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夢幻

作者: 月

【腐れ縁】くされ-えん

離れようとしても離れられない関係。好ましくない関係を批判的・自嘲的にいう。くさりえん。


出典:小学館


 あともう少しで日付が変わろうとしていた頃、彼は突然私の目の前に現れ、相変わらず物憂げな雰囲気を身に纏い、夜の闇に覆われるように突っ立っていた。およそ一年ぶりの再開であった。雨が上がってからまだ大して時間が経っていないコンクリートの地面になんの躊躇いもなく座りながら、ポツリポツリと話し始める彼の美しくも妖しい横顔を眺めていた。懐かしさと哀しさと、もうとっくに消えていたはずの胸の苦しみが、再び燻り出す感覚を覚えた瞬間、私はすぐさま悟った。


ああ、今回もまた同じ夏が始まってしまった、と。



彼との付き合いはもうかれこれ三、四年くらいになるだろう。高校生の頃は二人でカラオケに行ったり、買い物をしたり、彼の漕ぐ自転車の後ろに乗せてもらいながら一緒に帰ったりと、所謂ふつうの友人関係を築いてきたつもりだった。他愛もない会話が楽しく、こんなにも感覚が合い、居心地が良いと思える人は他を探しても今後出会えないのではないだろうかと思う。唯一無二の親友だと思っていた。しかし、次第に私が彼に対して恋心を抱き始めるようになるのと同時に、少しずつ歪みが生じた。関係が拗れていってしまったのは、高校を卒業してからだった。


 私は社会人になり、彼は大学生になった。晴れた春の日、初めて私たちはからだを重ねた。後悔は一ミリも感じなかった。関係を少しでも進められたことが嬉しくて。友人だったはずの彼がキスをしてくれたことが嬉しくて。私を抱きしめてくれたことが嬉しくて。その時の私は、後に私を襲うことになる苦しみなど何一つ考える隙などなかったのだ。執着、依存、嫉妬、歪んだ愛情、母性のようなもの、彼の肌の質感、体温、汗の匂い、鼓動の音、揺れるネックレス、長い前髪から覗く妖艶な眼差し、貪るようなキス、耳元をくすぐる熱い息遣い…からだを重ねる度に、私のからだにも心にも増えていく彼の痕はまるで呪いのように私を縛りつけ、今もそれに囚われたままだ。



 彼は気まぐれだ。

 感情の赴くまま、その時その時の気分で行動する、猫のように自由な男だ。何事にも縛られないその軽やかでどこかミステリアスな雰囲気が、人を、特に女を魅了するのだろう。今までに彼が何人の女と恋をしてきたのかは正確には把握していない。私が知っている数よりももっと多いのかもしれないが、あえて触れていない。

 彼はその性格ゆえに、気が向いた時にしか私の元へ来ない。数ヶ月から、長くても一年ほど間隔が空く。連絡頻度も極端だ。気づけば典型的な、都合のいい女に成り下がっていたのだ。そして最も私の元へ来る確率が高い時期が夏である。夏は感傷に浸りやすいのか、それとも心身共に落ち込みやすいタイミングなのか。もちろん夏以外の季節にやってくる場合もある。来る時は決まって、私を抱きたい時、恋愛で上手くいっていない時、気持ちが塞ぎ込んだ時。恐らく寂しがり屋で、愛情というものに対してどこか飢餓感を抱いている部分があるのだろう。本人がそれに気づいているのかは分からないが。自分で言うのも変だが、不定期で私の元へ来る理由は、癒されたいからではないだろうか。何度か夏を越していくうちに、彼の行動パターンが読めるようになっている事に気がついた。同じ夏をもう何度も繰り返しているのに、このままでは二人ともどこへも行けないのに。分かっていても、それを変えたいとはまだ思えない。




 彼からの連絡が途絶えていた期間、私には好きな人が出来ていた。その人は(以下Iさんとする)六歳年上で仕事も出来、私の話をいつも笑顔で聞いてくれるとても穏やかで優しく、真面目な人だった。この人と結婚したら、苦しむことなく平和で幸せに生活できるだろうなと思えるほどだった。年齢が違うということもあり、もしかしたら恋愛に関する価値観も違うかもしれないと思い、なかなか自分から動けずにいた。Iさんは基本はオフィスにこもっての仕事なので、たまに会えたときには話しかけてみたり、メッセージでやりとりをしたり。しかし思うように進展しないことに少々焦りと不安を感じつつも、久しぶりの健全な恋に胸を高鳴らせていた。

 いつしかあの、猫のような彼に対する渦巻いた負の感情は少しずつ体から抜けていき、「ああ、これでやっと卒業できたのだ」と安堵していた。同時に彼の幸せさえも願っていた。


 その矢先のことだった。


 どこか遠くの方で雷雲がゴロゴロと音を鳴らしているのが聞こえ、止んだばかりの雨のにおいが辺りに漂う、梅雨明け直前の暗い夏の日。ふとスマートフォンを見ると、一年近く連絡が途絶えていた彼からのメッセージと三件の不在着信。つい最近手放したばかりの負の感情たちが、雨のにおいとともに私の元へと漂ってくる。いやな予感がした。また同じ苦しみを味わわなければならないのか。戻ってはいけない。そう思っていたのに、電話に出てしまった。

 懐かしい声。

 心の奥深くにしまい込んで、学生時代の一つの思い出として片付けていた以前の記憶が一斉に私の脳内を埋めつくした。

 あんなにIさんの事が好きだったのに。

 否、今でもIさんに対する気持ちは変わっていない。しかし、彼の声を少し聞いただけで、彼に対する感情が、Iさんに対する気持ちと同等もしくはそれ以上まで追いついてきたのだ。この一瞬で。抗うことなど出来なかった。噛み合ってはいけない、歯車の噛み合ってしまう音が聞こえた気がした。





 彼と会ったある夜の日。私はわざと眠いフリをした。本当に眠かったのもあったが、少しだけ演技をした。彼に一度触れてしまったら、甘えてしまったら、また去年と同じように苦しくなってしまう。同じ沼にはまってしまう。また彼を思ってきっと涙を流してしまう。会話を楽しみつつも、横顔に見とれつつも、自分を抑えていた。その日は珍しく、指一本触れなかった。彼も触れては来なかった。


 後で知った事だが、案の定彼には現在彼女がいた。何人目なのかは分からない。最近できた彼女なのかも分からない。その彼女にスマートフォンを見られたのか、彼が私と会話をしているのが気に入らないらしく、連絡出来ないと謝られた。朝起きてすぐそのメッセージを見て、少し落ち込んだ自分に驚いた。ああ、もう手遅れだ。私は既に沼に溺れていたのだ。昼からバイトが入っていたのがせめてもの救いだった。少しでも気を紛らわせられると思った。

 バイトはそこそこ忙しく、程よくスッキリした気持ちになり、これでまたしばらくは彼からの連絡は無いだろうと思うと少しだけ苦しみから解放された。私はまた私の恋を頑張ろうと思いながらタイムカードを押し、スマートフォンを見ると、連絡出来ないはずの彼からのメッセージが届いていた。

 「連絡先を送信しました」「不在着信」

 …彼は一体なぜ現在の彼女と付き合っているのだろう。少しの嬉しさ、少しの呆れを感じつつ、心のどこかでこうなるだろうとは思っていたので少し笑った。以前もこういうことはよくあった。私と会っているときに当時の彼女から「今どこにいるの?」というメッセージを貰っていた彼はすぐさま「友達の家」と答えていたのを隣で見ていた。そう簡単に私との繋がりを完全に断つような人ではないと、何となく分かっていた。推測だが、彼は束縛を嫌うタイプだ。あの手この手で外部との接触を試みる姿が目に浮かぶ。三、四年ほどで彼の性格が少しだけ分かるようになった。相変わらず普段の行動パターンは読めないままだが。

 とりあえず、新たに送られてきた連絡先はすぐに追加した。しかしながら、冷静に彼女側に立って考えてみると、陰で彼氏がこんな事をしているのかと思うと、彼女という立場も相当不安になるし苦労するだろうなと感じた。現在の彼女が私を特定するようなメンヘラではない事を願うばかりだ。



 私は彼に対して、それぞれ相反する感情を同時に抱いている。愛と憎しみ。好きと嫌い。会いたいけど会いたくない。そばにいてほしいけどいてほしくない。触れてほしいけど触れてほしくない。キスしたいけどしたくない。セックスしたいけどしたくない。噛み跡を付けてほしいけど付けてほしくない。好きになってほしいけどなってほしくない…他にも色々ある。自分でも頭がおかしいと思っている。最大の矛盾ばかりを抱えている。いっそのこと彼に対する恋愛感情が無くなってしまえばいいのにと思ったが、これは紛れもなくあの時安易にからだを委ねてしまった私自身の責任であり、自業自得である。己が生んだ地獄なのだ。願望が叶っても苦しみ、願望が叶わなくても苦しむことが分かっているから。自分がもうこれ以上苦しむのが嫌なら、無理にでも終わらせられればいいのに。私がもっと強ければ、彼に一言、「もう会わない」と言えたなら、この関係は一瞬にして幕を閉じる。しかしそんな簡単な事が出来ないし終わらせたくないから、いつの間にか三、四年も経ってしまった。私はこれからどうすればいいのだろう。まだまだ結論は出そうにない。いつかこのループから抜け出す事ができた時、私たちは本当に幸せに、前に進めるのだと思う。頭ではとっくに分かっている。彼はその辺りをどう考えているのかは分からないし考えてすらいないのかもしれないが。いずれにせよ、私たちは拗らせてしまった結果腐れ縁のようなものになってしまった。しかしどんな形であれ結果であれ、彼は私にとってとても大切な、誰にも替えがたい人生の一部であり、貴重で不純な青春時代の象徴であるのは事実である。


ここに書き記した私の経験談は、ほんの一部に過ぎません。客観的に読んでみると、本当に何も生まない関係だと思いましたが、それでもやめられないのです。今もこれからも、夏が来る度に思い出してしまいます。夏というのはどこかノスタルジックで、不思議と苦しく切なくなる季節だと思うのです。だから少しでも楽になれるようにここにひっそりと吐き出してみたのです。

ふと感傷に浸るのは、誰にでも一度や二度ある事だと思うのです。私はそれを一旦、全部夏のせいにすることにしました。苦しかった過去でさえ、モヤモヤでさえ、夏の不思議な魔力によって美化され、少しはドラマチックに演出してくれますから。夏も彼も苦しみも、全て、私だけの青春です。もう少しだけ浸ることにいたします。

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― 新着の感想 ―
[一言] 度々失礼いたします。 返信戴き有難うございます。 ほっとしました。
[一言] こちらも夏が訪れています。 “私だけの青春”なのに 私が読ませて戴いたことで 砂粒くらいでも 胸の苦しみが楽になれば と思ってしまいます。 ごめんなさい。
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