社長に感謝を
駅までの道を歩いていた。
満開の桜並木に沿って真っ直ぐ進みながら、わざわざ電車に乗って花見に出掛けなければならない馬鹿馬鹿しさに欠伸が出る。
糞社長め、散ってしまえ、だなんてことは口が裂けても言えないけれど、思うだけなら誰の迷惑にもならない、構わない。
午後のぽかぽか陽気、このまま昼寝でもできたら幸せなのに、と詮無きことを考え、けれど、ワンマン社長の決定に逆らえない零細企業被雇用者は唯々諾々と従うのみ。
クソクラエ、であっても潰れられたら困るのが厳しい現実。
ここらで横断歩道を渡っておこうと思い、信号が変わるのを待つのに立ち止まる。
自分の背中側、自分とは反対を向いて、同じく信号待ちだろうか、お兄さんが立っていた。
スラッとした体型で、私の位置からは後ろ姿に近い横顔しか見えないのだけれど、色の淡い桜に似合う感じの、憂いを帯びた風のうつむき顔。
今が盛りの花を見上げず、視線は下を向いている。
雰囲気的に大学生ではなさそうだから、自分と同じくらいか、やや上か。
儚げな、綺麗なイケメンさんだなぁと思った。
ふむ、なかなか絵になる。
6Bとスケッチブックが欲しい。
特に絵心は無いが、今なら描ける気がする。
院展に出せる気がする。
思うのは自由。
ついでにベレー帽も欲しい。
桜が咲いて春が来たといっても寒い日はまだそこそこあって、だからこその油断、このままでは頭皮が日に焼ける。
ほぼ後ろ姿だからバレないだろうと、無遠慮に、上から下までじっとりじっくり舐め回すように観察する。
髪の毛は染めていないとか、前髪をもっと切ればいいのにとか、襟足が長いなぁとか、今日は日が温いからジャンパーを脱げばいいのにとか、心の中で好き勝手思っていても、相手がエスパーでもない限りは許される。
(あ、繊維)
ジャンパーの背に付着した、白い糸屑みたいな、ふよふよっとした繊維が気になった。
折角のイケメンお兄さんだというのに、その一点のせいで美しさのバランスが崩れてしまう。
前髪も襟足も、短ければもっと素敵だけれど、汚点ではない。許容範囲。
でも、繊維の付着は美の冒涜であり、下手をすれば、これからひょっとしたら彼女とデートかもしれないお兄さんが要らない恥をかく原因にもなりかねない。
取れる気がする。
話し掛けるほどではないだろう。
変質者扱いされても困るし、怪訝な顔をされるのも嫌だ。
気付かれなければいい。
そおっと、そおっと。
春の嵐、こんなに急に吹くものだろうかというくらい、何の前触れも感じさせぬままに強風が吹いた。
何てことはない、ただ大型トラックが、かなりのスピード超過で横を通り過ぎただけ。
捕まってしまえ、もしくは心臓が縮むくらいでかつ命に別状が無い程度の自損事故でも起こしてしまえ。
にしても、赤信号が長い。
脳内パニック、現実逃避を試みるも目の前にはリアル。
お兄さんがトラックのせいで振り向いて、目がばっちり合ってしまった。
伸ばかけた手を反射で引っ込めたものの、下げるのはあまりにも不自然に思えて、腕が上がったままでただ固まるしかないこの気まずさ。
とか思っていたら、何故かお兄さんも、私に手を伸ばしてきた。
お兄さんの指が、今日は下ろしている私の長い髪の表面をつるりと滑る。
「花びらが」
声までは想像していなかった。
耳にいい声。
見た目の印象よりは低い、鼓膜を直に震わすような男の人の声だった。
お兄さんが指で摘まんだ薄桃色の花びらを、私に見せてくれる。
ふっと表情をやわらげた、お兄さんの笑顔に見とれた。
上げて縮ませたままだった腕を伸ばし、花びらを受け取る。
お兄さんの花のような表情はもっと綻んで、満開の桜なんて目じゃないくらいにイケメンだった。
「彼女居ますか?」
特技の妄想が仇となる。
口にする言葉を考える前に言葉が口から飛び立ってしまった。
後悔先に立たず、立つ鳥跡を残さず……は違うかもだが、後の祭り、後夜祭……確実に違う。
仮想彼女は現実の存在か否か、かなり気になるところだが、実際に口にするつもりなど毛頭無かった。
きっと脳味噌が本能的に知りたがった。
「……いいや、居ないよ。貴女は、付き合っている人が居る?」
私の言葉に最初きょとんとして、その後すぐに小さくくすくすと笑うように、暖かく穏やかな春の日差しみたいなお兄さん。
先程までの、儚げだと感じた雰囲気は今はもうどこにもない。
きっと許してくれると思うから、そっと反対側の手を伸ばす。
またきょとんとするお兄さんに一声掛け、背中の繊維を取ってあげた。
お兄さんがまた綻んだように笑う。
その笑顔が、好きだと伝えた。
ごちゃごちゃ頭の中で考えず、見て、感じて、思った通りを、そのままの言葉で。
職場の花見は強制参加。
でもお蔭様で道すがら、連絡先を交換した。
電車の中でも花見会場でも、心はふわふわと、花びらが優しい風に吹かれて舞うみたいに軽く、脳内は薄桃色、お花畑ならぬ花びらカーペット。
綺麗な桜を眺めると、思い出してとくんとくんと胸が高鳴る。
スマホを花に近付けてぱしゃり、写真を撮って送ってみる。
胸はとくんとくんと、心はふわふわと、現実なのに現実ではないみたいな人心地。
ぶるり、スマホが震えた。
心を落ち着けて……と思ったところで落ち着くものではないけれど、スマホも、届いたメッセージも、今が現実なのだと私に教えてくれる。
今日、桜の木のそばで恋をした。
心が浮き立つ、これから始まる、そんな恋を。