ、探検ダ!」
「物件調査ダ!!」
白羽と黒羽はさっそく部屋の中をあちこち飛び回る。そして備え付けの家具や家電を嘴でつついて大騒ぎを始めた。もっとも、二人は電脳ペットなので、どれだけつつこうとも家具に傷がつくわけではない。比呂は騒がしい二羽を好きにさせておくことにした。
まずは間取りや設備などを一通り確認すると、祖母に新世界市に到着した旨をメッセージアプリで報告する。その後、さっそく荷解きに取り掛かかった。
もっとも、服にしろ日用雑貨にしろ、荷物は一人分しかない。二時間もあればみな片付いてしまった。そこで、今度は叡凛大学付属病院に入院している妹の詩織を見舞うことにする。
再び地図アプリを起動させ、新世界市の地図を開く。新世界市は半人工島だ。元は天ヶ淵島という島があったのだが、それを埋め立て、新しく創り出された。正六角形をしており、それぞれ六つの区域に分かれている。さらに中央には中心市街地があり、それを合わせると全部で七区域に分かれている事になる。
詩織の入院している叡凛大学付属病院は第四区域・学術研究地区にあり、比呂がいる第二区域・再開発地区から見ると二つ隣りの区域にある。少し離れているが、バスを使えば移動に手間はかからないだろう。
幸い、比呂の下宿先であるマンションの近所に書店があるのを見つけた。比呂はそこで詩織の好きな作家の新刊小説を買う。電子書籍ではない、紙の本だ。それを持って地図を頼りに第四区域・学術研究地区にある叡凛大学付属病院を目指す。
叡凛大学付属病院の特徴は、MEIS疾患の治療に力を入れていることだ。MEIS疾患とは、MEIS技術の根幹をなす電脳ニューロン(人工神経細胞)の移植に対する拒絶反応全般を指す。
比呂の妹、詩織は慢性光情報過敏症アレルギー症候群Ⅵ型という難病を患っており、幼いころから入退院を繰り返してきた。現代の医療技術では完治するのが困難な病気だ。
「詩織、元気にしてるかな? 入院してからそろそろ三週間か。もうすぐ新学期も始まるし、早く退院できたらいいけど……」
「比呂、詩織、好キ!」
「シオリ、心配!」
「そりゃ好きだし、心配だよ。妹なんだからさ」
詩織は中学進学の際に新世界市にやってきた。今は叡凛高等学園の付属校である叡凛中等学園に通っている。
彼女が新世界市にやってきた最大の理由が、MEIS疾患だ。MEIS疾患は治療可能な機関が限られており、叡凛大学付属病院はその数少ない機関の一つとなっている。
詩織はMEIS疾患を治療する目的もあり、たった一人で新世界市にやってきたのだ。
今までは離れ離れに暮らしてきたこともあり、ほとんど会えなかったが、これからは違う。会いたい時にはいつでも会えるし、入院した詩織を見舞うこともできる。
叡凛大学付属病院もまた、立派な建物だった。たくさんの医療従事者や、患者と思しき人々の姿が見える。
比呂は大学病院の受付で詩織の病室番号を確認すると、脳神経科MEIS疾患隔離病棟へ向かった。隔離病棟の建物は他の施設から完全に切り離されて独立しており、他とは違う独特の空気を放っている。何だか要塞みたいな、堅牢な雰囲気だ。
入口すぐのところに窓口があり、医療事務の女性に声をかけられた。
「お見舞いですか?」
「あ、はい。そうです。僕は香月比呂と言います。こちらでお世話になっている香月詩織の兄です」
「それではこちらの用紙にお名前の記入をお願いします。それからこの病棟は治療の関係上、外部とのインターネット通信が完全に遮断されていて、端末やタブレットの持ち込みなどもご遠慮いただいております。よろしいですか?」
「はい、分かりました。ここに名前を書けばいいんですね?」
渡されたのはバインダーに挟まれた紙とボールペンだった。完全にアナログだ。《電脳物質》ですらない、本物のペンと紙に触れるなんて一体何年ぶりだろう。
受付だけではない。この病棟はカルテの管理や配膳、掃除などもみなアナログ方式で、人間の手作業で行われているという。MEISを搭載した患者の脳に電波・電磁波などの『刺激』を与えないよう細心の注意を払っているのだ。
病棟内にはルーターやモデムといった電子機器も設置されておらず、電波が全く入ってこないため、光回線はもちろんのことMEISを使って外部と連絡を取ったりすることもできない。MEISの活動が著しく制限される――つまりMEISを搭載していない普通の人間と同じ状態になるということだ。
当然のことながら電脳ペットも連れ込むことはできない。というか、この病棟内では白羽と黒羽の存在を感知することはできないだろう。比呂は空を飛び回っている白羽と黒羽に声をかける。
「おーい、僕が戻ってくるまで、大人しくしておくんだぞー」
すると白羽と黒羽は、隔離病棟の前に植えてある木に仲良くとまって返事をした。
「比呂、詩織によろしくナ! 優しくしてやるんだゾ!」
「ゆっくりしていケ! 我らはこれから人間観察に洒落込むとするカ! ガハハハハ!!」
白羽と黒羽はカアカアと呑気に鳴いている。
「まったく……大丈夫かな? でも、MEISに制限をかけられるなら白羽と黒羽は病院内に連れて入れないし、もし入れたとしてもアプリを終了させなければならない。それよりは病棟の外で待っていた方がいい気がするけど……」
まあこう見えて、白羽も黒羽もいたずらをしたり迷惑をかけたりする性格ではないので、ここに置いて行っても大丈夫だろう。比呂は白羽と黒羽を外に残し、隔離病棟の中へ入ることにした。
ネットが遮断されているからか、病棟内はうす暗く、静まり返っていた。視界の中にデジタル表示や《電脳物質》が全く映らないため、物寂しく心細く感じる。
やがて詩織の病室、402号室が近づいてきた。病室の表示もまたアナログだ。
比呂は躊躇いがちに扉をノックする。すると、すぐに聞き慣れた声で返事が返ってきた。