第95話 エデンの書③
エデンの書を読み終えて牧野は思った。
これでセドナ丸の運命は明らかになった。後ほど詳細な検証は必要だが、これまでに見つかった証拠とも概ね一致しているようだし、おそらくここに書かれていることは事実だろう。
牧野は本から顔を上げた。
じっと見下ろしていたセドナ丸の末裔、ジェシカ・フランクリンと目が合った。
「これを読んで、どう思った。率直な感想を聞かせてくれ」ジェシカが言った。
少し考えてから、牧野は話し始めた。
「……あなた方の来歴、そして何を信条にしているのかは理解できたと思う。私たちは以前からセドナ丸の運命について調査を進めていた。船の残骸から見つかった記録から、あなた方の祖先が正気を失いセドナ丸を攻撃したのだと誤解していた。たしかに彼らのとったテロ行為は多数の一般市民も巻き込んでいて、社会通念上、到底容認できるものではない。だが、結果としてこの惑星の生物は救われた。私個人の見解としては、理性を失い暴走したセドナ丸の兵士や指導者たちにも非があったと思う」
「ありがとう。ところで、始祖たちが送った信号は地球に届いたのか」ジェシカが言った。
「無事、受信された。そのおかげで人類はこの星の超巨大生物について知ることができた。世界中が大変な騒ぎになったよ。そもそも、映像に映っていた超巨大生物と、突如消息を絶ったセドナ丸について調査するために我々はこの星にやって来たんだ」
「そうであったか。信号が無事届いたことを知れば、始祖たちの霊も浮かばれることだろう」
「いずれにせよ、私たちの目的は侵略や征服ではない。この惑星の生態系を破壊するつもりも、あなた方の生活に干渉するつもりもない。無論、そちらからの希望があれば可能な限り援助は行う」牧野は言った。隣にいる鳥飼も同意してうなずいた。
牧野の言葉を聞いてジェシカは少し緊張を解いた様子を見せた。だが、セルゲイはまだ疑い深い目を向けている。
「ひとつ質問がある」鳥飼が軽い調子で言った。
「なんだ」ジェシカが言った。
「君たちは今でもアヴァタールを操れるのか」
「…………」
それは牧野もエデンの書を読み進めるうちに抱いた疑念だった。
もしかしたら、末裔たちは見た目ほど原始状態に退行しておらず、まだ機能する通信機やコンピュータをどこかに隠し持っているのではないのか。仮にそうだとしたら、ギガバシレウスの怒りをかき立て、居住区を襲撃させたのはひょっとして彼らではないのか。自分たちの楽園に新たに侵入してきた罪深き文明人を消し去るために。
だが、ジェシカはため息をついて言った。
「不可能だ。我々はもはや神の化身に語りかけるすべを持たない」
「ジェシカ!」咎めるようにセルゲイが彼女を鋭く睨み付けた。
「隠しても仕方ないだろう、セルゲイ。……たしかに、始祖たちはこの世を去る前、一族の者たちに命じた。アヴァタールに語りかける機械を維持せよと。いつか地球からやってきた人々が悪しき存在だった場合、神の化身に訴えるために。だけど、ずっと昔にその機械は壊れてしまった。私が生まれる何世代も前の話だ。今では誰も直し方を知らない。今も残ってはいるが。見せてやろう」
「待て、聖なる祭壇を軽々しく異人などに……」セルゲイが抗議した。
「問題なかろう。どうせ我々にはもう、あれを動かすことも直すこともできないんだ。来てくれ、こっちだ」
ジェシカはそう言うと、墓所を出て一行を案内しはじめた。
彼らは上に向かうトンネルを登っていった。
やがて、外の光が差し込む場所に出た。そこは崖の中腹に穿たれた岩屋だった。
奥の壁際に通信設備が設置されていた。筐体は原型を留めてはいたが、電源は生きていないようだった。ジェシカの許可を得てボタンを押してみたが反応はない。扉を開けて内部を確認すると、電気機器に詳しくない牧野が一目見てわかるほど基板や配線が腐食していた。
岩屋の外に伸びるケーブルをたどると、そこにアンテナと太陽光発電パネルの残骸が見つかった。発電パネルはぼろぼろに朽ち果て、アンテナは折れて傾き、蔓植物に覆われていた。
「完全に故障しているな。もう直しようがない」牧野は言った。
「やはりな。我々はあれを聖なる祭壇として扱い、あの前でアヴァタールに祈りを捧げてきた。しかし機械が故障しているのなら祈りが通じるはずもない」ジェシカが言った。さほど意外でも残念でもなさそうな口調だった。彼女は信仰から距離を置いているのかもしれないと牧野は思った。
今まで同行していたはずのセルゲイはいつの間にか姿を消していた。
再び人々の暮らす洞窟の村に戻りながら、ジェシカが言った。
「地球にはどんな病も治す薬があるというのは本当か?」
「どんな病でも治せるわけではないが、ある程度の感染症や中毒症状ならほぼ治療可能だと思う」牧野が言った。
「そうか。……診てもらいたい病人がいるんだ」
ジェシカが案内した部屋には、一人の少年が横になっていた。
「私の息子、ロバートだ。生まれつき体が弱く、数年前から病で寝たきりだ」彼女が言った。
年齢は十代前半だろうか。骨と皮だけにやせ細り、落ちくぼんだ眼窩の奥からうつろな瞳でこちらを見上げていた。
「他の子どもたちは幼いうちに皆、病気で死んだ。この子が最後に残った私の子どもだ。この子の病を治せるか」ジェシカは言った。
「……どうする?」日本語に切り替え、牧野は鳥飼に意見を求めた。
「彼らとの信頼関係を築くには絶好の機会ですね。ですが、この捜索隊の中に医療の専門家はいない。この場で正確な診断を下し治療するのは不可能でしょう。後日、医療に詳しい者を連れて再訪問すると約束しましょう」
「わかった。ありがとう」
牧野はその旨をジェシカに説明した。彼女は納得してくれた。
「できるだけ早く頼む。いつまで持つかわからないからな」ジェシカがそう言った途端、ロバートが咳き込んだ。ジェシカはその背中を撫でさすった。
牧野たちは再会の約束をしてジェシカたちの洞窟の村を辞した。
帰路、牧野は慣れない対外交渉に疲れ果てて無言になっていた。
「はじめての接触としては、なかなか上手くいったと思いますよ」鳥飼が言った。自分の務めを果たせたことでその声は弾んでいた。
「二百年にわたり孤立していた集団との接触としては意外なほどスムーズにいったな。だって、生まれてから今まで自分たち以外の人間を見たことがない連中なんだぜ。もっと意思疎通が上手くいかなくてもおかしくなかった」伊藤が言った。
「たしかに。それにはジェシカの存在が大きかったと思います。彼女の頭の回転の速さと柔軟さは特筆に値しますよ。もし地球文明圏で生まれていたなら、さぞかし立派な人物になったことでしょうね」鳥飼が言った。
鳥飼の言葉を聞いて、牧野はまもなく生まれてくる自分の子供のことを思った。
すでに男子だということがわかっていた。彼が生まれ、そして育っていくのはテレストリアル・スター号乗組員とその子供のたった百人程度しかいないごく小さい集団なのだ。そんな狭い社会では、彼の人生は選択肢のほとんどないものにならざるを得ないだろう。職業、住む場所、それに出会う人々も……。そう、まさにジェシカの村と同じように。大勢の人々が暮らす地球で育った自分が享受できたような自由は息子には望むべくもないのだ。そのことに初めて思い至り、牧野は胸を突かれた思いがした。
捜索隊一行は食肉植物の森の中を下って行った。着陸艇はもうすぐだ。
その時だった。
森の中に赤い閃光が走った。直後、小さな破裂音がして火花が弾けた。
「何だ!」牧野が驚いて言った。
「たった今、攻撃を受けた」橘が言った。
彼女の周囲にはいつしか三機のドローンが集結しスズメバチのように甲高い飛行音を響かせていた。
「ドローンが自動的に飛翔体を迎撃した。長さ七十センチメートル、形状から矢だと思われる」橘が言った。
「矢だって?いったい誰が」伊藤が言った。
さらに閃光。そして火花。今回は同時に三つ。
さらに続けて矢が射かけられたが、すべてドローンのレーザーが難なく撃ち落とした。
「攻撃は無駄だ。出てこい!」橘は英語で呼びかけた。
矢の攻撃は止まった。だが、彼女の呼びかけに応える者は誰もいなかった。
やがて、藪をかき分ける音だけを残して襲撃者たちは去っていった。
「今のはいったい……」牧野は茫然として言った。
「あの村にいた男、セルゲイたちだ」橘が言った。
「何だって」
「ずっと後ろをつけてきていた。気付いてはいたが、まさか攻撃してくるとはな」橘が言った。
たしかにセルゲイはジェシカに比べ、一族の伝統や信仰を重視しているようだった。
自分たちが長年続けてきた生活を外部からの侵入者に乱されるのを快く思わない人間がいても当然だった。そして、セルゲイの危惧は当たっていた。文明世界と接触した以上、彼らの生活は二度と以前の状態に戻ることはないだろう。多くの者が文明を求め、古くからの習慣と信仰はいずれ捨て去られるだろう。
それを食い止めるチャンスがあるとしたら、今だけだった。だがそれも失敗した。
「やはり一筋縄ではいかなかったか」鳥飼が言った。
「ジェシカの身が心配だ。あの男が暴挙に走らなければいいが」牧野が言った。
「そうだな。いったん着陸艇に乗り、村まで直接飛んでいけばあいつらを先回りできるはずだ」橘が言った。