03/39 【未来の無い日々】
セルフスタンドからガラスを一枚隔てた屋内に、閑散とした休憩室はあった。桐織の姿もそこにある。
なぜか妊婦さんと相席している桐織だが、彼女は“露希”ではない。
俺は彼女のことを敢えて“桐織”だと思うことにしていた。
俺はいつしか、桐織を“露希”と呼ぶのをやめたのだ。
理由は実に単純なもので、桐織のリアクションが疎ましかったからだ。
『え、えへへぇ~っ、閃司にそー呼ばれるのって、なんかヘンなカンジっ』
『ちょっとも~ぉ……囁くのはズルいじゃん?』
『お、落ち着かない~~~~っ! けどうれしいっ、けどなんだろこの気持ちっ!? 好ましい~~~っ、こそばゆい~~~っ』
一週間が経って、さらに二週間が過ぎて。それでも桐織は“露希”呼びへの初々しさを失わなかった。
顔を赤くして視線を外す。そんな桐織の仕草に悪い意味で胸がざわついたのは、言うべくもないだろう。
『ちょ、ほんとにもぉ~……動悸ドキドキする~っ、』
『やめやめやめぇっ、照れるからぁ~』
『閃司ぃ……〜〜〜んぁあぁ……もぅ』
そうこうしてるうちに、11月23日が幾千回と訪れた。
桐織が呼ばれ方に慣れてくれる日はついぞ来ず、むしろ一向に進展しない桐織との関係性にギャップを募らせるばかりだった。
それもそうだろう。
11月23日から11月29日に遷移する際に様々な事物がリセットされるのは、伏せた写真立てや桐織の髪色が実証したとおりだ。
だから俺は、彼女を“露希”と呼ぶのはもう諦めた。
「桐織と俺とでは、ぜんぜん住む世界が違うみたいだ」
桐織の記憶が綺麗さっぱりなくなっているのはみての通りだが、記憶の消え方には個人差がある。
大抵は、永遠のなかで過ごした記憶は完全に抹消されるわけではない。今朝の夢のように曖昧ではあるものの、一応は保存されているはずなのだ。
そのため記憶のほとんどが、よほど強く気に留めなければ失われてしまう。
俺は仕事柄、何度遷移しようとも鮮明な記憶を残している。
しかし、桐織の記憶は完全にリセットされているも同然だった。
旭賀さんと過ごす時間を除き、彼女は思い出の一切合切を、遷移とともに失っている。
「俺は永遠以前となんら変わりないってのに、アイツは忘れっぽいからな……」
だから今、ガラスの向こうにいる桐織がひとつ前の11月23日から11月29日に起きた出来事を覚えているかどうかさえ怪しい。
「露希……っ、くそっ」
休憩室のガラス越しに桐織露希を呼んだ。
ガラスが隔てていることは言わずもがな、妊婦さんとの談笑に夢中な彼女が呟き程度の声に気づくことはないし、聞き取ってくれない方がありがたかった。
時間を共にするうちに名前を呼び合う関係が定着して、やがては次の段階へと進んで……永遠など訪れなければ、世の男女が送るような刺激と変化で充実した未来があり得たはずだった。
露希は小さい頃からの親友であり、遠慮のいらない幼馴染である。
一方で、お互いの気持ちを手探りし合う相手でもある。
親友から次の段階へと関係を築いていくはずの相手だった。
そんな桐織は、永遠に奪われた。
29日から23日へと遷移するたび、築いた信頼は永遠以前の段階へとリセットされる。
わかってもらえるだろうか。桐織がいつまでも“露希”と呼ばれて狼狽えるのは、そういう理由だ。
時間に比例してズレていく距離感に、俺は耐えられなかった。
今ではもう、俺たちの間には休憩室のガラス一枚なんかよりも分厚いギャップがある。
「なんのことはない、ただ呼び方が変わっただけだ」
自分なりに整理をつけたはずの蟠りを、永遠はその圧倒的な時間を以って掘り返してくるのだ。
もっとも、二人の間に流れる違和感に気づいているのは、きっと俺の方だけなんだろう。俺は人よりも永遠への抵抗力がある体質だから。
これは桐織や旭賀さん、そのほか一般に暮らす人たちでは抱えるはずもない問題だった。
「そういう星の下に生まれた。こればっかりは、そうとしか言いようがない」
自分の体質について深く語りすぎると、決まって人から胡散臭がられる。
俺は思考を切り上げて、意識を休憩室の露希に戻す。
どうやら俺が考え事をしている間ずっと、彼女は見ず知らずの妊婦さんと談笑していたらしい。
「それにしても。まるで面識のない、しかもよりによって妊婦さんに絡むとは。桐織の恐れ知らずめ」
永遠社会では決して関係が進展しない。
名前すら気軽に呼び合えないのだ。たったそれだけでも無力感が尋常ではない事を、俺は身をもって知っている。
加えて進展とは逆、これは非常に張り合いのない事だが、関係が悪化する事もなくなった。
だからこそ、だ。
妊婦さんの姿を目にしただけで、俺の胸はうそ寒くなる。
「桐織」
「あ、閃司! 今ねっ、こちらのさや子さんと話してて――」
「給油終わったよ。いこうか」
膨れたお腹に手を当てている妊婦さんは、さや子さんというらしい。
胎児がいるのだろう、俺の視線は大きく膨れたお腹に吸い寄せられる。
その膨らみは、一見すると幸せの象徴だ。永遠が訪れた今では、虚しさの塊である。
桐織を連れて休憩室を退散しようとした、刹那、
「! しまった……っ、」
俺は、もう永遠に産まれることの叶わない胎児たちと目が合う。
ハッとした次の瞬間、視神経がぐるぐると強張るような違和感に襲われる。
マズい。俺はとっさに顔を背けた。
「あ、ちょちょちょと閃司まてぇぃっ、まだマダまださや子さんと話しちゅうなのにー!」
テーブルにへばりつく桐織を半ば強引に引き剝がしてバイクに乗せた。
「もうー閃司ばか! せっかく会ったことない人だったのにっ!」
「会ったことない人と絡もうだなんて思わないだろ。一般的にはご迷惑だぞ」
キーを回して、発進。
「それに桐織の場合は初対面かどうかも怪しいだろ」
道路にさえ出てしまえば、もうあの妊婦さんと会うこともないだろう。
俺はセルフスタンドから逃げるようにバイクを駆る。
「だってだってだぁってー、こうも永遠だと人間関係も飽和しちゃうといいますかー」
「飽和って、……俺がいるだろ」
「それよりさっ! さや子さんのお子さんっ。予定日まであと六週間で、それが楽しみなんだってー!」
それは違う。
あの一瞬、俺は“視た”。
出産は来月の一五日だ。
約三週間早まっての難産で、双子のうち片方か、両方か。あるいは母体が――――…………。
…………いや、やっぱ考えるな。
ここまでにしよう。これ以上はよそう。
あの胎児たちについて、俺が思いを巡らす必要はない。
この永遠社会において、予定という概念はあってないようなものだ。
どうせ産まれて来やしないのだから。
万に一つ今日明日あたりに産まれてこれたとしても、永遠社会お得意の遷移が働けば胎児に逆戻りするだけだ。
考えるのをやめて、映画館のあるショッピングモールまでバイクを走らせることに集中した。
無慈悲なる永遠社会。
こんな日々h道路を行く時速七、八十キロで振り落とせれば、いいのにと思った。