08/39 【遷移を越えた朝】
「おっとと……じゃ、じゃあ取るからな」
「はい! お願いしますね……!」
少年から受け取った風呂敷を手にし、俺は日時計の針に足を掛ける。
当然、手すりや足場もなければ、万が一の落下先にマットが敷かれているわけでもなかった。
「うおっ……! わかってた事だけど、けっこう足下ふらつくな……っと!」
「あ、気をつけてくださいっ」
水晶は俺が背伸びしてようやく届くかどうかの中空に浮いていた。石柱の針は丈夫に造られているとはいえ、頂点でつま先立ちをすれば冷や汗も出る。
「ほんとうに持って帰れるのか、こんな風呂敷一枚で……」
背筋と両手を伸ばせば、水晶がそこにあった。
青白い水晶が放つ太陽の如き輝きが間近に迫る。
水晶は得体が知れない。
これだけ近づいたというのに光は熱いのか冷たいのか、温度すら感じ取れなかった。
「よし……行くぞっ」
浮遊する光源に風呂敷を被せた。
それでも隠し切れないほどに、霊力の輝きが眩しい。
「少年。もし俺が落っこちてもちゃんと支えてくれよな……っ!」
「はい、僕の方は準備いいですよ!」
風呂敷越しではあるが、ついに俺の手が水晶に触れた。
このとき、俺は勘違いしていた。水晶はリンゴでも収穫するみたいにもぎ取れるものだと思っていたが、実際には。
「ふ――――んぎぎぎぎぎぃぃぃぃいいい」
「が、頑張ってくださいっ!」
「か……固すぎるっ!? 一体なんなんだこれ……っ!?」
水晶を取り巻く空間一帯が、セメントでも敷き詰めたように固定されている。
俺はもはや自身のバランスなどお構いなしに中空の水晶を揺さぶっていた。
水晶を握る手に全体重を預けてもなお、水晶はビクともしない。
「くそっ、これじゃあまるで……」
必死になるあまり疲れ果て、ふと視線が地面に落ちる。
目は自然と、日時計の文字盤部分に吸い寄せられる。
日時計の針はずっと、意味もなく同じ地点を指していた。
「取れない…………っ、動けっ、このっ」
それもそうだろう。
これだけ眩しい物体が四六時中、微動だにせず漂っていては、時間を知らせるという日時計本来の役割を果たせなくなるのは言うまでもない。
だから、俺は心底――――心底、なんだろうな。
落胆。虚しさ。どれもピンとこないが、とにかく俺は再び手の平に力を込めた。
「永遠とか、ホントなんなんだよっ! 時間を……未来を……なんだと思っているんだ! 曲がりなりにも俺は――――だぞ……っ!」
とくに後半部分など、自分でも何を言ったのかわからなくなるほど力を振り絞っていた。
永遠社会もこの日時計も、よく似ている。
進展も後戻りもせず、針はただ同じ時間を伝えている。
俺や露希との静止した日常と、同じ。
一点しか示さない日時計。
時間が固着したさまを見せられるのが嫌いだ。
だから俺は、心底……、そうだ。
心底怒っていた。
永遠など崩れてしまえ。
永遠を色濃く体現する日時計。こいつさえあるべき姿に戻れば、時の流れも一緒に元通りになってくれはしないだろうか。
「永遠なんてっ……もうたくさんなんだよ! 永遠じゃなくていいから、ただ……」
遺骸の如き日時計は、未来を希求する俺の心さえ摘み取らんとするようで。
俺一人がどれだけの力を注いでも動かない水晶は、まるで理不尽の権化に思えてきて。
「ただ未来が……うわっ!?」
未来がほしい、と叫び散らす一歩手前で。
突如、辺りの霊力がごっそり消え失せた。
そのタイミングは、まるで霊力が俺の心に呼応したかのようだった。
「うわあっ!?」
「!? 少年、平気か……っ!」
付近の霊力が消失した次の瞬間、日時計の浮島も幻のように消えてなくなる。
俺と同じく足場を失った少年が悲鳴をあげる。
その一瞬あと、ザブンと水面を打ちつける衝撃音が湖に響いた。
「ぐっ! つ、冷たすぎる……風邪ひく前にボートに乗るんだ、さぁ!」
湖に滞っていた霊力溜まりが解消されたことで、浮島は実体を保てなくなったのだ。
日時計も、針も文字盤もそっくりと消え去り、俺たちは11月の湖に入水。当然のことながら極寒。
「さ、ささささむいでですけどど、ぼぼぼ僕は泳ぎ慣れてますから! お客さん、先にボートへあがって! しししたらすぐ僕のことも引き揚げてくださいね!?」
たまたま霊力のことを知っていた俺は、ひょっとしたらこうなる可能性がなきにしもあらず……くらいに考えていたので、少年に比べると冷静でいられた。
だから浮島が消えて、浮遊感に包まれたことへの動揺よりも。
冷えた湖に全身が沈んだことによるショックよりも。
冷静な頭は、手に乗ったそれの重さを捉えて離さなかった。
「水晶……だよな、やっぱり」
霊力とともに何もかもが消えた。にもかかわらず、水晶だけが形を残して手に収まっていたのだ。
「……ここまで足を運んだ収穫が、こんな水晶ひとつだなんてな。こいつにも何か意味があればいいけど……今はそれどころじゃないよな」
ボートによじ登って船上に身を打ち上げた。
そのまま腹這いの格好になり、すかさず黒い湖に手を伸ばす。
「少年、こっちだ!」
少年は比較的華奢な体格だが、隅々まで水を含んだ衣服が重く、引っ張り上げるのに苦労した。
水から脱出した俺たちは、震える手でボートを滑らせる。
湖のほとりに駐めてあるバイクのヘッドライトを目印に、寒さを振り切ってオールを走らせた。
「とりあえず体を温めるのが先決だ。ってわけで少年、こっちだ」
「ばばばバイクのの……排気がががガス?」
バイクのもとまで戻ってきた俺たちは、銀のマフラーに手指をかざす。
「ストーブにしては心許ないけど、まぁないよりましだろ?」
かじかんだ手指が温度を取り戻し、血の巡る感触が舞い戻ってきた。
寒さが引くまではバイクを中心に身を寄せ合うしかないだろう。
休憩所まで引き返せば確実に暖を取れるだろうが、それにはバイクでの移動が必須になる。
「あうあうあうああああガチガチガチガチ……」
濡れた服に冷えた体。こんな状態で少年をバイクに乗せては、吹きすさぶ寒風に耐えられまい。
「俺より堪えてそうだな……よっと」
俺は自分の体を毛布にするように、一回り小さい少年の体躯を背中から包んでやった。
「ふわ!? そ、そんな、おかまいなく……ぶぇくしぁっ!」
少年の腕に腕を回し、少年の腿に腿を触れ合わせ、なるたけ外気に触れる面積を少なくしてやる。
それから数十分、俺たちのもとにひたすら耐えるだけの時間が訪れる。
やがて湖が凪ぎ、雲が晴れて月が顔を出し始めた頃。
ようやく震えが治まった唇を動かして、少年は訥々と言葉を紡いだ。
「ただジッとしてるだけっていうのも辛いですし、お客さん」
ガタガタと震えが止まらなかった先刻よりも、少年の声はいく分か健康的だった。
「なにか面白い話、してください」
「……、どストレートな無茶ぶりがきたな。水晶を収穫しろって言い出したあたりから、君はそういう奴なんじゃないかと薄々感じてはいたけど」
「じゃあ面白くなくてもいいので語ってください。政治・宗教・好きな球団とかでもいいので」
「…………亀裂が生まれそうな話題ばっかだな」
体温とともに普段のペースを取り戻してきたらしい。
少年はおとなしい顔して存外ブッ込むタイプなようだ。
「俺、だんだん君のことがわかってきたよ」
「僕は」
少年は、さしたる感慨も挟まず、
「孤児でした」
と語った。
「お客さんも立ち寄ったんですよね、あの休憩所。あそこに置いてけぼりにされてたそうです。三歳の頃の出来事なので、なんとなくしか憶えてないんですけど」
衝撃的な身の上に絶句する。
冗談か何かだと思いたい。
俺の胸中を、二人の間に降りた沈黙があっさりと否定する。
「……っ、何て言えばいいのかわからないけど、それは…………しんどいな」
「ところが。そうでもなかったんですよね」
悲しくはなかったし、自分を捨てた両親への恨みもなかった。
語られた境遇に反して少年の声、表情、視線のいずれも平静そのものである。
「ショックとか悲しみとかよりも先に、不思議だったんですよね。実感が湧かないといいますか」
休憩所の人たちが家族同然に接してくれるようになって数日が経ったある日、「あっ、これ、僕、捨てられたんだ」とふいに気づく瞬間があったのだという。
捨て子であると自覚した次に「え、なんで?」と、純粋な疑問が口をついたらしいのだ。
「僕の記憶が正しければ、それまでなんら問題のない家庭だったんです。まぁ僕がそう感じてただけで、実際親側はストレスいっぱいだったのかもしれませんけど……」
「捨てられる理由に心当たりがなくて、不思議だった。ってことで合ってるか?」
「そういうことです」
俺だって父親はもとより、母親ともかれこれ九年間顔を合わせていない。
どうやら少年と俺は家庭環境が特殊な者同士のようだ。
しかしだからといって、わからないこともある。
「それってつまり……少年としてはどうしたいんだ? やっぱり、両親を問い詰めたいのか?」
「詰問っていうと厳しすぎますけど……普通に、事情を聞きたいっていうか。自分の境遇に興味があるといいますか」
「興味と来たか……じゃあ、怒ってるわけではないんだ?」
俺の胸元で少年は頷く。
嘘ではなさそうだった。現に少年の受け答えに、およそ感情の起伏というものがおくびにも現れていない。
むしろ少年は、気軽な調子で本懐を吐露した。
「怒るなんてとんでもない。育てる理由があれば、捨てる理由もある。少なくとも三歳ごろまでは健やかに育ててくれたのは真実ですし、話してみないことには、なんとも」
「虐待された傷跡とかひとつもないですし」と言い切った。
そうか、少年はともかく両親と話をしたいんだな。
ちゃんと会って色々訊き出せるといいな、と口を継ぎかけた俺の言葉は、続く少年の声に止められる。
「そのうち会って話してみたいですよ、ほんと――――まぁ、でも」
“ほんと”と“まぁ”の間には大きな溝があると、俺は瞬時に感じ取る。
諦めをふんだんに滲ませて、絞り出すように続きを発した。
「『そのうち』なんてくるはずないって、頭ではわかってるんですけどね。なにせ今って――――」
それに続く語句が何かを、俺は反射的に察する。
「永遠社会ですから」
少年の視線が伏し目がちに手元に落ちる。
その仕草は俺とそっくりだった。
露希との未来が奪われて以来、頻繫に無力感を抱くようになって、俺はすっかり俯くのがクセになってしまった。
虚無に浸かりきった少年の目元が、自分の目と重なる。
「お客さんは? どうしてわざわざ、こんな辺鄙な湖まで足を運んできたんですか?」
よくぞ聞いてくれた。
「未来のためだよ」
俯くのはこりごり。
永遠はもうたくさん。
体に充分な温度が戻ってきた。もう低体温症の心配もないだろう。
俺は少年の体を離れ、のそっと立ち上がった。
視線を上げろ少年。湖が凪いでいるぞ。
さらに上空を見ろ少年。月が出ているぞ。
眼の前に広がる景観はかあさんのメールと完全に一致した。無論、予知夢で視た光景とも。
「そういえば、お客さんは最初から言ってましたね。ここに未来があるとかって。みつかりましたか?」
「あるね。直感だけど」
「え」
「あぁー……信じるかどうかは人それぞれだし、そんな胡散臭そうな目で見られるのは仕事柄慣れっこだけど、これは真面目な話さ」
俺はズボンのベルトに結んでおいた風呂敷をほどき、布中の水晶を自分の手の平に乗せる。
「あ。その水晶。日時計で光ってたやつですよね?」
「そう。少年は両親と会って話したいんだったよな。こいつさえあれば、あるいは……と思ってな」
俺は左手に水晶を構える。
じわり、と水晶に霊力を注ぐ。
水晶越しに少年の像を捉える。
水晶の内側に、少年の像が映り込む。
不思議そうにポニーテールを傾げる彼の輪郭に沿わせるように、水晶内の霊力を整えていく。
「えっと……さっきから何をしてるんです?」
「霊力行使・【失せ物探し】。対象は、彼の両親」
整えた霊力を一気に攪拌。
すると水晶は時空をも屈折させ、現在現実と乖離した異空の事象を捕まえる。
つまるところ、俺は水晶と霊力を用いて未来を観測したわけだ。
水晶の中に時空を越えた先の出来事が像を結ぶ。
それはとある青年と、青年の母親と思しき女性が再会の抱擁を交わしている光景だ。
俺は母親の方には見覚えがなかった。
しかし青年の方はというと。
後頭部で一つに括られた髪。
風貌から醸し出される中性的な雰囲気。
激しく心当たりがあった。
心当たりどころか、目の前の少年を高校生にしたら寸分違わずこうなるだろう。彼で間違いない。
「お客さん? あのぉ~……」
「ブツブツ……――伝えるべきだろうか? でも――……ブツブツ」
「き、聞こえてますか~……? お客さぁ~ん……?」
「……………。やっぱり……今のは【失せ物探し】じゃないな。だとしたら【未来視】か。……言えないな……」
「ちょっと、ほんとに大丈夫ですか? ひょっとしてまだ冷えてるんじゃないですか?」
俺は集中を解き、水晶に込めた霊力を霧散させる。そうすることで、水晶に広がる未来の光景は塵と飛び去って消えた。
せっかくの霊力行使だが、俺はその内容をあえて少年に伝えない。
少年からすれば、母親との再会は朗報以外の何物でもない、最高に望んで止まない未来だろう。
願ったり叶ったりな未来なら、率直に伝えてあげればいいだろうと思われるかもしれないが、そうしないだけの理由がある。
俺が視る未来は、どれも“訳アリ”だから。
「少年」
「なんですか。というかお客さん、体調平気ですか?」
「母親に会えるといいな、未来で」
「? 母親だけですか?」
個人的な葛藤を押し殺し、どうにか口を開いたが、結局たいしたお告げはしてやれない。
少年の顔もまともに見れないまま、気休めを投げかける程度に留めた。
「この永遠社会で未来って……お客さん。さっきから本気でそんなことを――――」
少年の言葉を背に受ける。
振り向かない俺の視線の先には、湖と山々がどこまでも続いている。
凪いだ水面が、煌々とした月の光を打ち返していて。
映画館を飛び出したときからずっと求めていた光景が、いまや指先が触れそうな距離にある。
これで、俺の直感を満たせたんだろうか。
啓示の如き予知夢に突き動かされるまま湖にたどり着いて、その光景に触れて、これにて条件クリア、だろうか。
正直なところ、手応えがあるにはある。
手の平に収まる水晶が、さっきからずしっと重たいのだ。
未来を映すのに充分な屈折と透明度を備えたこいつを、あの日時計から持ち去れたことが実はキーであり、ある種のフラグ回収だったんじゃないだろうか。
「なんの理由付けもない、あくまで直感の域を出ないけど、きっとこれで良かったんだ。なにせ俺の直感は……ん?」
そこまで言葉にして、ふとおかしな事態に気がついた。
辺りに少年の気配がない。
それどころか、俺はずっと独り言を喋り続けていたのでは、という錯覚さえ訪れて。
「ああ。いつものやつだ」
空間がぐにゃりと歪んで酷い酩酊感に襲われる。
視界すべてが無彩色に落ち、何もかもが現実感を失っていく。
予知夢に視た光景も、寒さも。寒さを和らげるのに一役買ったバイクのマフラー、そのガス臭さも。
正確には、ここ一週間の出来事すべてが夢みたいに、崩壊が止まらない砂の城みたいに朧気なものへと変わっていく。
「遷移だ。次の永遠が来るときは、いつもこうだ……!」
これがあるから、俺はいつも色々な物事を諦める。
偶然に、運命的に出会えた少年とのやり取りに靄がかかる。
露希と観た映画のシーンが、途端にモノクロとなって映る。
日常も非日常も一緒くたに、一切合切平等に虚無に帰す――――遷移だ。
「これだから永遠は嫌いなんだ、くそっ……なんでこうなんだよっ!」
遷移が来たと知覚した次の瞬間、世の中は11月23日の朝を迎える。
このあとすぐ、俺はいつもの自室で朝を迎えるのだろう。
――――せめて、なるべく、露希や少年と交わし合った感情を憶えていたくて、俺は走馬灯の渦中をもがいた。
――――また、生気のない自室で目を覚ました。
いつものことだが、部屋には毛ほどの生活感すらなかった。自営業の宣伝に使うパソコンを乗せた机以外には、家具が最低限あるのみ。
しかし、今日はハッキリと宣言できる。
俺は生気のない部屋で、無意味に目を覚ましたわけではないと。
残念ながら日めくりカレンダーは11月23日を示している。が、それしきで俯く俺はもういない。
「永遠を完璧に葬るには至らなかった。けど、これは……」
ベッドから身を起こしたときに気づいたのだ。
幾千回と訪れた11月23日と比べて、左腰に重たい感覚が吊ってある。
永遠の原理原則を打ち破った水晶が、朝日を受けて光を返していた。