第30話 境界(ボーダー)融合(クラッシュ)
今や《アンノウン》との戦いは、ネオ研のメンバーの方が完全に有利であるように思われた。
しかし気は抜けない。《アンノウン》もまた、現状が自身にとって好ましくないことを理解しており、この膠着状態を打開しようと狙っているからだ。
その証拠に、《アンノウン》は漆黒の巨大な翅を羽ばたかせ、大介や湊に直接攻撃をして抵抗を試みる。そして更にその翅から、真っ黒い粒子でできた粉を振りまいた。
「な……何だ、こりゃ!?」
「これは、鱗粉……? 大介、気を付けて! 必ず何がしかの効果があるはずだ!」
湊の言う通りだった。蛾の《アンノウン》が振りまく黒い鱗粉に触れたその瞬間、サイバーウエポンに異変が現れたのだ。ノイズが走ったかと思うと、急にずしりと重くなる。黒い鱗粉が干渉して重量調整を狂わせたのだろう。そのせいで、思うように武器を振るえない。
おまけに、まるで侵蝕するようにじわじわとMEISやインターフェースにも負荷がかかってきた。
「くっそ、ただではやられねえってワケか!」
「上手く《アンノウン》と距離を取るしかない! 鱗粉が止んだ時を狙って攻撃するんだ!!」
大介と湊が攻撃を繰り出せば、《アンノウン》は体当たりや鱗粉で反撃する。その度に二人は後退し、《アンノウン》の反撃が止んだところで再び攻勢に転じる。互いに一進一退の緊張した時間が続いた。
一方、マンションの六階外廊下では、柚が魔法を発動させようと奮闘していた。空中に表示した仮想ウインドウに、起動プログラムを打ち込んでいく。
「座標の設定はこれで良し、と。あとはプログラムを《プレロマ》からダウンロードするだけ……! 電脳識海深度372、EMF強度低下による環境汚染度、63%以下、いずれも許容範囲内……!!」
通常であれば《ギャラクシー》を発動させるのには十五分近くかかる。ソピアー・ジャパンの社員、冬城千風が言っていた通り、実装されてまだ間もない魔法であるため、いろいろと不備があるのだ。また、強力魔法であるが故に周囲への環境にも気を配らねばならない。
だが、柚はアクセス権5を誇る高性能のMEISを生かし、それを五分に短縮することができる。そして、周囲の環境に与える影響を最小限に留めることも。
「最高位魔法複射弾・《ギャラクシー》、発射用意完了! ……起動まであと一分!!」
✽✽✽
柚たちが奮闘しているその頃、比呂は桜庭芽衣のそばに付き添っていた。
芽衣はまだ目を覚ます気配がない。ぐったりとしたまま、眠り続けている。明らかに様子がおかしいが、さりとて何をすべきなのか比呂には分からない。
(こういう時、どうしたらいいんだ? タオルか何かで体を温めた方がいいかな。それから桜庭さんが目を覚ました時のために水も用意しておこう。……ああでも、マンションがシステム障害を起こしているなら、きっと水も出ない……! どうしたら……!!)
ふと部屋を見回すと、窓の外に白羽と黒羽がいることに気づいた。二人とも必死で羽ばたき、中に入れてくれとアピールしている。
白羽や黒羽のような電脳ペットには物理的な壁は関係しないが、他人のプライベート空間には勝手に入れない設定になっているのだ。でなければ、人間の都合などお構いなしにどこへでも侵入することができるようになってしまう。
「白羽、黒羽!」
比呂がMEISで入室の許可を出すと、白羽と黒羽が窓ガラスをすり抜け飛び込んできた。
「二人とも無事だったのか、良かった……!」
安堵する比呂だったが、白羽と黒羽は慌てた様子で比呂の周りを飛び回る。
「良くないゾ、比呂! ここを離れロ!!」
「危ないゾ! 危ないゾ!!」
「そういうわけにはいかないよ。桜庭さんを置いてはいけないし……」
そう言って比呂は、桜庭芽衣の方を振り返る。
すると、芽衣の周りに残っていたわずかな黒煤――《アンノウン》の幼生がみるみる増殖し、実体化を始めた。
現れたのはダンゴムシの成虫だ。と言っても、大きさは小型犬ほどもある。
「さっきとは別の《アンノウン》が出現している……!?」
どきりとして立ち上がった。その間も、ダンゴムシ型の《アンノウン》はどんどん増殖し、部屋を埋め尽くしていく。このままでは芽衣にも危害が及ぶだろう。
(そうか、黒煤の量が桁違いに多かったから、余った黒煤が他の種類の《アンノウン》に成長したんだ!)
ひょっとしたら、蛾の姿をした巨大な《アンノウン》がまだ近くにいることも、彼らを勢いづかせている原因の一つかもしれない。比呂はグローブ型インターフェースと《プレロマ》を装着した手を握り締める。
「先輩たちはいないんだ。僕がしっかりしないと……!!」
見たところ、ダンゴムシ型の《アンノウン》はさほど動きが早くない。ソピアー社で戦ったウルフラビットよりはずっと対処がしやすいはずだ。
小さく深呼吸をし、出現させた片手剣を構えると、視界に赤いターゲッティングカーソルが浮かび上がる。相手に対し攻撃可能な範囲である印だ。比呂はそれを確認してから、片手剣をダンゴムシ型・《アンノウン》に向かって鋭く振り下ろした。
「はっ!」
すると、バキンという硬質な音と共に手応えが伝わってきた。まさにその音の通り、硬いものを砕いた感覚だ。
片手剣によって真っ二つにされたダンゴムシ型の《アンノウン》は、風に舞う砂のように散り散りになって消えていく。数日前、ネオ研がカマキリ型の《アンノウン》を倒した時と同じように。
「よし……倒せたぞ! このままどんどん行こう!」
ただ、いかんせん数が多すぎる。そこで範囲型スキルの《旋風刃》を使うことにした。《旋風刃》は一度に複数の敵を攻撃することができる回転斬りだ。
ダンゴムシ型の《アンノウン》の一匹にターゲッティングカーソルが重なった瞬間、インターフェース・グローブの動きに合わせて片手剣を振るいスキルを発動させる。
三匹の《アンノウン》が一気に消失した。比呂は次々とダンゴムシ型の《アンノウン》を撃破していく。《アンノウン》はあまりこちらに攻撃してこない。時おり、ぴょんと跳ねてとびかかってくるが、元々動きが鈍いので余裕で避けられる。
(この調子なら、僕一人でも何とかできそうだ!)
しかし比呂が手ごたえを感じた瞬間、強烈な眩暈にも似た感覚に襲われた。一瞬、体の動きが止まり、がくりと体が傾ぐ。
「な、何だ!?」
明らかにただの眩暈ではない。何かが強制的に干渉してくるような違和感。すると、白羽と黒羽が再び激しく騒ぎ始めた。
「比呂、逃げロ! 比呂、逃げロ!!」
「危ないゾ! 巻き込まれるゾ!!」
「巻き込まれる……?」
比呂は眉根を寄せた。一体、何に巻き込まれるというのだろう。嫌な胸騒ぎに襲われ、冷や汗が頬を滴り落ちる。
その時、再びぐい、と体が引っ張られるような感覚に襲われた。これは……間違いない。確実に、今までにない新たな異変が起こっている。しかし、一体何が起ころうとしているのか。
比呂は慌てて周囲を見回した。異変の原因は桜庭芽衣の体にあった。
「これは……!!」
芽衣の上半身、先ほど《アンノウン》の蛹が取り付いていた胸のあたりに、黒い空洞のようなものが浮かんでいる。真っ暗で光を全く通さない。吸い込まれそうなほどの虚無。
その周囲の事象は円盤状に歪んで見える。その輪郭から、黒い空洞が球体をしている事が伝わってきた。だが、あまりにも純粋な漆黒であるため陥没しているように見えるのだ。
その黒い空洞は比呂にブラックホールを連想させた。あまりにも高密度で重力が大きいため、光でさえ逃げ出すことができない、恐るべき天体の一種。
そう思って改めてみて見ると、確かに芽衣の上に開いた空洞の中心は暗闇だが、その周囲は光を発しており、まるでブラックホールにおける光表面みたいだ。そして空洞の中心部から真上に向かって光の粒子が放出されている。その様はブラックホールの発する高速ジェットに酷似している。
やがて、異変はさらにはっきりとした形を伴って現れた。桜庭芽衣の部屋にある、《電脳物質》がそのブラックホールに向かって吸い込まれ始めたのだ。
《電脳物質》でできたぬいぐるみ、壁掛け時計、そして観葉植物。その全てにノイズが走り輪郭を歪ませながら、渦を描いて真っ暗闇へと呑み込まれていく。
さらには、残ったダンゴムシ型の《アンノウン》までもが、どんどん芽衣の体の上に開いたブラックホールに吸い込まれていった。
ところが、机や椅子といった実際に存在している物体には何の影響もなく、ピクリとも動かない。どうやらこのブラックホールは、電脳識海上の存在のみに作用するようだ。
そのためか、電脳識海に接続しているMEISを搭載している比呂もまた、間接的に影響を受ける。さすがにブラックホールに吸い込まれることはないが、引っ張られるような感覚がどんどん強くなり、視界が大きく歪んでいく。
「何だこれ……!? 電脳識海が歪んでいる……!! 桜庭さんに何が起こっているんだ!?」
耳鳴りもひどい。あまりの気持ち悪さに、吐き気さえ込み上げてくる。MEISに接続している感覚器官の全てが滅茶苦茶にかき混ぜられ、シェイクされたかのようだ。もはや立っている足も震え、今にも倒れ込みそうだった。
白羽と黒羽も羽をばたつかせる。
「吸い込まれル~っ!!」
「アババババババ!!」
白羽や黒羽のような電脳ペットは、《電脳物質》で体を構成されている。だから、芽衣の上に浮かんだブラックホールの影響をダイレクトに受けるのだ。
比呂は咄嗟に、目の前で羽ばたいている黒羽を両手で捕まえた。ブラックホールに吸い込まれるのを防ぐためだ。
しかし黒羽の体は比呂の手をすり抜け、なおもブラックホールへと引き寄せられていく。白羽も同様だ。必死に抗っているが、ブラックホールとの距離はどんどん近づいている。
「白羽! 黒羽!!」
比呂は蒼白になった。このまま二羽があの黒い空洞に吸い込まれてしまったらどうなるのだろう。そもそも、あのブラックホールのような黒い球体は何なのだろう。
あんなもの、これまで見たことがないし、聞いたこともない。電脳識海にはまだ謎が多いとはいえ、あまりにも常軌を逸している。
ただ、うっすらと抱いていた嫌な予感は確信に変わりつつあった。あの空洞に吸い込まれてしまったら、きっともう、二度と白羽と黒羽には会えなくなるだろうと。
とはいえ、それが分かっていても比呂にはどうしようもない。何せ、今の比呂では白羽と黒羽に干渉することができないからだ。おそらく、あのブラックホールの出現によってMEISの働きを妨害されているのだろう。
だから、白羽と黒羽が吸い込まれている様を黙って眺めているしかない。大切な家族が消え去ろうとしているのに。
――誰か。誰か、白羽と黒羽を助けてくれ。僕からこれ以上、家族を奪わないでくれ!
心の中でそう叫んだ瞬間、目の前に黒い何かが翻った。芽衣の胸に浮かんでいる不気味な黒い球体とは違う、どちらかと言うと《アンノウン》によく似た混じりけの無い暗黒色。
比呂の目の前で翻ったのは、コートの一部だった。比呂がこの世の誰よりも強く慕っている、大事な女性の。
「あ、アネモネ……!?」
忽然と姿を現したアネモネに、比呂は言葉を失う。どうして彼女がこの場に。しかしアネモネは比呂の疑問に答えることなく、白羽と黒羽に向かって指示を飛ばす。
「白羽、黒羽! 君たちは遠くに離れているんだ!」
「姐サン!」
「でも、比呂が一人きりになるゾ!」
「比呂には僕がついているから大丈夫! さあ、早く!」
「り……了解ダ、姐サン!」
「そうと決まれバ、逃げるが勝ちダ!」
白羽と黒羽は全力で羽ばたきをし、窓の外へと飛び立っていく。部屋に残されたのは意識を失った桜庭芽衣と、比呂とアネモネの二人のみ。
いや、あともう一つ、ダンゴムシ型の《アンノウン》たちが残っている。彼らのいくらかは芽衣のダークホールに呑み込まれていったが、今なお多数が室内に蠢いていた。そして、何やら比呂たちを威嚇するようにギイギイと鳴き声を上げる。
比呂はよろめきながらも再び片手剣を構える。しかし、アネモネは身じろぎもしない。光の角度によってさまざまに表情を変えるその瞳は、今は攻撃的なほどの赤みを帯びていた。アネモネはその瞳でもって、《アンノウン》に冷徹な一瞥をくれる。
近づきがたいほどの圧倒的な威圧感。そんなアネモネの姿を見たのは初めてだ。
「……うるさいな、今は少し静かにしていてくれ」
その瞬間、部屋に犇めいていたダンゴムシ型の《アンノウン》は、一瞬にしてことごとく砂に還り、消滅した。五十匹はくだらないほどの《アンノウン》の大群を、アネモネはたった一瞬にして殲滅してしまったのだ。しかも、何の動作も伴わず、《電脳物質》すら使用せずに。
比呂は、息を呑んだ。
「あ……アネモネ……」
ネオ研に入り、《アンノウン》の知識を得た今だからこそ分かる。アネモネがどれほど、とんでもない事をやってのけたのかを。どう考えても今のは人間業ではない。アクセス権が5である柚ですら、こんな芸当は不可能だろう。
何が何だか分からず、比呂はただただ唖然とするばかりだった。アネモネはそんな比呂の方を振り返る。その時には先ほどの威圧感は消え失せ、アネモネはいつもの彼女に戻っていた。
「比呂、君もここから離れた方がいい」
比呂は、はっとして我に返ると、アネモネに詰め寄った。
「待ってくれ、アネモネ! 桜庭さんは……? 一体なにが起こっているんだ!?」
すると、アネモネは今なお眠り続ける芽衣へと視線を向ける。
「彼女のMEISは境界融合を起こしているんだ」
「境界融合 ……!?」
「電脳識海がヒトの意識構造と同化しているのは知っているだろう? 大きく分けるとヒトの顕在意識に当たる表層と、無意識や集合的無意識に当たる非表示層から構成されていて、両者は境界と呼ばれる境界層によって明確に分かれている。しかし、その境界が融合を起こすと、区切られた二つの世界が混じり合ってしまうのさ。つまり漸深層や深海層のデータが表層に逆流して識海汚染が起こってしまうんだ」
識海汚染。その言葉には聞き覚えがあった。
「ひょっとして……MEIS災害が起きるということ!?」
MEIS災害とは、MEISの不具合によって引き起こされる大規模通信障害の事だ。その被害があまりに甚大であるため、次第に災害の名で呼ばれるようになった。電脳ニューロンによってヒトとモノが強固に結びつくようになった現代だからこそ発生するようになった、新たな社会問題だ。
もっとも、MEIS災害は世界でもまだ数例しか確認されていないが。
MEIS災害には、電脳識海の環境が大きく関係していると言われる。識海汚染はその引き金の一つだ。比呂の問いにアネモネは頷いた。
「その通りさ。識海汚染が起きればMEISを介して君にも深刻な影響が及ぶ。だから一刻も早くこの場を離れた方がいい」
「で……でも、桜庭さんは? どうなるの!?」
「最善は尽くすが……《アビズマル・ダイブ》がかなり進行している。彼女の意識は識海の奥深くに沈んでしまっているんだ。境界融合を修復することができたとしても、識海の奥深くに沈んだ彼女の意識は、もう表層(こちら側)へ戻らないかもしれない」
アネモネはそう答えると、表情を曇らせた。要するにこのままでは、桜庭芽衣の意識は顕在化することなく、永遠に非表示層に沈んだまま――つまり「眠り」続けるということなのではないか。ダンゴムシ型の《アンノウン》を一掃したアネモネですら、もはやそれを助け出すことはできないということか。
「そんな……そんなの駄目だ!!」
比呂は桜庭芽衣について、ほとんど何も知らない。知っているのは二つだけ、彼女が比呂を拒絶したこと、そして他の誰とも関わろうとしていないことだ。けれどそんな芽衣とて、このまま眠り続けることを望んでいるとは思えない。
彼女だって、本当は心から孤独を求めているわけではないはずだ。それどころか、本心では新しい学校生活を楽しみたいと思っているはず。ただ、何らかの理由でそれができなくなってしまっているだけなのだ。
だって、かつての比呂がそうだったから。
比呂にも孤独で苦しんだ過去がある。だからこそ、芽衣を一人にしてはいけないと思う。たとえ拒絶が待っていたとしても、どうしても放っておけないのだ。
比呂の頭の中で何かが弾けた。それはどんどん膨張を始め、MEISを、そして比呂の意識をも呑み込んでいく。
全てがまっさらな無と化す中、意識の深層、そのさらに奥底からそれは甦った。
比呂がそれまで無意識のうちに封じ込め、忘れかけていた記憶の欠片。
気付けば比呂は、桜庭芽衣の枕元に駆け寄り、彼女の額に自分の額をぴたりと密着させていた。
「桜庭さん、そっちへ行っちゃだめだ! 戻って来い……戻って来い!!」
何故、自分がそんな行動を取ったのかは分からない。ただ、そうすれば桜庭芽衣を助け出すことができると比呂は知っていた。アネモネは叫ぶ。
「比呂、やめるんだ! 君の意識まで、深海層に引き摺り込まれてしまうぞ!!」
しかし、比呂は桜庭芽衣から離れなかった。ただ一心に念じる。戻って来い……戻って来い、お願いだからもう一度だけでも話そう、と。
やがて、芽衣の体に変化が現れた。彼女の瞼がピクピクと動き、うっすらとその目を開いたのだ。




