第32話 アンビバレンス
「僕の事が怖くなったかい?」
アネモネの声で比呂は我に返った。彼女は先ほどと変わらず、じっと比呂を見つめている。
「アネモネ……僕のことを疑っているの?」
比呂の気持ちは変わらない。アネモネが何者であろうと、決して彼女のことが大切だという事実が揺らぐことはない。
彼女がもし《アンノウン》と同じだとしても、アネモネはアネモネだ。
すると、アネモネは彼女にしては珍しく、深々と溜息をついて瞳を揺らした。
「いや……今の言い方は少し卑怯だったかな。……ねえ、比呂。君は何故、《アンノウン》が君たちに対してあんなに攻撃的に振舞うのだと思う?」
「……。分からない。人間が嫌いだから?」
「そうではないよ。彼らはまだヒトでいうところの感情というものを完全には理解していない。だから好きや嫌いという気持ちも抱きようがないんだ。……《アンノウン》が君たちを攻撃する理由は二つ。一つは君たちに対して興味を抱いているから。もう一つは……君たちに脅威を感じているから」
「え? 《アンノウン》が僕たちを……?」
比呂は目を見開いた。そんなことなど考えたことも無かったからだ。
比呂たちにとってこそ、《アンノウン》は恐ろしい存在だ。MEISに通信障害を引き起こす脅威であり、人命を奪ったり災害を起こしたりする可能性のある厄介な『敵』。正直なところ、それ以外の何ものでもない。
だからこそ、彼らの意思なんて想像したことも無かったし、感情がある事すらも知らなかった。
「深淵より来たる者たちはみな同じ矛盾を抱えているんだ。引き合う作用と反発し合う作用、全く相反する葛藤を……ね。それは僕も同じなんだよ」
アネモネはそう言って淡く微笑む。
口元こそ緩やかな弧を描いていたが、彼女の深い海のような瞳はどこか寂しさを感じさせた。それを見て、比呂は初めて悟る。識海では超越的な力を持ち、全てを見透かしているアネモネでも、恐れているものはあるのだと。
「……ごめん、アネモネ。僕は自分の感情を優先しすぎて、君の心に対する気配りが足りなかったみたいだ」
項垂れてそう謝ると、アネモネが不意に比呂へと歩み寄って来た。驚く間もなく、アネモネの両手が比呂の頬を包み込む。
そして、さらにアネモネは比呂の額に自らの額をそっと重ねた。ほのかな温もりがこの上もなく心地良くて、比呂は思わずどきりとする。
アネモネの顔が、不思議な色を湛えた瞳が比呂のすぐ目の前にある。
「謝ることはないよ。僕がいつだって君の事を考えているのと同じように、君もまた僕のことをよく考えてくれているというのは分かっているつもりだよ」
「アネモネ……」
「もうすぐここへ《深海の魔女》がやって来る。僕はもう行くよ。彼女に見つからないうちに……ね。またいつか君の部屋でゆっくり過ごそう」
「うん、待ってるよ、アネモネ。……助けに来てくれて、本当にありがとう」
その言葉に、アネモネは小さく頷いた。そして比呂から離れると、あっという間にその姿を消してしまった。
あまりにも一瞬でその姿が掻き消えてしまったため、彼女がここにいたのは夢だったのではないかとすら思えてくる。けれど、レモンに似た微かな残り香が、アネモネが確かにここにいたことを物語っていた。
(アネモネ……僕はもっと、君と楽しいことや幸せなことを共有したい。君と一緒に、もっともっと新しい世界を知りたい。ただそれだけなんだ)
もちろん、アネモネは比呂のそういった気持ちを理解してくれているのだろう。アネモネは比呂の考えなど、いつだってお見通しなのだから。
だが、比呂がいくらそう願っても、ネオ研のみながそれに賛同してくれると限らない。アネモネは《アンノウン》と同じ、《深海層》からやって来たのだ。
よく考えてみれば、《アンノウン》と激しい戦いを繰り広げてきた柚や大介、湊がアネモネの存在をすんなり受け入れてくれるとは限らない。アネモネの言う通り、もっと慎重になった方がいいのかもしれない。
そんな思惑に耽っていると、突然、芽衣の部屋のドアがバンと勢いよく開かれる。比呂は驚いて玄関を振り返った。
息を弾ませ、飛び込んできたのは柚だった。
「比呂くん!」
見たことろ、柚には大きな怪我もない。比呂はそのことに心から安堵する。
「柚先輩、あの《アンノウン》を排除したんですね?」
「うん、桜庭さんの具合はどう!?」
「今は静かに眠っています。先ほど119番に連絡したので、もうすぐ救急車が来るんじゃないかな」
すると緊張が解けたのか、柚は芽衣のそばにぺたんと座り込んでしまった。
「はーっ、良かったぁぁ……! 《アンノウン》によるMEISの不具合は決して侮っちゃいけないの。それで意識が戻らなかった子とかもいるから。だから、桜庭さんが無事で本当に良かった! 比呂くんは桜庭さんをひどく気にかけていたけど、そのおかげだね」
「僕は桜庭さんの傍についていただけです。柚先輩こそ、本当に凄かったですよ。柚先輩が桜庭さんの部屋の鍵を開けてくれたからこそ、突入できたんだし」
しかし、そう口にした瞬間、比呂はふと気づく。
(あれ……? でも、あれって多分、セキュリティシステムへの不正侵入……だよな? 確かそれって犯罪行為に当たるんじゃ……?)
どんな理由があれ、柚のやったことは不正アクセスには違いない。罪に問われたりしないのだろうか。比呂の懸念が伝わったらしく、柚も表情を曇らせた。
「あー……うん、そだね。絶対、怒られちゃうだろうなー……」
「柚先輩、でも……!」
しかし、その会話の途中で大介が部屋に駆け込んでくる。
「柚、比呂! いるか!?」
彼の後ろには、湊の姿も見えた。
「救急隊の人、来てくれたよ。桜庭さんを運び出しやすいように、テーブルを動かそう!」
「おう、そーだな!」
「僕も手伝います!」
比呂たちは力を合わせ、さっそく部屋の家具を移動させた。
「救急隊です。意識不明なのはそちらの女性ですね?」
ほどなく救急隊員が数人やって来て、桜庭芽衣の部屋は俄かに騒がしくなる。
比呂たちは救急隊員からいろいろと細かい事情を聴かれた。
自分たちは芽衣と同じ叡凛高等学校の生徒であること、芽衣が休校したので見舞いに来たこと。彼女が部屋の中で倒れているのに気づいたので強引に乗り込んだこと。それからすぐに119番に連絡を取ろうと思ったが、ひどい通信障害が起きてなかなか連絡がつかなかったこと。
柚や大介、湊は聞かれたことにはすらすら答えていたが、《アンノウン》の事は全く話さなかった。《アンノウン》は一般の人には見えないし、存在そのものを知られていないので、話さないようにしているのだろう。
(つまり、ネオ研のみながあの巨大な蛾の《アンノウン》を倒したことも、誰にも知られないままということか……)
それを考えると、比呂は少し複雑な心境になる。
ネットオカルト研究部、或いはMEIS災害対策チームの働きを広く世に知らしめたいというわけではない。ただ、全く知られないというのもそれはそれで虚しくなったりしないのだろうか。
しかし柚たちはそれが当たり前という風で、淡々と受け答えしている。
やがて芽衣は、担架で部屋の外へと運ばれていく。一階に辿り着くと、マンションの管理人が比呂たちのクラスの担任・内藤先生を連れて来た。
《アンノウン》が消滅し、ヘルス管理システムのバイタルデータが正常に作動するようになって、桜庭芽衣の異常に気付いたらしい。学校からまっすぐに駆けつけたのだという。
それから芽衣は救急車に運び込まれた。芽衣の付き添いは担任である内藤先生がするらしい。比呂たちはようやく解放される。その頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。
「けっこう時間がかかったね」
湊は溜息をつきながらそう言った。
「まあ、桜庭芽衣の意識があれだけ混濁してたんだ。みっちり事情を聴かれるのは仕方ねーだろ」
大介の声にも疲れが滲んでいる。あれほどの巨大蛾と戦ったのだ。さすがの大介も、疲労が隠せないのだろう。もっとも、柚はそんな中でも笑顔を絶やさない。
「みんなお疲れ~!」
「柚先輩もお疲れさまです」
「ありがとー、比呂くん」
そして比呂の腕をポンと叩くと、嬉しそうに笑う。部長としてみなを励まそうと、気丈に振舞っているのだろう。そこへ白羽と黒羽が飛んできて、柚の肩や頭にとまった。
「柚、大介、湊、比呂! みんな、お疲れだナ!」
「我らも、お疲れだゾ!」
「あはは、白羽と黒羽も頑張ったね!」
柚は笑い声をあげ、白羽と黒羽の背中を優しくなでる。
これでようやく《アンノウン》事件は終わったのだ。桜庭芽衣の容態はまだ分からないが、病院で適切な医療を受ければきっと良くなるだろう。比呂の胸は安心感と達成感で一杯になった。
ところが、何故か湊の表情は優れない。何やら意味深な言葉を発する。
「……まあ、本番はこれからなんだけどね」
「え……?」
目を瞬く比呂に、大介も苦々しげな表情をして言う。
「まあ、あれだ。学校へ戻ってみりゃイヤでも分かるって」
「……?」
それはどういう意味なのか。不思議に思いつつも、比呂は取り敢えずネオ研のみなと共に芽衣のマンションから叡凛高校へ移動した。
さすがに時間が遅いせいか、ほとんどのクラブは活動を終えており、運動部の部員がグラウンドを整備したり、道具の後片付けをしたりしている。
校門をくぐった時だった。柚は不意に立ち止まった。
「あちゃー……校長先生から呼び出されちゃった。今すぐ校長室へ来なさい、だって」
それを聞いた大介と湊は、同時に顔をしかめる。
「やれやれ、さっそくだな」
「僕たちが戻るのを待ち構えていたというわけか」
担任教師ならともかく、校長から呼び出されるなんて余程の事だ。原因はおそらく、先ほどの不正アクセスだろう。柚は不正アクセスでマンションのセキュリティシステムを突破し、桜庭芽衣の部屋に入った。その事が学校に伝わってしまったのだ。
「柚先輩、僕も行きます!」
比呂は身を乗り出すが、柚は両手を振る。
「いいよ、いいよ。呼び出されたのは部長のわたしだけだから」
「でも……!」
「大丈夫、ちゃっちゃと終わらせて戻ってくるから! みんな疲れたでしょ? 遅くなるかもしれないから、先に帰ってて!」
そう言うと、柚は校長室に向かって歩き出す。大介がその背中に声をかけた。
「柚、一人で大丈夫か?」
「もちろん! 任せて、ネオ研の部長はわたしなんだから!」
柚はピースサインをして、元気よく笑う。それから身を翻し、校長室へと走り去ってしまった。あっという間で、呼び止めることもできなかった。
「柚、一人で行くナ!」
「柚、ユズ!!」
白羽と黒羽はガアガアと騒ぐが、やはり柚は振り向かない。たった一人で行ってしまう。
「……やっぱりあれですよね? 原因は桜庭さんの部屋の鍵を不正アクセスで開錠してしまったこと……ですよね?」
比呂が尋ねると、湊も顔を強張らせて頷く。
「そうだね。IT社会黎明期ならいざ知らず、現代のB‐IT社会ではネット犯罪には厳しい刑罰が科される。不正アクセスはもちろんのこと、ネット上での誹謗中傷や名誉棄損などにもね。当然、僕たちの取った行動も学校にとっては認めがたい反社会的行為だし、中でも部長である柚は厳しく責任を追及される」
「で、でも! 今回の柚先輩の不正アクセスは、完全に悪だとは言い切れないじゃないですか! あのままネオ研が《アンノウン》の蛹を放置したままだったら、桜庭さんは危なかったかもしれない……! 柚先輩のしたことは法に反していたかもしれないけど、それで救われた命があるのに!」
比呂はアネモネとのやり取りを覚えているから、余計にそう思ってしまう。
もし柚が無茶をしてマンションに乗り込まなかったら、蛾型の《アンノウン》を除去することもできなかったし、芽衣の意識は識海の奥深くに沈んだまま二度と戻らなかったかもしれない。
柚が不正アクセスをしなければ、芽衣は誰にも発見されることもないまま、永遠に眠り続けることになっていたかもしれないのだ。
法を破ってしまったのは悪い事だと比呂も思う。しかしだからと言って、柚が処罰されるのにはどうにも納得がいかない。湧き上がる悔しさや歯痒さを抑えることができなかった。
「校長先生に全て説明して、理解してもらうというのはどうですか? このままじゃやり切れないです。柚先輩もネオ研も……悪い事をしたわけじゃないのに」
比呂はそう訴えた。しかし、大介も湊も比呂の意見に難色を示す。
「……それは難しいだろうな。校長先生も含め、普通の大多数の人間にゃ《アンノウン》が見えねえ。見えねえ奴に見えないものの存在を信じさせるのは、そう簡単なことじゃねえ」
「それどころか、下手に食い下がると幼稚な嘘をついて、言い逃れをしようとしていると判断されかねない。最悪、反省が足りないと見做されてより重い罰が貸されてしまう可能性もある」
「そんな……!」
「だよな。ソピアー社の蓮水さんや冬城さんみたいな、協力的な人の方が少数派なんだ」
つまり《アンノウン》の存在を校長に訴えたところでそれが理解されることはなく、むしろ逆効果になりかねないということだろう。大介も湊も、ネットオカルト研究部としてずっと《アンノウン》と戦ってきた。だからこれまで幾度となくこういったトラブルを経験しているのだ。
「だったらせめて、僕も柚先輩と一緒に怒られに行きます! 柚先輩ひとりに責任を被せるなんて間違ってます!!」
憤る比呂だったが、大介はそれもあっさりと却下してしまうのだった。
「あー、それもやめとけ。ややこしくなるだけだからよ」
「ど、どういう事ですか?」
「こう言っちゃなんだが、学校側の狙いは最初から柚なんだ。この呼び出しも、いわゆる『特別指導』みたいなもんさ。俺らがいようがいまいが、ぶっちゃけあんま関係ねえんだよ。何せ柚は現代における『ギフテッド』だからな」




