第28話 羽化
「……!!」
突然のことに、比呂たちは凍り付いた。これは間違いなく、何か尋常ならざる事態が起こりつつある。
最初に口を開いたのは、部長の柚だった。
「この煤の量、異常だよ! ひょっとすると、桜庭さんは既に《アンノウン》から深刻な悪影響を受けているんじゃないかな!? それも、幼生じゃなくて、成虫に!!」
《アンノウン》は、幼生の段階ではそれほど重大な被害を及ぼすことはない。しかしその幼生が成虫に成長すると、MEISを通して周囲の環境や人々に大きな悪影響をもたらすようになる。
「確かに比呂の話じゃ、昨日の段階でかなり黒煤に汚染されてたって話だからな。あり得ねえ話じゃねーぞ。……突破しちまうか?」
大介はバキバキと指の関節を慣らす。しかし湊は首を横に振った。
「いや、物証や状況証拠が不完全なのに、さすがに強引な手は使えないよ。桜庭さんがどういう状態にあるのか、救助が必要なほど深刻なのか、まずはそれを調べてからでないと」
「しかしよ、扉は開かねえ上に鍵もかかってるんだ。どうやって中の様子を確認するんだよ?」
大介はドアノブに手をかけたが、扉はびくともしなかった。ただでさえ最新の高度なセキュリティシステムが施されているのだ、そう簡単に開くわけがない。
桜庭芽衣は無事なのか。比呂の中で俄かに不安が広がっていく。それが何よりも重要な情報なのに、現状では確認する術がない。
何か良い方法はないだろうか。そう考えた比呂は、ふとあることを思いつく。
「白羽、黒羽。ベランダの方へ回って窓から中の様子を探ることはできないか?」
「仕方ないナ」
「行ってきてやろウ!」
そう言うと、白羽と黒羽は揃って飛び立っていった。比呂は同時にMEISの映像アプリを起動させる。比呂の目の前に、四角型の大きなウインドウが浮かび上がった。
「白羽と黒羽のビジョンを共有しますね」
「おう」
「ありがと、比呂くん!」
やがて白羽と黒羽の視点によって撮影された映像が、比呂の浮かべたウインドウに映し出された。柚や大介、湊もそれを覗き込む。
白羽と黒羽の二羽はマンションを回り込み、ベランダに面した窓から芽衣の部屋を覗いた。
そこに映し出されたのは、室内のリビングに倒れた芽衣の姿だった。仰向けに横たわっていて、瞼を閉じている。
どう見ても意識はない。しかも体の八割が黒煤に覆われていた。
真っ黒になっているのは桜庭芽衣だけではない。部屋の大部分も黒い煤でびっしり埋め尽くされている。まるで、桜庭芽衣の部屋だけが闇に呑み込まれたかのようだ。
「桜庭さん!」
あまりに異様な光景に、比呂は思わず声を上げた。大介も驚愕し、口調を荒くする。
「こいつは……幼生にしちゃえらく量が多いな。すぐに合体して成体になるぞ! これほど量が多けりゃ、宿主のMEISにもかなりの負荷がかかっているはずだ。微熱なんてどころじゃねえくらいにな!」
「でも、どうして……ヘルス管理システムのバイタルデータは、ほとんどが正常値だと聞いていたのに!」
目の前の映像が信じられないらしく、湊も声に狼狽を滲ませる。確かに、桜庭芽衣が倒れている状況や位置からすると、彼女の体に大きな異変があったのは明らかだ。しかしそれなら、何故、内藤先生はそれを知らなかったのだろう。
すると柚が、はっとして声を上げる。
「多分、逆だよ! 《アンノウン》のせいでシステム環境が歪められているから、バイタル測定値が異常なのに正常と表示されてしまっていたんだよ!!」
比呂はぞっとした。このままもし、みながバイタルデータを信じ込んでいたら、誰も倒れた桜庭芽衣を発見できなかったかもしれない。たまたま比呂たちが見舞いに訪れたから良かったものの、そうでなければ何日にもわたって誰も彼女の異常に気付かなかった可能性もある。
そして現段階で、既に彼女は危機的状況であるように思われた。
「このままだと桜庭さん、どうなってしまうんですか!?」
尋ねると、湊は厳しい表情をして答える。
「大介も言っていたけど、あれほどの大きさの《アンノウン》だ。桜庭さんのMEISにはおそらくかなりの負荷がかかってる。問題はその負荷が脳全体に伝播することだ。脳は生命活動の制御を担っている。だから下手をすると、命にも関わるかも……!!」
事態は思った以上に深刻だ。比呂は息を呑んだ。
「どうする、柚? まずは救急車か!」
大介は部長である柚の判断を仰いだ。彼女がネオ研の司令塔だからだろう。ところが、先にMEIS通信を介して救急に問い合わせをしていた湊が、声を張り上げる。
「いや……既に通信障害が発生し始めている。うまく繋がらない!」
「僕、走って人を呼んできましょうか!?」
このマンションの各部屋の玄関に設置されているセキュリティは、比呂の部屋と同じでおそらく生体認証システムだ。今の社会ではそれが当たり前となっている。つまりこのドアを開けられるのは、部屋の主である桜庭芽衣か、システム管理を行っているセキュリティ会社のどちらかだけということだ。
管理人室に走っていって異常を伝え、セキュリティ会社に連絡を取ってもらったら。比呂はそう考えたのだった。
ところが、柚は桜庭芽衣の扉を睨みつけ、小さく首を振った。
「ううん……それじゃ間に合わないかもしれない! 強行突破しよう!!」
「強行突破……?」
「このマンションのセキュリティシステムに直接、侵入して開錠するの!」
まさか……そんな事ができるのか。比呂は息を呑んだ。確かに柚はアクセス権5だが、それにしたって最新のセキュリティシステムをそうやすやすと突破できるものなのか。
驚く比呂だったが、その隣に立つ湊は眉根を寄せた。
「でも柚、セキュリティシステムのハッキングは……!」
一方の大介は、XRヘッドマウントディスプレイやグローブ型インターフェースを取り出して装着し始めた。彼の指には、サイバーウエポンを使用可能にする指輪型端末の《プレロマ》も嵌められている。
「こうなったら、腹ァ括るしかねえ! 比呂、用意しとけよ!」
間違いない。彼は《アンノウン》と戦うつもりなのだ。柚が扉の鍵を解錠すること前提で、桜庭芽衣の部屋に乗り込む作戦なのだろう。
「は……はい!」
比呂も慌てて大介に倣い、グローブ型インターフェースを手に嵌めた。因みに、《プレロマ》は部活動に入ってからずっと装着している。
(でも確か、ハッキングって犯罪なんじゃなかったっけ……? 時と場合によっては、警察に逮捕されることもあるはずだ。それに新世界市に導入されるシステムは最新のものが多いから、普通のマンションのセキュリティシステムといえども、侵入するのは容易ではないんじゃ……)
比呂は思わず柚へ視線を向けた。その柚はじっと扉を睨みつけている。おそらく、MEISを介してセキュリティシステムにアクセスしているのだ。
鍵が開くまでどれくらいかかるのだろうか。それまで、桜庭芽衣の体力はもつのか。
しかしそう思った直後、玄関の鍵がガチャリと音を立てて開いた。
「開いた!」
嬉しそうに声を上げる柚。
「え、早っ!!」
比呂は、ただただ目を瞠るばかりだ。
(民間企業のセキュリティとはいえ、いくら何でも早すぎる……!!)
二、三度、瞬きをするだけの間だった。たったそれだけの時間で、柚は最新のセキュリティシステムをいとも簡単に突破してしまったのだ。
これがアクセス権5の実力なのか。もはや人の為し得る業ではない。柚と比呂では、同じMEISを搭載していても、別の種族ほどの違いがあるのだ。
あまりにも驚異的な能力を見せつけられ、比呂は言葉もなかった。けれど、大介や湊にとってそれは見慣れた光景であるらしく、二人は既に次の行動へ移っている。
「扉を開けるぞ」
大介が先陣を切ってドアノブを握る。そして、柚や湊、比呂の方へ視線を送った。柚と湊は頷きを返す。いつでも準備はできている、と。比呂もごくりと喉を鳴らす。
「三、二、一!」
カウントダウンと共に、大介は勢いよく扉を開け放つ。すると、黒煤が雪崩を打ったようにどっと部屋の外へ溢れ出してきた。
今まで見たこともないような、大量の《アンノウン》による大津波。それに容赦なく体を晒され、即座に比呂たちの身体に異変が現れた。
「ウッ……これは、さすがにちょっと……!」
「き、気分悪……!!」
最初に異常を感じ取ったのは湊だったが、比呂もすぐに不調に見舞われた。頭が熱っぽくて、ひどい倦怠感がする。高熱を出した時のような症状だ。
(何だ……!? 頭がグラグラして吐き気もする……これは眩暈……!? 耳鳴りもする……! あまりにも膨大なデータ量に晒されて、MEISがショートしているんだ……!!)
アクセス権が低い大介は、比呂や湊ほど直接的な影響を受けてないようだ。しかし、彼もまたひどく顔をしかめていた。見ると、大介が頭部に嵌めている半透明XRヘッドマウントディスプレイの表面に、多数のノイズが走っている。
「駄目だ、インターフェースが高負荷に耐えられねえ!」
アクセス権が1の大介は、XRヘッドマウントディスプレイの補助が無いと画像の処理ができないのだという。《アンノウン》の姿を見ることはできるが、自身のMEISのみでは映像がぼやけてしまうのだ。近視の人に眼鏡が必要なものなのだろう。つまり、XRヘッドマウントディスプレイがうまく作動しないと、《アンノウン》の姿をはっきり捉えることができないのだ。
湊と比呂はMEISに、大介は目や手足となるインターフェースに凄まじい高負荷がかかって、すっかり身動きが取れなくなってしまった。
ところがそんな中、柚一人がまるで何事も無いかのように部屋の中へ飛び込んでいく。
「桜庭さん!!」
部屋の中にはまだ黒煤――《アンノウン》の幼生が残っている。けれど、そのほとんどが外部へ放出されてしまったからか、少しだけ視界が晴れた。
LDKの居間の中心に、ルームウエア姿の桜庭芽衣が仰向けになって倒れている。だが、彼女の胴体部分には、黒い大きな塊がのし掛かるようにしてへばりついていた。かなりの大きさで、分厚い布団を三枚重ねて被っているほどはある。昆虫の姿はしていないが、色や質感を考えると、あれもまた《アンノウン》の一種だろう。
大介と湊、比呂も少し遅れて部屋に入った。黒煤が拡散され、MEISへの負荷が軽くなり、動けるようになったのだ。大介は、横たわった芽衣の胴体にへばりついている《アンノウン》を一目見るなり叫んだ。
「あれは……蛹か!」
「ピューパ……って何ですか?」
初めて耳にする単語に比呂が首を捻ると、柚がすぐに教えてくれる。
「《アンノウン》は幼生から成体になる過程で、蛹の段階を挟むものがいるの。蛹になる《アンノウン》はそうでないものと比べて、強力で脅威度の高いものが多いんだよ」
「つまり、より強力な敵が出現しようとしているってことだね」
湊がそう説明を付け加えた。彼の表情はひどく強張っており、これが良くない事態だという事は比呂にもすぐに伝わった。
「どうやって対処するんですか?」
成虫――つまり更なる脅威へと《アンノウン》が変貌してしまう前に、蛹を退治することはできないのか。不安を隠せずさらに尋ねると、湊は顔を曇らせる。
「残念だけど、蛹も幼生と同じで、こちらから――つまり《表層》から干渉することはできないんだ」
「そんな……だったらどうすれば……!」
「焦らずとも、この様子じゃすぐに羽化するぜ」
大介の言う通り、芽衣にへばりついていた塊の背が縦にぱっくりと裂けた。その中からさらに黒い何かが膨れ上がる。
それは外界にその身を露出させると、徐々に羽を広げ始めた。《アンノウン》の蛹が羽化し、成虫になろうとしているのだ。
それも、ただの成虫ではない。先日のカマキリ型よりもずっと強力で恐ろしい《アンノウン》が誕生しようとしている。
「……そらきた! 羽化したところを速攻で叩くぞ!」
大介、柚、湊は指輪型端末・《プレロマ》を操作して、《電脳物質》で構成された武器――サイバーウエポンを起動させた。大介は大剣、柚は魔導書、湊は弓をそれぞれ構える。
比呂も続いて片手剣を浮かび上がらせ、それを手に取った。全身に緊張が走り、片手剣を握る手に汗が滲む。
息を詰めてネオ研の面々が見守る中、蛹から出現した《アンノウン》はその翅を目一杯に広げると、一匹の蛾の姿となった。
蛹の段階から大きい予感はしていたけれど、実際の全長は想像を絶するほどだった。四枚の翅が部屋いっぱいに広がり、その大きさは床から天井、或いは壁の端から端まで達している。横幅がある分、先日遭遇したカマキリ型の《アンノウン》よりもさらに大きく感じられた。
想定外の巨大さに、ネオ研の面々も驚きの声を上げた。
「これは……今まで遭遇してきた《アンノウン》の中でも最大と言っていい規模だ!」
柚が叫ぶと、大介も大剣を握る手に力を込める。
「羽化から時間が経って飛び回られたら迷惑だな、今のうちに仕留めちまおうぜ!」
「そうだね。桜庭さんの具合も心配だ。早く終わらせた方がいい。……行くよ!」
湊の言う通り、《アンノウン》が比呂たちの前に立ちはだかっている限り、桜庭芽衣には近づくことすらできない。芽衣は今もぐったりとして横たわったまま、目を開く気配もない。
湊はさっそくサイバーウエポンの弓に矢をつがえ、それを躊躇なく《アンノウン》に向けて放った。《アンノウン》は蛹から羽化し成体になったばかりであるせいか、動きが鈍い。おかげで今はまだ、ぎりぎりどうにか部屋の中に留まっている。
湊や大介の言う通り、仕留めるなら今しかない。
しかし湊の放った矢が《アンノウン》に届くことはなかった。蛾の翅に入っている筋のような模様――翅脈に沿って赤い光が点滅したかと思うと、《アンノウン》の周囲に防壁のようなものが展開されたからだ。その防壁は、真っ白く光る粒子で構成されている。
「く……光子フィールドか!」
「……!! 厄介だね……!」
それを目にした湊と柚の表情は、一層、厳しさを増す。
「だったら、こっちの攻撃はどうだ!?」
大介は大剣を頭上で豪快に一回転させ、それを羽化したばかりの《アンノウン》に向かって振り下ろした。だが、《電脳物質》の大剣が蛾の姿をした《アンノウン》に当たるその直前、やはり例の半円形の防壁が現れて攻撃を防いでしまう。ガキンと、金属どうしのぶつかるような硬質な音が響き渡った。
「ちくしょう、くっそ硬ぇ!!」
大剣が防壁に弾かれたその反動で、大介は大きく後方に仰け反る。
(やっぱり効かない……!?)
大介の大剣ですら、《アンノウン》に掠りもしないのだ。比呂の片手剣がダメージを与えられるとはとても思えない。ひょっとすると、この《アンノウン》にはサイバーウエポンの攻撃が効かないのだろうか。
最後に柚が魔導書を使って魔法陣を浮かび上がらせ、複数の魔法弾を発射した。
「みんな、下がって! 《スターダスト》!!」
《スターダスト》は柚が使うことのできる魔法の中でも最も威力が低い。建物内であることを考え、周囲の環境へ被害を及ぼさない攻撃手段を選択したのだろう。
しかしその攻撃力の弱さゆえか、《スターダスト》もまた《アンノウン》の張り巡らせた防壁によって軽々と弾かれてしまう。柚は悔しそうに唇を噛んだ。
「あの光子フィールド、ホントに厄介だね。こっちの攻撃をほとんど防いでしまう……!」
蛾の《アンノウン》はそれがどうしたとばかりに悠々と羽ばたきをする。そのたびに通信環境に負荷がかかり、室内の空間にノイズが走る。
異変はそれだけにとどまらない。電灯や家電に電撃が走ったかと思うと、次の瞬間には小さく爆発し煙を上げた。
「うわ……!」
さらに、ずしりと圧しかかるような感覚が比呂を襲う。頭が重たくてたまらない。家電すらも故障するくらいなのだから、MEISも当然、影響を受けているのだろう。B‐IT社会では、家電やインフラも全てが電脳ニューロンによって形成されたネットワークに繋がっているからだ。
MEISにかかる負荷が重すぎて、ネット通信はもちろん、新たにアプリを起動させたりすることもできないし、体全体も重々しくひどい倦怠感を感じる。大量の黒煤を浴びた時と同じで、全く身動きが取れない。
それだけ、この蛾の姿をした巨大な《アンノウン》が膨大なデータ量を有しており、MEIS環境に大きな影響を及ぼしているという事なのだろう。
被害を受けているのは比呂だけではなかった。大介や湊もみな動作が鈍い。
「だああ! デバイスの処理速度が遅え!!」
「大介はまだいいよ。こっちはMEISに直接、ダメージ来るからキツいのなんのって……!」
大介は手動でXRヘッドマウントディスプレイを操作しようとするが、うまくいっていないようだ。湊もかなりのダメージを負っているらしく、部屋の壁に手を突き、頭を抑えている。
「ぼ、僕は吐きそうなくらい気分悪……うう……!!」
比呂もまた、立っているのがやっとだった。そんな中、アクセス権5の柚だけがただ一人、平然としている。柚のMEISはこれだけ莫大なデータ量も、難なく処理することができるのだ。




