群青色の空
久しぶりの短編です。読んでくださったら嬉しいです。
「明日香、好きな人とかいる?」
友だちの彩が訊ねる。中学二年になっても、ぱっつん前髪におかっぱ頭。洒落っ気のない黒い髪。そんな私とは対照的な彩は薄茶色のセミロングをアイロンでしっかり巻いている。柔らかい雰囲気の美人だ。
「急にどうしたの?」
昼休みの教室はカーテン越しの日光が暖かくて気持ちが良い。机に突っ伏しながら眠くなり、半目で彼女を見る。
「隣のクラスにあなたのことを好きな男子がいるんだって。ねぇ、会ってみない?」
「興味ない。家のことで忙しいから」
「そぅ。残念だな」
彩は池に沈んでゆく小石のように、期待にきらきら輝いていた表情を消した。
私の両親は離婚している。母の佐々木美奈子は三十四歳。二十歳で妊娠して私を産んだ。父は五歳の頃、女を作って母を捨てた。ああ私もか。そのせいか恋愛に夢を見ることはなかった。
母から、父の話は聞いたこともない。ただ私の顏は父に似ているようで、離婚が成立してから特に嫌悪の対象になったようだった。
父がいたとき、洋服を買ってくれたりおもちゃで遊んでくれた母はいない。私は放置されている。
いつからか家事を全部やっている。母は何をしているのか? 近所のスナックで店員をして生計を立てている。ありがたいことだ。
郊外の団地ではちょっとしたことも噂になる。住人が減って話の種が無くなってきたからか、母娘のことはいつもネタにされている。全く下世話なことだ。やれ化粧が派手だの、娘にはボロばかり着せているとか、ほっといてよ。余計に辛くなるから。
小学校の卒業式の日、素敵な服を着たいなと密かに思っていた。いつも子供服は買い換えられることがほとんどなく、生地がくたびれるまで着潰していたからだ。
私が卒業証書を受け取るとき、惨めな気持ちが胸を占めていて感動する余地はなかった。
服装はいつも通りだった。
母は派手なカラースーツを来て、真っ赤な口紅を大きく塗って現れた。卒業生の席からもはっきり確認できた。別に見たくなかったのに。卒業式友人と撮った写真には、着飾った母とみすぼらしい自分がいた。
******
下駄箱に便箋が入っていた。差出人を見ると幼馴染の田中悠真からだった。放課後、誰もいない教室でこっそり封を開けた。
隣のクラスの男子って悠真だったのか。手紙はラブレターだった。彼は私のことが好きだという。
出来れば、一緒に過ごす時間を増やしたいそうだ。そんなことを言われてもどこか他人事。私は枯れている。
悠真の印象は決して悪くない。同じ団地に住んでいるが、噂話に加わることのない一家だった。それに何度も助けてもらったことがある。母から叱責され堪えられず、団地の踊り場に座り込んで泣いていたとき何度も慰めてくれた。彼から受け取った手紙は捨てる気にならなかった。彼の前なら捻くれてしまった私でも、素の自分を出せるかもしれないと夢みたいなことを考える。
自宅に帰って手紙を読み直す。顏がちょっとだけ緩む。すると酒臭い母が勝手に部屋に入って来て、ラブレターをびりびりに破ってしまった。
「どうして酷いことばかりするの!」
「中学生のくせに色気づくんじゃないよ。あんたなんか幸せになれないんだよ。男女交際なんて許さない。必ず断りなさい」
「なんでなの? 意味がわからないよ。付合うにしても断るにしても、自分で決めるよ」
珍しく母に反抗した。
「勝手にすれば」
彼女は、素っ気なく言った。泣くもんか、自分に喝を入れた。
悠真にどう返事しようか迷ったが、結局友人としてもっと仲良くなりたいと手紙を彼の下駄箱に入れた。
お互いに帰宅部だったので、帰りは一緒に話をするようになった。
「悠真、どうして私に手紙くれたの?」
「明日香のことが気になるから」
どう返していいのかわからず、黙り込む。気まずい。
「悠真って変わっているね。私の家の噂は聞いているでしょ」
自分で傷をえぐってしまう。こんなことは言いたくないのに。
「そんなの関係ない」
「もっと優しくて可愛い子がいるのに」
「俺は、明日香がお母さんとうまくいかずに辛い思いをしているけど、腐らずに我慢して強くあろうとしているのを見てきた。その強さに惚れた」
「悠真言っていて恥ずかしくないの?」
私の方が赤くなっていた。おでこから頭が熱かった。
******
悠真と帰宅することにも慣れた真夏のある日。帰宅すると缶チューハイを持って倒れている母がいた。呼びかけても答えがなく、うなされて苦しそうに唸っている。私の心拍数が急激に上がっていくのを感じる。
救急車を呼んで、母に付き添う。身の置きどころがないような不安が襲う。西日の差す待合室で彼女の目覚めを待っている間、気がおかしくなりそうだった。白い壁を夕日が染めているだけなのに、それすらも不吉な感じを受けた。
病院に到着して三時間してやっと診察室に呼ばれた。医師から、母はもう起き上がって看護師と世間話をしていると聞きホッと胸を撫で下ろした。その日は、後日検査をするというので母をおいて戻った。
戻ってから考えたのは、入院費のことだった。これからどうしたらいいのか? 家に貯蓄をする余裕はなかった筈だ。私は天井を見上げ泣きそうだった。詳しい母の容態はまだわからない。
重圧に押しつぶされそうな夜、窓から空を見た。まだ完全な藍ではなくやや明るい空。星の光も弱い。晴れない気持ちと共に、明け方ようやく浅い眠りに落ちた。
翌朝、母からのコール音に箸を止め急いで電話に出た。
「明日香、私肝臓がんだって。すぐに手術をしないといけないんだって」
殴られたかと思った。殴られた方が良かった。あの母が肝臓がん、突然のことに言葉を失う。
「治療費はどうするの?」
違う、言いたいことはこんなことじゃない。でも、平行線だった母娘関係は今さら修復出来やしない。
「さすが。冷静ね。母さんの通帳に、あんたの父さんが養育費と慰謝料毎月振り込んどったから。なんにも心配はいらないよ」
「初めて聞いたよ。じゃあなんであんなに一生懸命働いて、体壊して、母さん馬鹿じゃないの!」
受け止められないことのパレードにもう目眩を感じていた。
「煩い子。とにかくしばらく入院することになるから。明日香は来なくていいよ。勉強しっかりしなさい」
「全然納得出来ないよ。勉強は大事だけど母さん本当に大丈夫なの?」
やっと大丈夫かと尋ねられたが、電話は切れてしまった。
授業にも身が入らず、先生から注意されることまであった。一日中を上の空で過ごし、やっと悠真との帰り道だ。
「母さんはどうして私に養育費や慰謝料のこと黙ってたんだろう。そんなお金があったんなら、夕方から朝まで連日スナックで働かなくても余裕があったと思うんだけどね」
「それは、明日香のお母さんにしかわからないよ」
「私、今まで母さんにいっぱい辛い目にあわされてきたと思ってる。父さんと別れてから目の敵にされてきた。娘なのに憎まれている気すらするの」
「俺は、親だからって無理に好きになる必要はないと思う。嫌いなら嫌いでいい。選ぶのは明日香だ」
「悠真。もし母さんが死んでしまったら凄く後悔する、あんなに嫌いだったはずなのに」
「それなら、答えは決まっているんじゃないか」
「そうだね、ありがとう」
「俺は 、明日香のお母さんがただ憎いだけでお前に辛く当たったんじゃないと思うんだ」
「どうして?」
「なんとなくだ」
******
母の手術が近付いてきた。心を決め、母の見舞いに行った。静かにノックし病室に入る。個室になっていてトイレもあり案外過しやすそうだ。
「明日香来たの?」
母の顔色は悪い。
「うん、来た。母さん、具合悪そうだね」
「あんたが来たからかもね」
「母さんは憎まれ口ばかり、私に優しい言葉をかけてくれることないよね」
「あんたのこと嫌いだからね」
「私もあなたが大嫌い」
看護師さんも医師もいない、二人きり。殺伐とした会話。
「ふふ。あんたも言うようになったね」
彼女が珍しく笑った。
「思ったより元気ある?」
「馬鹿、とても苦しいよ。なのにあんたが来てくれて、嬉しいのよ。焼きが回ったのかしら」
「母さん、手術頑張ってよ。散々私の邪魔をしてきたじゃない。負けっぱなしは悔しい」
「私はいない方がいいのよ。こんな意地悪な母親なんて」
「母さんは本当に私のことが嫌いなの?」
と勇気を絞り出して訊いた。彼女はしばらく思案して、
「そんなことあるわけない」
と答えた。母の目尻が涙で濡れていた。私も彼女の本心からの言葉にじっと耳を傾けた。
「明日香は私が二十歳のときに産んだ。そのときあの人、夫は三十歳だった。切れ長の目も高い鼻も あなたは彼にそっくりよ」
「父さん似だったんだね」
記憶の父親の顏はぼんやりとしていてはっきりと思い出せない。
「物心ついた頃には、彼は家に帰ることもなくなっていたからしょうがないわね。情熱に任せて子をもうけて結婚したけれど、甘い生活とはいかなかった。私は凄く淋しがりで、丁度昇進して仕事が忙しい彼に合わせることが出来なかった。帰宅が遅くなると、浮気を疑って。最初は歩み寄ってくれていた夫も辟易して同僚と恋に落ちて家から足が遠のいていった」
「悲しいよ、辛いよ」
私は呟いていた。
「そうね、このことは墓場まで持っていこうと思っていたんだけど話してしまってごめん」
「違うよ、ずっと黙っていて苦しかったでしょ。母さん」
「私の苦しさなんて大したことない。自業自得だと思う。家事を明日香に任せてお酒に逃げてしまった。スナックの仕事は淋しさを紛らわす為にしていたのよ。お客さんと話してお酒を飲んで束の間夢を見る。一方であなたが美しくなっていくのが怖かった。私と同じように恋に失敗して、淋しくて悲しい思いをするんじゃないかって……。ううん、それだけじゃない。あなたが大切なのは確かだったけれど、未来があることに嫉妬していたのね。未熟な母でごめんなさい」
「私はまだ子供だね。ごめん、全部は受け入れられない。でも話してくれてありがとう」
久しぶりに涙が零れる。母の言葉は淋しくて辛くて正直だった。全てを理解は出来ないけれど、彼女の淋しさを埋めたいと思う自分がいた。病室を出るときに母の枕元に折り鶴をおいた。
******
母の手術は成功し、今は二人で家事を分担して行っている。スナック勤めも時間を短縮して続けている。そして私が帰宅するときには、必ず先に灯りを付け夕飯を作ってくれるようになった。
「ねぇ、悠真はどうして母さんの私への気持ちが憎しみだけではないってわかったの?」
「それは、好きな人のことは真剣に見るからさ。大切に思っているのはわかるよ」
「ありがとう」
「明日香、突然どうした?」
「何でもないの」
悠真のおかげで今まで、交わることのない平行線だった道が少し近付いた気がする。
団地に灯りが点いている。手を繋いで見上げた群青色の空は、心の深いところに刻まれた。
読んでくださった方、長かったと思います。本当にありがとうございます。




