第16話 追憶③
「お、お母さん! お母さんは!?」
比呂が身を乗り出すと、インフィニティは静かに首を振る。
「君の『お母さん』はもういない。還ったんだ。あるべき場所に、ね」
「……。お母さんにはもう会えないの?」
「比呂……。正確には、君のお母さんは最初からここにはいなかったんだよ。……君にとっては辛いことだろうけれどね」
比呂は部屋を見回す。やはり、杏奈の姿はどこにも無い。
彼女の体を覆っていた黒い煤も、今はもう影も形も無かった。杏奈が帰宅したことなど無かったかのように、部屋は静まり返っている。
自分が気を失っていた間に何があったかは分からない。ただ、母の杏奈がいなくなってしまったことだけは事実のようだった。
もう、どうしていいのか分からない。疲れ果て、途方に暮れて、比呂はとうとう、くしゃっと顔を歪めた。そして肩を震わせ、嗚咽を漏らす。知らない人の前で泣きじゃくるなんて、良くない事だと分かっていたけれど、それでも涙を堪えることができなかった。
もう、お母さんはどこにもいない。この世界の、どこにも。
インフィニティとヴォイドは黙ってそれを見守った。ヴォイドは比呂には聞こえないようミュートにし、特殊通信でインフィニティに尋ねる。
『インフィニティ、この子どもをどうするつもりだ?』
『在るべき場所へ戻すさ。……約束の通りにね』
迷いのない、はっきりとした答えだった。ヴォイドは思わずインフィニティへ視線を送る。
『正気か!? この子どもはあの男が考えているような単純な存在じゃない! それよりもずっと……!』
『ああ、分かっているよ。だがそれでも、だ。僕はこの子に興味がある。僕が探し続けてきたものの答えを彼は教えてくれるかもしれない』
『馬鹿な、そんなことのために!』
『僕にとっては何よりも大切なことだよ。僕が僕であるために、そして君たちが君たちであり続けるために何より必要なことだ。そしてそれがきっと、この子自身のためにもなる。……どのみち、この子を『観測』し続ける必要はあるだろう?』
『……』
インフィニティの主張にも一理ある。ヴォイドはそれを理解していたため、それ以上、反対の言葉は口にしなかった。
もっとも、彼が心から納得したわけではないのは、その表情からも明らかだった。《深淵》の住人である彼にとってすら、比呂はあまりにも異質な存在だったのだ。
だが、インフィニティはヴォイドと違い、比呂に興味を抱いているようだった。比呂の頭にそっと触れ、優しく囁きかける。
「さあ、比呂。いつまでも泣いていてはいけないよ。君もまたあるべき場所へ戻らなければならないんだ。君の帰りを待っている人たちがいるのだから」
細く華奢で柔らかい指が比呂の頭部に触れた。そして比呂の髪の毛をゆっくり撫でる。その慈しむような優しい仕草から、彼女が比呂を励まそうとしているのが伝わってきて、少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
比呂は瞳に大粒の涙を溜めつつもようやく顔を上げた。
そしてはっと息を呑む。
比呂の目の前にインフィニティとヴォイドが立っており、その更に向こうに例の姿見がある。
だが鏡には比呂の姿しか映っていない。インフィニティとヴォイドの姿はすっぱりと切り取られたみたいに、消失していた。
まるで、二人ともそこには存在し無いかのように。
(ああ、この人たちも『お母さん』と一緒なんだ……)
インフィニティやヴォイドに対して、不思議と怖いという感情は抱かなかった。ただ、彼らが自分とは違う存在なのだという事だけは、はっきりと分かった。
インフィニティは比呂の考えを見透かしたかのように微笑む。
「さあ、行こう。この家で経験したことは全て忘れて、人としてあるべき生活へ戻るといい。それが君に大きな祝福をもたらしてくれる。みなが幸せになれるんだよ」
「い、嫌だ! お母さんのことは忘れない……何があっても忘れるもんか!!」
比呂は激しく頭を振り、再びポロポロと涙を零す。母は確かに比呂の元へ持ってきたのだ。その存在が消えてしまったとしても、記憶までは消すことはできない。何人たりとも、消させはしない。
その激情に反応したのだろうか。再び比呂の額を中心として円盤状の歪みが発生する。それに気づいたインフィニティとヴォイドは、目を見開いた。
「……インフィニティ!」
危機感を募らせるヴォイドとは対照的に、インフィニティの瞳は比呂に対する好奇心で満ちていた。
「ふむ……比呂、君はいま何を考え何を感じている? どんな気持ちだい?」
「寂しい……とても寂しい。お母さんに会いたいよ……!」
「そうか……ヒトの感情、親子の情というものは時に僕たちが想像している以上に大きなエネルギーとなるのだね。実に興味深い現象だ。これが『愛』というものなのかな?」
インフィニティは何やら目を輝かせている。その反応にたまりかねたらしく、ヴォイドは声を荒げた。
「……そんな呑気なことを言っている場合か!?」
「仕方がないだろう。どのみち、僕も君も彼に干渉することのできる権限には限りがある」
インフィニティの言葉を受け、ヴォイドはもどかしげに眉根を寄せる。彼にとって、比呂はよほど厄介な存在なのだろう。忌々しげに比呂を一瞥すると、そのまま目に入れるのも嫌だという風に顔を背けた。
そのあまりにも露わな嫌悪に、比呂はびくりと肩を竦めてしまう。
一方のインフィニティは、ふとキッチンカウンターの方へ視線を向けた。その青にも紫にも見える不思議な輝きを宿した瞳が、アネモネの花を捕らえる。
「……あの花は?」
「えっと……アネモネっていうんだ。お母さんが大事に育てた、本物だよ」
「アネモネ……なるほど」
そしてインフィニティ右手を宙にかざした。そこに真っ白な光の粒子が浮かび上がり、真ん中に密集して弾けると、次の瞬間にはカウンターの上にあるアネモネそっくりの花が出現していた。インフィニティは宙に浮かんだその花にそっと触れる。
「アネモネの花は色によって異なる花言葉を持つ。白いアネモネの花言葉は『真実』、『期待』。紫のアネモネの花言葉は『あなたを信じて待つ』。そして……赤のアネモネの花言葉は『君を愛す』」
「……。君を……愛す……」
「これを君に渡しておこう」
インフィニティが差し出したアネモネは真っ赤な色をしていた。比呂は少し迷ったけれど、インフィニティの作り出したそのアネモネの花を受け取った。
本物の生花ではなく、電脳空間上で再現した《電脳物質》だ。だが、見かけが精巧であるのはもちろん、手触りや香りもあり本物と寸分違わない。
もっとも実際には、比呂の脳に張り巡らされた電脳ニューロンが情報として認識しているだけで、現実にはそこに存在しているわけではないのだが。
これを瞬時に再現(コピー&アウトプット)してしまった彼女は、やはりただ者ではない。
インフィニティは膝を折り、比呂と同じ目線になって続けた。
「もし君が耐えがたい孤独を感じることがあったら、これを使って僕を呼ぶといい。僕が君の寂しさを癒す事ができるかどうかは分からないけれど、話を聞くことくらいならできる」
「……本当?」
「ああ、本当さ。僕は君をひとりぼっちにはしない。約束するよ」
比呂はインフィニティをじっと見つめる。彼女は、嘘は言っていないようだった。
「あなたの名前は?」
「僕には固有の名前はない。けれど、みなからインフィニティと呼ばれている」
「い……いんふぃ……?」
どういう意味だろう。小学生の比呂には、外国の言葉はよく分からない。首を傾げると、インフィニティは声を上げて笑った。アネモネの花がほころんだかのような、凛として華やかな笑顔だった。
「ははは、君にはまだ言葉が難しいかもしれないね。だったら、君の好きな名前で僕を呼んでくれればいい」
「本当に? 何でもいいの?」
「ああ」
「ええと……それじゃあ、アネモネ。アネモネの花の精みたいだから、アネモネ!」
彼女は、嬉しそうに微笑んだ。
「ふふ、素敵な名前をありがとう。それなら、僕の名は今日からアネモネだ」
彼女がそう口にした瞬間、比呂の手の中にある真っ赤なアネモネの花は光の粒子に戻り、粉々に砕け散った。
同時に、比呂の意識は再びふつりと途切れる。そして、深い深い闇の底へと引きずり込まれるようにして眠りに落ちた。
そうしてどれほど眠り続けただろうか。次に目を醒ました時、比呂は病院のベッドの上に横たわっていた。うっすらと瞼を開くと、真っ白い天井が視界に浮かび上がる。
「……ここは?」
その視界の中に、今度は祖母が覗き込む顔が飛び込んできた。
「比呂! 比呂、大丈夫? おばあちゃんのこと分かる? どこか具合の悪いところはない? あなた! 比呂が目覚めたわよ、看護師さんを呼んできて!」
どうやら比呂はずっと意識がなく、眠り続けていたらしい。その間、病室で比呂を看病してくれていたのは比呂の母方の祖父母だ。祖父母は、他界した母・香月杏奈の代わりに比呂と詩織を引き取り、育ててくれた。この時も祖母は安堵のあまり涙を浮かべながら、比呂の頬を優しく撫でてくれた。
「ああ……無事でよかった! 杏奈の葬式でバタバタしていて、気づいたら比呂がいつの間にかいなくなっていて……みなで探し回ったのよ! 本当に……二週間もどこへ行っていたの?」
「おうち……」
「……え?」
「ずっと家にいたよ。お父さんとお母さんと、詩織と僕……みんなが住んでいたあの家にずっといたんだ。お母さんとハンバーグを食べたよ」
覚束ない口調ながらもそう答えると、祖母は何とも言えない表情をする。困惑と同情が入り混じった、とても悲しそうな瞳。
「まあ……きっと、記憶が混乱してしまっているのね。夢を見ていたのよ。待っていて、おばあちゃん、すぐそこの自販機でお茶を買ってくるから」
そして祖母は財布を手にし、慌ただしく病室を出て行った。病室の中には、ベッドに横たわる比呂のみが残された。
「あれは……ぜんぶ夢……?」
そんなはずはない。そう思う一方で、夢だったのかもしれないとも思う。改めて思い出してみると、比呂の体験にはそれほどまでに現実感が無かった。
死んだにもかかわらず、家に戻ってきた母。誰もいない、静かすぎる住宅街。そして、いつまでも夜のこない、永遠に赤い世界。
(全部、夢……家に戻ってきたお母さんも、あの黒い服を着た女の人と男の人も……?)
その時、視界の隅でメール着信を告げるアイコンがチカチカしているのに気づいた。網膜ディスプレイ上に表示されていたのだが、寝起きでぼんやりしていたので、しばらく気づかなかったのだ。
比呂は倦怠感の残る人差し指で、空中に浮かんだそのアイコンをクリックする。すると一通のメールが目の前に表示された。
送信者の名はない。メールアドレスや件名も全て不明で、誰から何の目的で送られてきたのか何一つ分からない。
ただ、そのメールにはある一文が添えてあった。
――忘れないで。赤いアネモネの花言葉は『君を愛す』。
比呂は目を見開いた。よく見るとメールにはファイルが添付されている。それを開くと、宙に赤いアネモネの花を象った《電脳物質》が浮かび上がる。
「これ……!」
比呂がアネモネの花に触れると、《電脳物質》は光の粒となっていちど飛び散り、二つに分かれて再びそれぞれ集束する。
やがてそれは、二羽の小鳥の姿を形作った。形も大きさも全く同じだが、片方は真っ白の色をしていて瞳が赤い。もう片方は瞳も羽も真っ黒だった。
現実には存在しない、電脳空間上のみに存在する情報生命体――電脳ペットだ。
小鳥たちは比呂の周囲を元気よく飛び回る。
「わあ……!」
暗く沈んでいた比呂の顔がようやく笑顔になる。間違いない。この小鳥たちは……電脳ペットたちは彼女がプレゼントしてくれたのだ。比呂をひとりぼっちにしないという、あの時の約束を守るために。
比呂はその白と黒の小鳥に、白羽と黒羽という名前を付けた。あれから随分と大きくなったが、白羽と黒羽は今でも比呂と一緒にいる。
そしてもう一つ。あの不思議な体験をしてからずっと、比呂の中に残り続けているものがあった。
それは、真っ黒になって身動きが取れなくなった杏奈と、比呂が最後に交わした言葉だ。
『大丈夫だよ、お母さんのことは必ず僕が守るから』
『比呂……こんなことになって、ごめんね。お母さんはずっとここにいるからね』
『うん。僕、絶対に戻って来るよ、何があっても絶対にここへ戻って来る。だから待ってて』
『分かった。……待ってる。いつまでも待ってる』
それは誓いのように、或いは呪いのように、今も比呂を縛り続けている。




