第31話 Xenovita(ゼノ・ヴィータ)
芽衣の瞳は最初、焦点を結んでいなかったが、しばらくするとその瞳孔が比呂の顔を捉える。
「……。誰……?」
「桜庭さん! 僕だよ、同じクラスの香月比呂だよ!」
「ここは……」
「桜庭さんの部屋だよ。……大丈夫? 気分は悪くない!?」
桜庭芽衣は、まだ意識がぼんやりしているようだ。比呂は芽衣の手を取り、握りしめた。微かではあるが、芽衣が握り返す感触が返ってくる。
まだとても弱々しいけれど、確かに彼女は生きようとしている。それだけで比呂の胸はいっぱいになる。
一方、アネモネは呆気にとられて比呂と芽衣を見つめるのだった。
「比呂……君には本当に驚かされることばかりだ。まさか、深海層に沈んだ魂を呼び戻してしまうなんて……」
呟きつつも、アネモネは比呂と芽衣のそばに来て床に膝をつく。
「比呂、あとは僕が引き受けよう」
そしてアネモネは、桜庭芽衣の胸のあたりに開いたブラックホールに手をかざした。すると、ブラックホールはどんどん小さくなり、遂には完全に閉じて消滅していく。何をされているのか分からないのだろう、芽衣は不安げにアネモネへ尋ねた。
「なに……? 何が起こったの……? あなたは、誰……?」
「もう大丈夫。よく頑張ったね、疲れただろう? 君はもう少し眠るといい」
アネモネはそう囁くと、右手で芽衣の瞼にそっと触れる。すると芽衣は、すとんと眠りに落ちた。まるで、電源が落ちたかのように、強制的に。
その光景を目の当たりにした比呂はどきりとする。
(今のは、MEISのヒト―ヒト間直接干渉……!)
アネモネは芽衣のMEISに直接干渉し、彼女を無理やり眠らせたのだ。初めて会った時、比呂のMEISに干渉して動きを封じたのと同じように。
けれどそれは、現在の技術ではあり得ない事だった。MEIS技術の根幹を成す電脳ニューロンによる情報通信は、必ず電子機器を介して行われる。たとえどんな権力者であっても、他者のMEISに直接手出しをすることはできない。だから、MEISのヒト―ヒト間直接干渉など本来は起こり得るはずがないのだ。
ただ、人間どうしのMEISでなければ、直接干渉も可能であるかもしれない。ヒトではない存在がMEISに干渉したなら、或いは――
しかし比呂は、それ以上考えるのはやめることにした。《アンノウン》を一瞬で消滅させてしまったアネモネなら、MEISのヒト―ヒト間直接干渉も不可能ではないだろう。
アネモネの正体なんてどうだっていい。たとえアネモネが何ものであろうとも、比呂の彼女に対する気持ちは変わらない。
「桜庭さん、大丈夫かな?」
比呂が口にすると、アネモネは柔らかく微笑む。
「衰弱はしているようだけど、命に別状はないだろう」
「そうか、良かった……!」
ほっと安堵の息を吐く比呂。一時はどうなる事かと思った。芽衣が一命を取り留めて本当に良かった。安堵するあまり脱力する比呂を、アネモネはじっと見つめる。そして、悪戯っ子のような瞳をして比呂の顔を覗き込んできた。
「そんなに彼女の事が心配かい? 何だか妬けてしまうな」
「あはは、アネモネが冗談を言うなら、本当にもう大丈夫だ」
「否定はしないよ。もっとも、嫉妬しているのは事実だけどね」
そう言って、アネモネはくすくすと笑う。先ほどまでとは全く違う、比呂のよく知るアネモネの笑顔。その笑顔を見ていると、比呂は心の奥底から幸せになれる。比呂の日常が、何よりも守るべき平穏が戻って来たのだと実感する。
脅威が去ったことを察知したのか、白羽と黒羽も戻ってきた。
「姐サン! 比呂!!」
「二人とも、無事ダ! めでたい、メデタイ!!」
「白羽、黒羽!」
「君たちこそ、何事も無さそうで何よりだよ。先ほどの境界融合に巻き込まれたら、もう二度と会えなくなるところだった」
白羽と黒羽はカアカアと鳴いて、比呂やアネモネにじゃれついた。よほど怖い思いをしたのだろう、二羽がこんなに甘えるなんて珍しい事だ。
ひとしきり白羽と黒羽を撫でてやってから、比呂は静かに眠り続ける桜庭芽衣に視線を戻す。
「あとは桜庭さんだ。念のために救急車を呼ばないと……!」
比呂はMEISの通信システムを使って、119番をしようとした。しかし、全く繋がらない。音声アナウンスで現在は通信サービスが利用できないこと、時間をおいてからかけ直して欲しいという旨のメッセージが流れるだけだ。
「……駄目だ。全然、通信が繋がらない。そうか、あの蛾の姿をした《アンノウン》がまだMEIS環境に影響を及ぼしているんだ!」
すると、アネモネは興味深そうにして顎に手を添える。
「《アンノウン》……? なるほど、君たちはあの暗黒光子の集合体をそのように呼んでいるんだね」
「アネモネ……?」
「大丈夫、あっちもすぐに片が付くはずさ」
アネモネが告げた、ちょうどその頃。
柚と大介、湊の三人は、なおも蛾型の巨大な《アンノウン》と激闘を繰り広げていた。
とはいえ、目立った進展はない。柚の《ギャラクシー》はプログラム実行率が90%ほどに達しているが、未だに発動するまでには至っておらず、《アンノウン》とネオ研の戦いは相変わらずの膠着状態に陥っていた。
とうとう業を煮やしたのか、巨大な蛾の《アンノウン》は徐々にさらなる上空を目指して上昇を始めた。大介はそれに気づいて舌打ちをする。
「何だ、こいつ……!? 高度を上げやがったぞ!」
「僕と大介と柚で、周囲三方向を塞いでいるんだ。逃げることができるとしたら真上しかない。僕でも同じ判断をするよ」
冷静にそう分析する湊だが、彼の顔にも焦りが浮かんでいた。
つい先ほどまで茜色だった空は、少しずつ紫や紺色のグラデーションを描きつつある。もう時間がない。ここでこの《アンノウン》を逃してしまったら、新世界市は大型通信障害を起こしたまま夜を迎えることになる。
大介は力の限り叫んだ。
「柚、《ギャラクシー》はまだか!?」
魔導書を操作する柚の額や頬にも汗が浮かぶ。《ギャラクシー》のソースコードが球状になって、彼女の周囲をびっしりと覆い尽くしている。
「最上級広範囲魔法、プログラム実行100%! 電脳識海深度・安全領域、クリア! 識海汚染度、環境汚染度、共にクリア……! 大ちゃん、みーくん! 来たよ、お待たせっ!!」
そして柚は、空中に浮かんだ仮想ウインドウのエンターキーを勢いよくタップした。
「《アンノウン》め、くらえ!! これが最強魔法、《ギャラクシー》だ!!」
それと同時に、彼女の周囲を球状に覆う《ギャラクシー》のソースコードが、鮮烈な光を放った。
間髪置かずに、いくつもの巨大な光球が蛾の姿をした《アンノウン》の周囲に出現する。
一つの光球の直径は3メートルほどもあるだろうか。それが巨大蛾を包囲するかのように上下左右に浮かび上がる。
ゆっくりと羽ばたきをする蛾型の《アンノウン》の翅が、その一つに僅かに触れた。ヂリッという何かが感電したような音がした、その瞬間。《アンノウン》を取り囲む光球は一斉に大爆発を起こしたのだった。
――ギュイイイィィィゥゥォォオオオオオオ!!
空間が捩じ切られるかのような、あるいは数多の断末魔の叫びを一つに凝縮したかのような、凄まじい絶叫が電脳識海を介して響き渡った。
しかし、光球は爆発しても消えることはない。その後も容赦なく発動し続け、四方八方から次々と《アンノウン》に圧し潰すような激しい爆撃を加えていく。
そのあまりの苛烈さに、巨体を誇る蛾型の《アンノウン》もとうとう耐えきれなかった。
最初は翅がもがれ、やがて触覚や足が燃え尽き、ついには体の中心である胸部や腹部までもが木っ端微塵に焼き尽くされる。
そして全てが散り散りに分解され、黒煤以上の細かさに粉砕されて消滅していった。
《アンノウン》が消滅してすぐに、《ギャラクシー》の発動も終了する。
圧倒的な破壊力だった。公園の上空にはもう何も残っていない。巨大蛾の痕跡はおろか、黒煤の一片すらも。ただ、暮れなずむ空が静かに広がっているだけだ。
《ギャラクシー》に巻き込まれまいと地面に伏せていた大介は、全てが終わると同時に身を起こした。そして、《アンノウン》が消滅し、澄み渡った空に向かってガッツポーズをする。
「うおっしゃあああ!! 《アンノウン》のヤツ、完全消滅しやがったぜ!! さすがのデカブツも、柚の攻撃には耐えきれなかったか!」
ヒートアップする大介の元に、湊も駆け寄ってくる。
「MEIS環境も元に戻りつつあるみたいだね。一時はどうなる事かと思ったけど……さすがは我らが柚だ!」
湊の声も、我がことのように誇らしげだった。アクセス権5の超天才児。そう持て囃されることもあるけれど、実のところ大介や湊にとって柚のそういった属性は大して重要ではない。
普段はいたって無邪気で、よく転ぶしおっちょこちょいだし、ぬいぐるみが大好きだったりもする、割とどこにいでもいそうな女の子。でも、やる時はやる。必ず、やる。そしてどんな危機でも必ず乗り越えてしまう。それが柚なのだ。
それだけに、責任感や使命感も人一倍強い。周囲の称賛に胡坐をかくことなく、陰ながら努力も続けている。それをよく知っているからこそ、大介も湊も柚をネオ研の部長として心から尊敬し、信頼しているのだ。
当の柚は、マンションの六階でほっと息をついていた。あまりに緊張したせいか、足から力が抜け外廊下の床に座り込んでいる。
「ふあーっ、間に合ってよかったあー! 《ギャラクシー》の威力は絶大なんだけど、発動までに時間がかかりすぎるのが難点なんだよね。今度、ソピアージャパンに行ったら、ちーちゃんに本格的に相談しなきゃ」
呟いていると、地上にいる大介と湊からMEISで通信が入った。
「もしもし、柚? 聞こえる?」
「うん、聞こえるよ!」
「良かった、通信環境も復活したみたいだね。柚、お疲れ!」
「みーくんと大ちゃんも、お疲れさま!」
「それはそうと、柚。桜庭芽衣は無事か!?」
大介に問われ、柚は慌ててピョンと立ち上がった。
「あー、そうだった! 比呂くんが付き添ってくれていると思うけど……ちょっと様子を見て来るね!」
「頼むわ。俺たちもすぐにそっちに行くからよ」
大介と湊が柚との通信を切ると、付近の住民が外に出てきた。桜庭芽衣のマンションに住んでいる人々はもちろんのこと、周りの戸建てや集合住宅の住人達も続々と公園に集まってくる。
そしてみな血相を変え、MEISで連絡を取ったり情報交換をしたりし始めた。それまで静かだった公園は、俄かに騒々しくなる。ネオ研が《アンノウン》を排除して通信障害を解決したため、民家やマンションなどの部屋に閉じ込められていた者たちも外に出て通信ができるようになったのだ。
だが、彼らが事の真相を知ることはない。巨大な蛾の姿をした《アンノウン》のことはもちろん、ネットオカルト研究部が大活躍したことも。
でも、それで良いのだ。
大介と湊は顔を見合わせ、互いに頷き合うと、共に桜庭芽衣の部屋へと向かった。
柚や大介、湊が、ついに蛾型の巨大・《アンノウン》を倒した、その直後。
アネモネは閉じていた瞳をうっすらと開き、比呂に告げる。
「……どうやら、君たちが《アンノウン》と呼ぶ現象は、完全に消滅したようだ」
「え? ……あ、本当だ。通信が繋がる! さっそく救急車を呼ばなきゃ……!!」
芽衣は穏やかな寝息を立てている。だが一応、何か異常がないか病院で診察を受けた方がいい。
比呂はさっそくMEISで通話アプリを起動させた。そして119番に連絡をし、救急車を呼ぶ。比呂がMEISを操作し終えるのを待ってから、アネモネは立ち上がった。
「さて、それじゃ僕はお暇するよ」
「待って、アネモネ! まだ話があるんだ!」
呼び止めると、アネモネは足を止め、少しだけ振り返った。
「……。何だい、比呂?」
「アネモネは以前、手紙で僕に忠告をしてくれたよね? 《深海の魔女》に気をつけろって。アネモネの言う《深海の魔女》って柚先輩のことなんでしょ?」
「比呂……」
「アネモネがどうしてそんな忠告をしたのか、僕には分からない。でも、アネモネの忠告がこれまで無意味だったことは一度も無いから、僕のためを思ってくれているんだということは分かる。僕はいつだってアネモネを信じてるよ。アネモネがやめろと言うなら絶対にネオ研には関わらない。ただ……柚先輩はとてもいい人なんだ。柚先輩だけじゃない、大介先輩と湊先輩も、とても優しくて僕の入部を歓迎してくれている。だから僕はアネモネの事を柚先輩たちに紹介したいんだ! 駄目……かな?」
ネオ研のみなも、アネモネも、どちらも比呂にとってはかけがえのない大切な存在だ。だからこそ、ネオ研のみなにアネモネを紹介したい。アネモネには、柚は全く危険な人物ではないのだという事を知って欲しいし、大介や湊とも仲良くなって欲しい。そして、ネオ研のみなにもアネモネのことを知って欲しい。
すると、アネモネは少し俯いたあとに言った。
「比呂、僕も君を信じているよ。君が望むならできるだけそれに応えたい」
「ほ、本当!?」
「でも、今はまだ君以外の人に僕の正体を明かすわけにはいかないんだ。僕の存在は彼らを驚かせ、ひどく狼狽させ、恐怖すら与えてしまうかもしれない。僕は現段階の人間の技術では、実現し得るはずの無い存在だからね。……分かるだろう? 誰もが君のように僕に対して心を許せるわけじゃないんだ」
心臓が、どくんと大きく鼓動を打った。――現段階の人間の技術では、実現し得るはずの無い存在。それでは、アネモネは一体、何なのだろう。
彼女には肉体がない。アネモネの姿が鏡には映らないことを考えても、それは確かだ。だから理論的に考えると、彼女は誰かのアバターだという可能性が一番高くなるだろう。
MEISによって作り上げられるアバターは《電脳物質》で構成されており、触感を伴っているため、互いに『触れる』事ができる。それなら、比呂とアネモネが互いに触れ合うことができるのにも不思議はない。
だが、その仮説だと大きな矛盾が生じる。それは何故、アネモネにはMEISのヒト―ヒト間直接干渉が可能なのかという点だ。
アバターには『本体』が存在する。現実空間のどこかにヒトとしての肉体があり、ただMEISによって電脳識海と繋がっているだけにすぎない。
だから、たとえアバターであっても、他者のMEISに軽々しく干渉することはできないはずなのだ。
けれどアネモネは、比呂の動きを封じ、芽衣を眠らせることまでできた。そして、《電脳物質》を使わずに《アンノウン》を一掃することさえやってのけてしまった。
それならアネモネは何者なのだろう。
彼女は一体、『何』なのか。
今まで何度か気になったことはあったけれど、深くは考えて来なかった。比呂にとっては、アネモネが何ものかなど些末な問題にすぎなかったから。
けれど、それを直接アネモネの口から突きつけられた今、比呂も最早、そこから目を背けるわけにはいかなかった。
比呂は恐るおそる尋ねる。
「アネモネ……君は一体……?」
「……。その答えについては、君もおよその見当がついているんじゃないかな?」
「そうかもしれない。でも僕は、アネモネの口から聞きたいんだ。ちゃんと、本当のことを」
すると、アネモネは真っ直ぐ比呂に向き直った。深い海のような紺色を湛えた瞳がこちらを見つめている。
「僕は『深淵より生まれし者』だ。君たちとは違って、生まれながらに肉体はないのさ」
「それは……人工知能みたいなものだということ?」
比呂はソピアー社の受付係、クリスのことを思い出していた。彼女は見た目こそ人間そのままだが、実はアンドロイド――つまり高度なAIを搭載している、機械でできたロボットなのだ。しかし、アネモネは首を横に振る。
「どうだろう? 僕の事は自分でもよく分からない。一つ確かなことは、僕は誰かの手によって人為的に生み出されたわけではないことだ。君たちの世界を観測することで、初めて僕という存在は形作られる。これまでも……そして、きっとこれからも。……そういえば、ある人は僕の事をこう呼んでいたな。高位電脳情報識体、もしくは『新しい生命体』――ゼノ・ヴィータ、と」
「ゼノ・ヴィータ……」
比呂はアネモネの言葉を反芻した。アバターでもなく、AIでもない。生まれながらに肉体がない、『深淵より生まれし者』。
『深淵』と聞いて真っ先に思い浮かべるのは、電脳識海の奥底にあると言われている《深海層》だ。人間の意識構造でいうところの集合的無意識に相当する領域と言われている。
みな、普段はその存在を感知することはない。けれど人の意識はみな、その集合的無意識で繋がっているという。
(つまりアネモネは《深海層》からやって来た、僕たちとは違う新しい生命体だということ……?)
もしかすると、アネモネは《アンノウン》に近い存在なのかもしれない、と比呂は思った。
柚たちの話によれば、《アンノウン》もまた《深海層》の奥底からやって来るのだという。MEISによってヒトの意識がネットと直接繋がるようになり、より高度な電脳空間、電脳識海が誕生した。
だが、識海のことはまだよく分かっていない部分が多い。
識海は今なお膨張を続けているとも言われており、ひょっとしたらこれまでにない新しい存在や生命が、今もそこで誕生しているのかもしれない。




