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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

追放聖女は最強剣士に溺愛される〜喋れないからって聖女じゃなくなりましたけど、出会った私のお婿さんは最高です〜

作者: 守次 奏

「フランチェスカ、貴様は聖女に相応しくない!」


 十五歳の春に、わたしがお父様からぶつけられたのはそんな言葉だった。

 エリアルド皇国。代々「聖女」の加護によって魔物から領土を守ってきたこの国において、わたし、フランチェスカ・アクアマリンは新たな「聖女」としてこの国を守るための任に就くはずだったのだ。

 だけど、お父様が怒る理由はわたしにもわかっている。

 わたしは、生まれつき口を利くことができない。

 耳は聞こえるし、目も見えているけれど、どんなに練習したって言葉がうまく喋れないから、多分それがお父様やお母様にとっては、疎ましかったんじゃないかと思う。

 呆気にとられているわたしをよそに、本当はわたしが登るべきだった教会の祭壇に悠々と登っていく人影があった。


(エリザベート……!)


 わたしと良く似た顔立ちだけど、つり目気味で、わたしがお父様と似た青髪なら、エリザベートはお母様と良く似たブロンドだ。

 そして、エリザベートはわたしと違ってちゃんと喋ることができる。

 だからあの場所に立っているのだろう。

 そして、だからこそあの場所で──わたしが本当だったらこの日身を捧げていたはずの、エリアルド皇国第二王子、ガウェイン・エリアルド様の隣にいるのだろう。

 がくり、と、頽れて膝をつくわたしにかけられる慰めの言葉はない。

 むしろ、飛び交うものは嘲笑ばかりで、やっぱり喋ることのできない聖女なんて、この国にはきっといらないんだろう。


「グランブルーノ卿がおっしゃった通りだ! フランチェスカ・アクアマリンは聖女に相応しくない! よって、私ガウェイン・エリアルドは、新たにエリザベート・アクアマリンを聖女として正室に迎え入れることを決定する!」


 ガウェイン様のお言葉を受けて、参列していた貴族たちは、わあっと、歓声を上げて盛り上がった。

 わたしはただ置き去りにされて、ぽつりと涙を滲ませることしかできない。

 でも、それも仕方ないんじゃないかって、心のどこかで思ってしまう。

 貴族の中でも同じ年頃の子と交流した時、わたしが言葉を喋らないことを馬鹿にされたことがあった。

 だけど、それは仕方ない。

 だってわたしがどんなに願ったって、わたしの喉は言葉を紡いでくれないし、紙に文字を書いてコミュニケーションを取ろうとしたって、相手は呆れることばっかりだ。

 だから、追い出されることだっておんなじで、聖女に相応しくないなんて、そんな風に詰られるのだって。


「……っ……ぁ……」

「何を泣き喚いておるか、みっともない。ともかくフランチェスカ。お前はもうこの家の娘ではない、お前のような娘をこの家から出してしまった贖罪として、国境線の街へと追放する!」


 頽れて涙をこぼすわたしにかけられるものが、まさか慰めなんかであるはずがない。

 お父様はぐい、とわたしの襟首を引っ掴むと、そのままわたしをずるずると引きずって、まるで、ゴミでも捨てるように教会の外に放り出してしまう。

 ああ、そうか。

 わたしは、ゴミなんだ。

 誰からも見向きもされない、そして誰からも愛してもらえない。

 声が出ないというだけで、喋れないというだけで。

 ばたり、と、閉じられていく扉の隙間から見えたエリザベートは、わたしを哀れむでもなく嘲笑していた。

 こんな姉を持っていたことが恥ずかしいとばかりに、そしてガウェイン様の寵愛を受けるのは自分こそが相応しいとばかりに、勝ち誇っていたのだ。

 悔しい、という気持ちは、不思議と沸き起こらなかった。

 何度も何度も、朝起きては祈り、昼に祈り、夜に眠る前に祈るという、聖女としての生活が、その習慣がわたしにそうさせていたのかもしれない。

 だけど、ただひたすらに悲しかった。

 だって、そうでしょう。


「……っ……! ぁ、ぅ……!」


 わたしを産んでくれたお母様からも、わたしを育ててくれたお父様からも、愛されるどころか、ゴミのように扱われて、悲しくならない人なんてこの世のどこにいるんだろう。

 もしもいるのなら、その心の強さを分けてほしかった。

 わたしが生まれた時に愛されていたのはあくまでも「聖女」の候補だからであって、わたし自身を愛してくれる人なんて、どこにもいないんだ。

 そんなことを突きつけられれば、正気なんて保っていられるはずもない。

 だからわたしは、出せない声の限りに泣いた。

 泣いて、喚いて。

 子供みたいに、喉から嗚咽が溢れてくれればどれだけよかっただろう。

 それなのにわたしの喉から出てくるものは、掠れた、声にならない音ばかりで。

 ああ、そうだ。

 きっとこんなだから、愛されなくて、そして、きっとこんなわたしだから、捨てられちゃったんだ。


「……っ、ぁぁ……っ……!」


 普通の人みたいに喋れたら、どれだけよかっただろう。

 普通の人みたいに、泣いて、喚いて。

 それで明日の朝に目覚めたら、当たり前のように笑っていられたら、どれだけ幸せだっただろう。

 わたしは、一頻り泣き喚いた。

 それが何の解決にならないと知っていても、そうせざるを得なかったのだ。




◇◆◇





「それではフランチェスカ様……いえ、フランチェスカ、これにてお別れで御座います」


 執事のセバスチャンが御者を務める馬車から、わたしは護衛の衛兵に肩を掴まれて、乱雑に放り出された。

 別れ。追放を宣言されたから、それが来るのなんて当たり前だとわかっている。

 だけど、わたしの姿は元聖女だと思えないくらいみずぼらしいローブ一枚というもので、地面に放り出されて擦り傷を作ったのを見て、衛兵たちは笑っていた。

 まるでわたしの人生みたいだなあ、なんて、そんなことを思いながら、痛みに涙を浮かべつつ、自嘲する。

 だってわたしは、ボロ雑巾みたいなものだから。

 ゴミだから、価値がないから、こんな風に乱雑に捨てられる。

 仕方ないんだとわかっていても、それでもやっぱり、小さい頃からわたしを育ててくれていたセバスチャンからもこういう扱いを受けるというのは堪えるものだ。

 馬の嘶きが響いて、ガタゴトと馬車の車輪が軋む歌を奏でながら、来た道を引き返していく。

 ここはエリアルド皇国の辺境にして、隣国──ともいえない、魔王領との国境線、通称「帰らずの谷」だ。

 そんな場所にわたしが放逐された理由は単純だ。

 ここに住まう魑魅魍魎どもに喰ってもらって、それで人生の幕引きとするのだろう。

 よろよろと立ち上がりながら、本当であれば立ち寄るのでさえも危険な荒野を、わたしはただ、ひたひたと素足で、当てもなく彷徨う。

 食べられそうなものは何もない。

 立ち並んでいる木々は、魔王領から吹き出してくる瘴気のせいで枯れ果てていて、皮を剥いで食べれば一日ぐらいは生き延びられそうだけど、精々そのぐらいだ。

 おまけに水溜りも毒の溜まりと化していて、それは軽く足を浸しただけで三日間、腫れと高熱にうなされるくらいに強烈な呪詛が込められたものであることをわたしは知っている。

 こんな場所で何をして、どこに行けというのだろう。

 ふらふらと歩いているわたしの問いに答えてくれる人は誰もいない。

 わたしでさえも、その答えを知らない──いや、違う。

 知っているのだ。わかっているのだ。

 認めたくないだけの話で。

 だって、こんな場所でボロ雑巾のように捨てられて、魔物に喰われて死んでしまえって言われたって、そんなの認められるはずがない。

 わたしは、別に何も望んでない。

 聖女にだって、なりたくてなったわけじゃなかった。

 ガウェイン様がわたしを愛してくれるのなら、その愛には報いようと思ったかもしれない。

 ただ、生きていたかった。

 当たり前のように息をして、誰かを愛して、愛されて。

 でもそれは、こんな罰を与えられるほど罪深いものなのだろうか。

 昨日から何も食べていないせいで、ふらりと目眩がして、わたしはぱたり、と、荒野に倒れ伏してしまう。

 そして、そこを伺っていたのだろう。

 一年中立ち込めている霧の中から、巨大な棍棒を持った魔物が舌舐めずりをしながら現れてくるのが、霞む視界の片隅に映る。


『久しぶりの人間だ……痩せ細ってて旨くはなさそうだが、まあ小腹を満たすにゃ丁度いい』


 その魔物は、トロール族の中でも極めて強力な上位種──トロールオーグと呼ばれるものだった。

 紫色の肌に、大木を引き抜いてそのまま荒削りに棍棒へと加工したような鈍器を振り回す、粗野な外見とは違って、頭も回るし魔法も使える恐るべき魔王の尖兵だと、幼い頃に聖女として教えられた記憶が脳裏に蘇る。

 戦わなければいけないと、頭の中ではわかっていた。

 でも、体が動いてくれないのだ。 

 わたしは確かに喋ることこそできないかもしれない。

 それでも、ちゃんと魔法は使うことができるし、聖女が聖女として認められる条件の、「神聖結界魔法」だって、ちゃんと使うことができる。

 でもそれは、万全の状態での話だ。

 お腹は減っているし、喉だって乾いてるし、心だってこれ以上ないくらいぼろぼろに痛めつけられている。

 そんな状況で、わたしは立ち上がることなんてできなかった。

 ただ漫然と、これから振り下ろされる死を受け入れるしかないのだと、そう思っていた。

 ──だけど。


「唸れ、獄炎剣ラーヴァティーン!」


 清らに燃える炎が、爆ぜる閃光が、閉じられかけていたわたしの目蓋の隙間から微かに覗く。


『バカな、き、貴様は……』

「魔物と悪党に名乗る名前などない……!」


 一瞬だった。

 一瞬の内に、その声と、獄炎剣と名乗りながらも清らに燃える、煉獄の焔のようなその剣を携える騎士様は、一刀の元にトロールオーグを切り捨てるという離れ業を披露して、わたしの元へと駆け寄ってくる。


「……もう大丈夫だ。立てるか?」


 騎士様の問いかけに、わたしはふるふると首を横に振る。


「そうか……ならば少し、身体に触れる無礼を許してほしい」


 騎士様はしばらく考え込むように、細い顎へと指をやると、致し方ないとばかりにわたしの体を抱きかかえて、共に来たのであろう愛馬へと乗せて、その白馬を華麗な手綱捌きで走らせていく。

 いわゆるお姫様抱っこだ。

 そしてわたしは、助けられたことに安堵こそしていても、不安で不安で仕方がなかった。

 騎士様も、わたしが喋れないことを知ったら、やっぱりお父様やお母様みたいに、ボロ雑巾のようにわたしを捨ててしまうのだろうか。

 ただそれが怖くて、怖くて。


「……っ……ぁ、ぅ……」

「……余程怖かったのだな。だがもう大丈夫だ。それでも泣きたいのなら……好きなだけ泣くといい」


 俺が、胸を貸そう。

 そう断言してくれる騎士様は頼もしくて、あたたかくて。

 別な意味で泣いてしまいそうになるけれど、わたしの心の奥深くに染み付いたその恐怖は、決して剥がれることなく心臓に冷たい牙を突き立てているのだった。




◇◆◇




 わたしを拾ってくださった騎士様は、魔王領の監視を担っている辺境伯、ロイ・ヴァーネス卿というらしかった。

 幼い頃から聖女として、外界の情報は魔物の知識だとか聖女としての振る舞いだとかしか教えてこられなかったからわからなかったけれど、ロイ様は、伝説の聖剣を手にしたことでその功績が認められた凄腕の剣士らしい。

 そして、「聖女の結界」を破ろうとしている魔物を一人で屠ってきた、と語ったロイ様の力が本物であるのは、あのトロールオーグを一刀両断してしまったことからも窺える。

 一方でわたしは、喋ることができないから捨てられた元聖女でしかない。

 そして、元聖女という肩書きは辺境伯と比べることが失礼な程に無価値なものだ。

 それなのに、どうしてかロイ様は、青髪に青い瞳という、貴族の間では高貴の象徴とされるブロンドからも外れているわたしを丁寧に介抱してくださっている。


「……調子は、どうだ」

『ありがとうございます、お陰様で、とても良くなりました』


 わたしが喋れないことは、ロイ様になんとか身振り手振りで伝えていた。

 そうして渡されたのが紙束と羽ペンであり、実家でそうしていたようにわたしは、紙に文字を書くことで言葉の代わりとして、ロイ様とのコミュニケーションを取っているのだ。


「……それは何よりだ。君のような子がこのヴァーネス領に一人で倒れていた時は、思わず我が眼を疑ったよ」


 自分の領地が、都合のいい流刑地として使われていることは、ロイ様としても心外らしい。

 だからか、我が眼を疑った、という言葉には怒りが滲んでいたし、わたしの浮かべる曖昧な笑みに対しても、彼はどこか悲しそうな視線を向けてくる。

 でも、わたしはそれが不思議で仕方なかった。

 だって、わたしは──ゴミだから。

 いらないものとして捨てられたから、価値がないものとして扱われたから、家からも追放されて、聖女にもなれなくて。

 思い出すだけで、涙が眦に滲んで、はらりとこぼれ落ちていく。


「……君の名前を聞いていなかったな、よければ聞かせてもらえないだろうか」


 涙にくれるわたしの頬をそっと指先でなぞり、優しくその指で髪を撫でながら、ロイ様は静かに、そして控えめにその口元に笑みを湛える。

 笑うのが苦手な人なのかもしれないと、失礼かもしれないけど、わたしはそう思ってしまった。

 でも、今はそんなぶっきらぼうな優しさが何よりも嬉しくて。


『フランチェスカ・アクアマリンと申します』


 フランチェスカ。

 そう名乗ることが許されるのかどうかはわからないけれど、わたしは涙でインクを滲ませながら、与えられた紙に、生まれ持っているはずの名前を記した。


「……アクアマリン、なるほど」

「……」

「……フィオナ」

「……?」

「フィオナ、というのはどうだろうか」


 君の、名前だ。

 アクアマリンという家名と、そしてあんな身なりで辺境に倒れていたことから全てを察したのか、ロイ様は、わたしが記したその名前の下に書き加える形で、「フィオナ」という文字を刻む。

 フランチェスカだからフィオナ。

 もしも両親がちゃんとわたしのことを愛してくれたなら、そう呼んでくれたのだろうかと、信じたくなってしまうくらい、それはあたたかさを感じる呼び名で。


「……っ……!」


 わたしは、思わず涙を零してしまう。

 悲しいんじゃない。

 この胸に抱いているものは、捨てられた時みたいに、ボロ雑巾のように扱われた時みたいに、実の妹からも、そしてずっとわたしを育ててくれた執事からも不要なものを見るような目で見られたときみたいな想いじゃないはずなのに、どうしてか涙が溢れてしまうのだ。


「……す、すまない。不快だったか?」

「……っ!」


 慌てて取り消そうとするロイ様の言葉にわたしは首をぶんぶんと横に振って、紙に、名前はわからないけれど、きっと今抱いている想いを表すのならこうなるんだろうな、という単語を書き記す。


『嬉しいんです』


 誰かに愛情深く、フィオナと呼ばれたことなんてなかったから。

 それどころか、フランチェスカという名前だって呼んでもらえたかどうか怪しい。

 お父様やお母様がわたしを呼ぶ時はいつだって「お前」だとか「あれ」ばかりで。

 エリザベートは仕方ないのかもしれないけれど、あの「お姉様」という呼び方にはきっと少なからず侮蔑がこもっていた。

 だからこそ、泣いてしまう。

 あたたかく、名前を呼んでくれる。

 ただそれだけのことが、奇跡みたいで。

 どんな涙でも足りなくて、どんな笑顔でも足りなくて。

 わたしは言葉にならない嗚咽をただ、溢すことしかできなかった。

 それでも、ロイ様はわたしを優しく抱きしめて、そっと、慈しむように髪を撫でてくれるのだった。





◇◆◇




 ロイ様に拾われて三ヶ月、わたしは相変わらず喋れないけれど、少しだけ前を向くことができるようになった。

 辺境で魔王領と接しているヴァーネス領は、その国境線こそ噴き出す瘴気の影響で殺風景な景色が広がっているけれど、城砦近くにはまだ豊かな緑が残っていた。

 わたしは、正直にいってあの殺風景な国境はあまり好きじゃない。

 でも、ロイ様と過ごすこのヴァーネス城砦での日々は、かけがえなく、愛おしいものであると感じている。

 敷物の上にケーキや紅茶を並べたお茶会は、ロイ様が塞ぎ込んでいたわたしのためにわざわざ考えてくださったものだ。

 だから、彼にはどれだけ感謝してもし足りない。

 命を助けてもらっただけじゃなく、フィオナ、と、愛情深く名前を呼んでもらって、どういうわけかこうして慈しみ深く接していただいている。

 だけど、この御恩に対して、わたしは一体何ができるのだろうかと、考えてしまうのだ。


「あまりいい場所ではないだろう、フィオナ」


 紅茶を一口含みながら、ロイ様がそう嘆息した。

 ロイ様は、いつも自分の所領について謙遜されている。

 勿論、ここに生きている領民について貶しているわけじゃないを

 ただ、隣に接している魔王領──ヴァンパイアロードが支配する自称魔族国家、「メギドラム帝国」の存在がどうしても気にかかってしまうらしい。


『わたしは、ロイ様と過ごせるこの城砦とヴァーネス領が大好きです』


 さらさらと、紙に文字を書き留めて掲げてみせれば、ロイ様は少しだけ困ったように口元を吊り上げて笑う。

 無愛想なひとだ、というのが世間からロイ様に下されている評価なのだけれど、わたしはそうは思わない。

 だって、気づかないだけで、ロイ様はこんな風に表情豊かに笑顔を浮かべられるし、冗談だって時折飛ばしてくれるくらいに気さくなお方なのだ。

 それでも、魔王領と隣り合っている辺境伯として、常に威厳を保っていなければいけない、というところはあるのだろう。

 品がない行いを許してくれ、と、苦笑しながら、ロイ様はケーキを一口にぱくり、と、平らげてしまう。


「……君といると、領主としての重荷が少しだけ降りるようだ。不思議なものだな」

『それは、どういう……?』

「人間は、非合理的なものだ。常に説明できることばかりじゃない。それでも、説明をつけるなら……そうだな」


 ロイ様は真剣な眼差しでそう語られたかと思えば、急に細い顎に指をやって考え込むような仕草を見せる。

 まるで、幼い頃に覗いた万華鏡のようだと、そう思った。

 あれは生まれた間もないエリザベートにすぐ取られてしまった。

 けれど、それでもくるくると回すたびに景色が変わるそれは、わたしにとっての、お気に入りであることに違いはない。

 だから、ロイ様は万華鏡だ。

 とても、素敵で。

 くるくると装いを変える、だけど真剣に一本筋の通った黒曜石の眼差しを形容する言葉を、わたしは、それ以外に何も知らない。

 ただ、その無知が悔しくて。


「……どうして泣いている?」

『ロイ様は素敵なお方です、なのにわたしは、貴方を表す言葉を知りません』

「……ふ、ははは。フィオナ。ならば君も……俺と同じだ、ということだな」


 俺も、今この胸にある感情がなんであるのか、とんと名前をつけられないのだ。

 ロイ様は困ったように、そしてばつが悪そうに黒髪をかき上げながらそう言った。

 同じ。

 わからないことが嫌だったのに、そう言ってもらえるだけで、なんだか嬉しくなってしまうのは、わたしの思考回路があまりにも単純だからなのだろうか。


「……人生に正解はない、フィオナ」

『はい、ロイ様』

「……だから、少しだけ……試させてはもらえないか」


 その言葉と共に、均整なお顔が近づいてきて、わたしの胸は高鳴りを覚える。

 ああ、そうか。

 多分きっと、わたしも、ロイ様も、どうしてかはわからないけれど、それでも胸の内側に抱いてしまったその感情に翻弄されている。

 ずっと、流れに身を任せてきたような人生だった。

 浮草のように、そうでなければ宙を舞うひとひらの塵のように──それでも、こんな素敵な流れに身を任せられるのなら。

 ファースト・キスはレモネードの味だと小さい頃に読んだ本にはそう書かれていたことを覚えている。

 だけど、今初めて交わしたベーゼは、クリームと、微かな苺の味がした。

 きっと幸せに、その言葉に味があるのなら、こんな感じなのかもしれない。

 脳の髄が熱を帯びて、とろけていくような感覚と共にわたしは、触れ合う体温が互いに溶け合って、高鳴る鼓動が同期していくような感覚に、身を任せるのだった。




◇◆◇




 魔王領から侵攻してきた大軍勢が、「聖女の結界」を破って、エリアルド皇国まで侵攻してきたという知らせが届いたのは、初めてのベーゼから、わずか三日後のことだった。

 魔王を自称するヴァンパイアロード、ガイザードが率いてきた軍勢は、わたしに代わって聖女となったエリザベートが作った結界を易々と打ち破って、王都は今、火の海と化している。

 空間転移の魔法でヴァーネス領を訪れた宮廷魔術師は脂汗を額に浮かべながら、ロイ様へとその旨を伝えた。


「聖女の結界が破れただと? まさか、あのエリザベートという女……」


 聖女になるためには、並外れた魔力の存在が求められる。

 だからこそ、わたしは毎日朝昼晩と神様にお祈りを続けていたのだろうし、物心がつくまでは両親に、喋り出すことを期待されていたのかもしれない。

 でも、結局メンツを優先した結果がこれなのだ。

 エリザベートも、並の宮廷魔術師に近い魔力は持っているけれど、それではあの魔王ガイザードには対抗できない。


「……俺は往かねばならない、フィオナ。君はここに残ってくれ」

「……っ……!」


 ロイ様は、悲壮な決意をその瞳に宿して、鎧像に持たせていた獄炎剣ラーヴァティーンをその背中に帯びる。

 わたしは、もう聖女じゃない。

 さらさらと、紙に文字を書き留めながら、わたしはわたしにできることを思考の片隅で考える。

 聖女の役割は、二つ存在する。

 一つは結界の維持だ。

 昼夜を問わず魔力を注いで祈り続けることで、魔王領から本土への侵攻を防ぐ、言ってしまえば人柱のようなものが、聖女の役割の一つなのだ。

 そして、もう一つは単純だ。

 今回のような事態が起きた時、聖女はその結婚相手である騎士に「祝福」と呼ばれる、聖女にしか使うことのできない魔法を与えることで英雄を作成して、国難を凌ぐ。

 だからこそ、聖女じゃなくなったわたしにそれができるのかどうかはわからない。

 でも。


『わたしも、ロイ様のお供をさせてください。「祝福」の魔法を試したいのです』

「祝福、だと……? いや、しかし……そうだな、フィオナ」

「……っ、ぁぃ」

「祝福は、夫婦の契りを結んだ者にしか与えられない……そうであったな?」


 ロイ様からの問いかけに、わたしはこくこくと首を全力で縦に振った。

 そうだ。もう一つの問題がそれなのだ。

 結婚とは、婚姻の儀を執り行うという意味だけに留まらない。

 神様が見ている場所で、その魂と魂を結び合わせる儀式──即ち、結魂としての意味をも持ち合わせているのだ。

 そして、結ばれあった魂の間でしか、「祝福」の魔法は発動されることはない。

 だからこそわたしは、自分がとんでもないことを言って、もとい、書いてしまったのだと、ここにきて顔を真っ赤にしてしまう。

 それでも、ロイ様の瞳が揺らぐことは決してなかった。

 わたしを真っ直ぐに見据えて、肩に優しく手を置くと、ふっ、と、微風のように微笑んで問いかけてくる。


「……俺は、君と結ばれたい。だからこそ、俺が君の言葉に……剣になろう! 君は……どうだ? フィオナ。君の気持ちを、聞かせてほしい」

「……っ……!」


 一瞬、夢なんじゃないかと、そう疑いたくなった。

 だけど、自分の頬っぺたを引っ張ってみてもちゃんとそこには鈍い痛みが走って、今目の前にあることと起きていることが、紛れもない現実であることを教えてくれる。


「……ぁ、ぃが……と……」

「そうか……ならば宣言しよう! 私ロイ・ヴァーネスは、フランチェスカ・アクアマリンを永遠の伴侶として共に歩もう! 魔術師よ、其方も見届けたな!?」

「はっ、ヴァーネス卿、フランチェスカ様!」


 宮廷魔術師が婚礼の儀を承認したことで、わたしとロイ様の魂が繋がり合う、不可思議な感覚が全身を満たしていく。

 そして、撃発するように、爆ぜるように、わたしの喉は言葉こそ紡がないけれど、確かにその魔法を発動していた。


「……っ……!」


 ── 祝福(Eleison)

 それは聖女の持つ魔力を一時的に騎士へと預ける魔法であり、祝福を受けたことでロイ様が背に帯びる獄炎剣ラーヴァティーンもまた、わたしたちを憐むように清らな炎を放つ。


「フィオナ……君がいれば、俺は負ける気がしない。いつまでも、共に歩んでほしい」

『わたしも……喜んで、ロイ様』

「……ありがとう、フィオナ。ならば行くぞ魔術師よ、転移の魔法を!」

「はっ!」


 そうして、獄炎剣から煉獄剣へと一時的にクラスアップしたラーヴァティーンを背負ったロイ様とわたしは、宮廷魔術師が発動した魔法によって戦場となった帝都へと解けていく。

 エリザベートや両親のことが憎くないかと問われて、首を横に振ったのならそれは嘘になる。

 それでも、わたしは。

 わたしは、ロイ様が愛するこのエリアルド皇国の民を守りたい。

 もう聖女じゃなくたって。

 例え生みの親にも捨てられたって。

 わたしには、隣にいてくれる、最高の旦那様がいるのだから。





◇◆◇





 結論から言ってしまえば、魔王ガイザードが討ち果たされたのは一瞬のことだった。

 元よりヴァンパイアが苦手としている炎が、祝福の効果によって更に強力になったことで、ガイザードがその攻撃や防御に利用していた呪いの魔力は呆気なく焼き尽くされ、そして残った軍勢も、ガイザードを失ったことで散り散りに潰走して、騎士団に各個撃破されるという端末を辿ったのだ。

 結界が破られた責任を問われて、エリザベートと、そしてエリザベートの「祝福」ではガイザードに及ばなかったガウェイン卿は、その責任を取る形で聖女の座と専属騎士の地位を退くことになった。

 とはいえ、ガイザードがいない今も、このエリアルド皇国は魔物の巣である魔王領メギドラムからの侵攻という脅威が途絶えていない以上、それは一時的なものに過ぎない。

 わたしは、聖女に返り咲くことはなかった。

 両親が今更縋り付いてきて頼み込んできたけれど、聖女を決めるのは教皇庁であって、わたしの一存でどうにかできる話じゃない。


「……俺も、少しはこの景色が好きになってきた」

『それは……とても良いことですね』

「ああ、フィオナ。君のおかげだ」


 だからわたしたちはこうして、今日も辺境であるヴァーネス領で、魔族たちの動向を見張りながら、小さなお茶会を営んでいる。

 違いがあるとすれば、わたしとロイ様の薬指に指輪が嵌められていることぐらいだろうか。

 苦笑するロイ様につられて、わたしも口元がつい綻ぶのを感じてしまう。

 今までいいなとばかりじゃなかった。それどころか、ろくなことのない人生だった。

 それでもこうして、わたしなんかが最高のひとに、世界で最も気高くて強い騎士様の寵愛を受けることになるのだから、運命の女神様の気まぐれというのはわからない。


『もしそうでしたら……わたしはとても嬉しいです』

「俺の言葉に……嘘はないよ」

『ロイ様』

「……ぁ、ぃ……が、と……」

「……俺の方こそ、ありがとう。フィオナ」


 お茶会は続く。そしてきっと明日も世界は続いていく。

 どんな風に転ぶからわからないけれど。

 そして、どんな風に起き上がるのか、そうじゃなければ転んだままなのかどうかも、神様じゃないわたしたちにはわからないけれど。

 だからこそ、こうして約束を交わすのだ。

 ──明日もまた、お茶会を開こう。

 そこにあるべき言葉の代わりに、わたしたちはショートケーキの味がするベーゼを、深く、長く、慈しむように交わし続けるのだった。

読んでいただいてありがとうございます。他にも長編を連載しておりますのでそちらもご覧いただければ幸いです。

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[気になる点] さて、皇王は追放の件を知っていたのかな? [一言] 【妄想設定】 父母:聖女を追放し、国家を危機に陥れたとして爵位剥奪&資産全剥奪。 司教:父から賄賂をもらっていたことが発覚。皇国で…
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