第15話 追憶②
何があったのか、どんな理由があるのか。
どうして杏奈の腕は真っ黒になってしまったのか。比呂には何も分からない。
でも、お母さんはお母さんだ。お母さんを悲しませたくない。お母さんには、笑顔でいて欲しい。
比呂は顔をくしゃっと歪めると、椅子を降りて杏奈の元へ行き、小さなその手で抱き締めた。
「分かったよ、お母さん。お母さんの言う通りにする。お母さんが行きたいというなら……僕、どこへだって一緒に行くよ。何も怖くない。これからは僕がお母さんを守るんだ……!!」
杏奈は目を見開き、そして涙を浮かべた。
「……ありがとう、比呂。比呂は本当にいい子だね。お母さん、比呂のこと愛してるよ……!!」
「僕もお母さんが好き。この世で一番、大好き!」
スカーレットのインクを垂らしたような赤に全てが染められる中、比呂と杏奈は抱きしめ合った。
静かな赤い世界。比呂と杏奈の二人きり。けれど、それでも構わないと思えた。この瞬間が永遠に続けばいいのに。
ところがその時、突然、玄関のチャイムの音が鳴り響く。
誰かが家にやって来たのだろうか。驚く比呂だったが、杏奈の驚きようはそれとは比べ物にならなかった。びくりと体を震わせ、顔面を蒼白にして恐れ慄いている。
「あ……ああ……! 来た、彼らが……! 見つかってしまった……!!」
「お母さん? どうしたの!?」
「彼らが……深淵の追跡者が……!! 私は連れて行かれる……記憶も感情も、比呂のことすら思い出せない世界の深層部へ……!! いやよ! 比呂と離れるなんて、絶対に嫌よ!!」
杏奈は激しく狼狽する。髪を振り乱し声も震えていて、尋常な怯え方ではなかった。それと同時に、杏奈の体の下の方も腕のように、徐々に煤のような黒い粒子に侵食されていく。奇妙なほど光を反射しない、暗黒色。杏奈の体がどんどん黒に蝕まれていくのを目にし、比呂も真っ青になった。
「お母さん、お母さん!!」
しかしその間もインターフォンの音は容赦なく鳴り響く。まるで、比呂と杏奈を責め立てているかのようだ。
(よく分からないけど……誰かがこの家に入ろうとしているんだ。そしてその誰かは、きっとお母さんを連れて行ってしまう……そんな事させるもんか!)
訪問者を追い返してしまおう。比呂はそう思いついた。ここは比呂たち家族の家なのだから、部外者は追い払ったって構わないはずだ。
「お母さん、ここで待ってて! お客さんには僕が断って帰ってもらうから。『この家には誰も入れません』って!」
そして比呂は玄関に向かって駆け出した。杏奈はそれを追いかけようとするものの、半身を黒煤に覆われてしまっているためか、動けなくなってしまったらしい。床にへたり込み、それでも比呂に向かって手を伸ばす。
「待って、私の比呂……行ってはだめ。そばにいて……!!」
しかし比呂の決意は変わらなかった。一度だけ杏奈のところまで戻って来ると、その顔を両手でそっと包み込む。
「大丈夫だよ、お母さんのことは必ず僕が守るから」
杏奈は苦しそうに表情を歪めた。
「比呂……こんなことになって、ごめんね。お母さんはずっとここにいるからね」
「うん。僕、絶対に戻って来るよ、何があっても絶対にここへ戻って来る。だから待ってて」
「分かった。……待ってる。いつまでも待ってる」
涙を浮かべつつ、微笑む杏奈。それが彼女の最後の言葉だった。
比呂は杏奈の元を離れ、今度こそ玄関へ向かう。一体、誰が来たのだろうと内心でびくびくしながら。
しかしそこには誰もいなかった。大きく開かれた玄関扉の向こうには鮮烈な夕日の赤に染まった静かな住宅街が広がっているばかりだ。通りには人影もなく、不気味なほど静まり返っている。
(変だな……確かにインターフォンの音が鳴ったはずなんだけど)
インターフォンは手で押さなくても人感センサーで反応するようになっている。誰もいない状態で勝手に鳴るはずなどない。しかも、あれほど何度も執拗に。
不審に思った比呂は、家の前に横たわる道路に出てみることにする。周囲に広がるのは閑静な住宅街だ。比呂の家と同じような家が立ち並んでおり、街全体が幻想的なまでの落陽の赤に染まっている。
通りはやはり、奇妙なほど静かだった。おまけに近隣住民は人っ子一人いない。この時間帯であれば、いつも下校中の学生や、犬の散歩をしたりランニングしたりする人々の姿が絶えないのに。こんなに人けが無いのは、何かおかしい。
家を出て右手を見、左手を見たその時。
つい先ほどまで確かに誰もいなかったはずの場所に、忽然と二人の男女が立っていた。
一人は十代後半ほどの少女だ。コートやスカート、ブーツに至るまで全てがまっ黒。さらに濡れ羽色をした髪が風にたなびいている。しかし肌は透けるように白く、首元には深紅のチョーカーをしていた。
もう一人はすらりと背の高い三十歳くらいの男性だった。隣に立つ少女と同じで、黒いスーツに黒いシャツ、その中でネクタイだけが白い。彫りの深い顔立ちで、癖のある淡い金髪に色素の薄い水色の瞳をしている。無表情であるせいか。比呂は彼に対し、どことなく人形じみているという印象を受けた。
二人の男女はどちらも比呂の全く知らない顔だった。この人たちは何者なのだろう。比呂は恐るおそる尋ねる。
「あの……どちら様ですか?」
すると、黒髪をした少女が微笑んだ。全てを見透かしたような、とても神秘的だけれど少し怖くも感じる眼差しをして。
「こんにちは。君は香月比呂くん、だね?」
「はい、そうですけど……」
どうして彼女は比呂のことを知っているのだろう。戸惑いつつも頷くと、少女は嬉しげに隣の男性へ声をかける。
「なるほど。確かに『彼』の面影がある。そうは思わないか、虚無?」
「どうかな……? 俺にはよく分からな」
一方の男性は、どこか投げやりにそう答えた。比呂のことなど、心底どうでも良さそうだ。少女は呆れた表情をする。
「やれやれ、君はクリア・レイヤーの事象に興味が無さすぎる。虚無主義も行き過ぎればただの害悪だよ」
「そんな、俺の存在意義を真っ向から否定するようなことを言われても困るが……とにかく早く用件を片付けよう、インフィニティ」
そう言って、ヴォイドと呼ばれた男性は物憂げに片手で前髪をかき上げた。二人のやり取りを聞き、比呂はますます困惑する。彼らが何の話をしているのか、わけが分からない。
「えっと……僕に何かご用ですか?」
すると少女はどこか悲しげな笑みを浮かべ、比呂を見つめる。
「僕たちはね、君のお母さんを迎えに来たんだ」
比呂は凍り付く。
「え……?」
つまり、杏奈が恐れていたのはこの二人のことなのだ。
「お母さんは家の中かい?」
「ま、待って下さい! 母を迎えに来たって……どういうことですか? 母をどこかへ連れて行くんですか!?」
「残念だが……あれはもう、君のお母さんじゃない。厳密には君のお母さん、香月杏奈の残滓のようなものだ。……本当は君もとっくに知っているんじゃないかな?」
少女の声は淡々として落ち着いている。それが却って比呂の焦燥を駆り立てた。忘れていた何かを思い出しそうで、怖くてたまらない。せっかくお母さんが戻ってきたのに。
とにかくこの平穏を守らなければ。比呂と杏奈だけの、たった二人のこの温かい世界を。比呂は両手を広げ、黒づくめの少女と男性の前に立ち塞がった。
「い、嫌だ! お母さんはお母さんだ! たとえどんな姿になっても……僕のお母さんなんだ!!」
「香月杏奈は死んだ。二週間も前に」
「……!!」
「あれはファントムさ。ここにいてはいけない『存在』なんだ。だから僕たちは彼女をあるべき場所へと還す。表層のずっと奥深くに広がる《深淵》にね」
それからインフィニティと呼ばれた少女は、自らの人差し指を比呂の額に突き付ける。
「な……!?」
比呂は驚きに目を見開いた。
(か、体が……動かない……!)
全身が氷漬けになったかのようだった。呼吸や瞬きは問題なくできるが、手や足は比呂の意思に反して全く動かすことができない。
インフィニティは比呂に一体何をしたのか。最初は分からず混乱したが、やがて一つの推測が浮かんだ。
ひょっとすると、インフィニティは比呂のMEISに干渉したのではないか、と。
この頃、比呂は既に生体素子を移植していた。インフィニティは比呂のMEISに干渉し、脳の運動野における一部権限を奪ってしまったのだ。
けれど、それは本来あり得ないことのはずだった。MEISは電子機器と繋がることはできるが、他人のMEISと直接繋がることはできないからだ。
MEISのやり取りする光情報は必ず特殊な電子中継器を介するようになっていて、そこで変換された生体光子のみが電脳ニューロンによって張り巡らされた生体光伝送路を伝播することができる。
つまり、MEIS上で相手の身体の動きを完全に封じるほどの、ヒト‐ヒト間の直接干渉は技術的に不可能であると言っていい。
また、MEISネットワークには幾重にもセキュリティが施されているため、ウイルスやマルウエアを仕かけられたり、アクセス攻撃を受けることもない。個人のMEISが直接、他者に操作されることがないよう、ありとあらゆる措置が講じられている。
MEISが存在する以前も、洗脳やマインドコントロールは人権侵害になりかねないと忌避されてきた。それと同じで、第三者によるMEISへの直接干渉は、人権上、決してあってはならないと考えられているのだ。
つまり、インフィニティが比呂にしたことは、現段階では到底、技術的に不可能であり、かつ、あってはならない事なのだった。
それはMEISの存在が当たり前となった現代社会では常識となっている。
それなのに、インフィニティはその『常識』を軽々と覆してしまった。彼女は何者なのだろう。そして、何をしようとしているのだろう。
驚愕はすぐに大きな不安となって比呂の心を包み込んでいく。体の自由を奪われたことが、それに余計に拍車をかける。インフィニティは悲しみの表情を浮かべ比呂に告げた。
「君はこの場にいた方がいい。お母さんを……大切な人を失う苦しみを二度も味わうことになってしまうから」
そう言うと、インフィニティはヴォイドと比呂を通りに残し、一人で比呂の家に入っていく。侵入者対策のための防犯セキュリティーは全く作動しない。まるでそんなものは最初から存在し無いかのように、完全に無力化させられているのだ。
そしてインフィニティも承知しているのか、顔色一つ変えず堂々と家の中に入っていく。比呂は強い焦りと危機感でいっぱいになった。このままでは本当に母と離れ離れになってしまう。せっかく再会できたのに、二度と会えなくなってしまう。
(お母さん、お母さん……! お父さんはもういないんだ。僕がお母さんを、家を守らなきゃ……!!)
ぎり、と歯を食いしばる比呂を見て、ヴォイドは億劫そうに口を開いた。
「諦めろ、どんなに望んでも香月杏奈は戻らない。どれだけ科学技術が進歩しようとも、ヒトは死から逃れることはできないんだ。……俺にしてみれば、これ以上もなく羨ましい話だがな」
しかし、そんな言葉で諦められるはずもない。比呂はヴォイドを睨みつける。
「お母さんは死んでない! だって、僕の目の前にいるんだ!! そして僕に話しかけてくれる。学校のことや仕事のこと、妹の詩織のこと……! だからお母さんは死んでない、死んでないんだ!!」
「それはただの願望に過ぎない。インフィニティも言っていただろう。あれの正体は幽鬼 ……電脳ニューロンとその中を伝播する生体光子がお前に見せている、ただの幻に過ぎないんだ」
「それでもいい! ファントムでも幻でも……一緒にいられるなら何だっていい!!」
「ふん……まるで支離滅裂だな。これがヒトの子どもというものか。なるほど、実際に話してみると思った以上に意思疎通が難しい」
ヴォイドはあくまで冷ややかに比呂の言葉を一刀両断するのみだった。どうせ子どもには何もできやしない。そう思っていることが彼の眼差しや態度からありありと伝わってくる。
それが却って比呂の心に火をつけた。たとえ子どもだろうと、大切なものは自分で守ってみせる。誰にも奪わせはしない。馬鹿にするな!
脳の奥がカッと熱を帯びた。比呂の意識が一点に集中していく。どこかに引き摺り込まれていくようでもあり、同時に、無限に膨張し拡大するようでもある、これまで体験したことの無い不思議な感覚。
気のせいか、周囲を染め上げる夕日の赤もその濃さを増す。そして地面に落ちる影もどんどん濃くなり、細く長く伸びていく。世界が加速度的に変形していく。
硬直状態になっていた比呂の体に変化が現れたのはその時だった。
比呂の体や顔の輪郭が陽炎のように大きく揺らぐ。その中心は、比呂の額に出現した真っ黒い球体――光すら反射しない、黒々とした穴だ。揺らぎはその球体を中心とし、円盤状に広がっていく。まるで時空そのものが軋み、歪んでいるかのように。
それを目にしたヴォイドは初めて感情の揺れを見せた。それは驚愕、そして激しい動揺だった。
「これは……まさか《コラプサー》か!? いや、違う……この子どもはそんなもの持っていないぞ! 一体どういうことだ……!? このままではインフィニティのプロテクトが……!!」
とうとう、比呂の体を拘束していた何かが弾け飛んだ。それと同時に額の黒い球体も消滅し、比呂の体は自由を取り戻す。
そして、その時にはもう比呂は走り出していた。後ろでヴォイドの声が聞こえたが、今はそんなことに構ってはいられない。
(絶対にお母さんを連れて行かせたりはしない!!)
自分の身に何が起こったのか。どうして突然、自由になったのか。何も分からなかったが、そんなことはどうでも良かった。比呂は母の身を案じ、ただ一心に駆ける。
「お母さん! お母さん!!」
道路に面した階段を駆け上がり、玄関に向かった。扉はやはり大きく開け放たれていた。比呂が外に出て来た時そのままに。
靴を脱ぐのもそこそこに、比呂は家の中に飛び込んでいく。緋色に染まった家の中、大事な大事な比呂の世界へ。
ところが、玄関から家に飛び込んだその瞬間、比呂の記憶は弾け飛んでしまった。それからどうなったのか、後のことは全く覚えていない。
次に気が付いた時、比呂は家のリビングにあるソファの上で横になっていた。
「こ……ここは……」
「目が覚めたかい?」
その時もまだ、真っ赤な夕日が部屋中に差し込んでいた。現実味の無い、あまりにも美しすぎる唐紅色。
その中に佇むインフィニティとヴォイドの姿を目にし、比呂は飛び起きる。
母の杏奈のことを思い出したのだ。




