第85話 朽ちゆく巨竜
まず反応したのが無人機に搭載されたガスクロマトグラフ装置だった。
アンモニア、硫化水素、メチルメルカプタン。空気中に検出された化学物質はいずれも有機物の腐敗で発生する成分だ。近づくにつれてそれらの濃度はますます上昇していった。もしその場にいたなら卒倒するほど強烈な悪臭を感じたことだろう。
やがて、カメラ映像に付近の様子がはっきりと見えてきた。
テュポーンは腐っていた。
もはやそれは数百万トンの分解しつつあるタンパク質の巨大な山だった。
さすがに死肉食いの動物たちもこれを腐る前に食べつくすのは無理だったようだ。硬すぎる外皮も摂食を妨げる要因になっただろう。
死骸の表面からは白い蒸気がもうもうと立ち上っていた。腐敗と発酵で発熱していると思われた。
硬い鱗や外皮はほぼそのままだが、鱗の隙間からは大量の腐汁が浸み出し、それが地面に溜まって死骸の周囲に湖を作り出していた。嫌気性の微生物が増殖しているのか腐った湖は毒々しいオレンジや黄色や緑に染まっていた。周囲の土地に戻り始めていた植物もこの付近では腐食性のガスにやられて生育できず、砕けた岩だらけの地面がむき出しになっていた。
死骸からたちのぼる白い湯気とあいまって、まるで一帯は火山地帯のようだった。
そして、腐った肉の山のすぐ側にある、もう一つの岩山。
オニダイダラ。
テュポーンの死骸の調査が今回の目的だったが、三ヶ月間をともに過ごした超巨大生物のことが気になり、牧野は先にそちらに無人機を近づけた。
軌道上の恒星船からの観測でわかっていたことだが、オニダイダラは牧野たちが去った時からその場をほとんど動いていないように見えた。
だが、変化はあった。砕けた背部外殻や切り裂かれた脇腹の傷口はすっかり塞がっていたのだ。傷口からの流血は完全に止まり、乾いた血のかけらがこびりついているだけだった。外殻を引き剥がされ皮下組織が痛々しく露出していた部分も薄皮が再生しかけていた。死んだようにじっとしていたが、オニダイダラの巨体の奥底でその生命の炎はまだしっかりと燃えているようだった。
巨大な頭部に並ぶ眼はどれも固く閉じていた。彼女は深い眠りについて傷を癒やすのに専念しているように見えた。
その時、外殻の上を動き回る小さな影が見えた。共生生物か。
無人機はその生物を追跡しズームアップした。黒い体毛に覆われた体、長い腕……。その姿には見覚えがあった。
クモ型生物だ。はじめてオニダイダラの背中に降りた時、堀口を誘拐した生物だ。牧野は懐かしさすら覚えた。あれ以来一度もクモ型生物とは遭遇していなかった。いったいどこからやって来たのだろう。
クモ型生物は一体だけではなかった。着生植物を失いハゲ山のようになった外殻の上をサルの群れのようにまばらな集団をなして歩き回っていた。
オニダイダラの上にいたのはクモ型生物だけではなかった。
背部外殻の後ろの方、牧野たちが尾部高原と呼んでいた比較的平坦な場所に巣を構えているものたちがいた。
それは体長二十メートルはある堂々たる巨大生物だった。翼竜を思わせる姿で、膜状の翼を折りたたみ巣の上にかがみ込んでいる。大きな頭部は見るからに凶悪な面構えで、上下左右に開く顎には大きな歯が並んでいた。全身に毛はなく革のような灰色の皮膚がむき出しになっていた。
全部で十二体が互いに間隔をあけて外殻に営巣していた。木の幹を積み上げた巣の周囲は液状の糞で白く汚れていた。
そのうちの一体が大きく口を開き、大量の赤黒い液体を吐き出した。すると、体の下から小さな生き物たちが現れ、ぶちまけられた吐瀉物に群がった。この生物の幼体だろうか。
その生物は立ち上がり大きく翼を広げた。翼開長が五十メートルを超える巨大な翼で上昇気流を捉え、それは空に舞い上がった。
無人機もその後を追った。
巨大な飛翔動物はギガバシレウスの死骸の上に舞い降りた。
そこはドラゴンスレイヤーの重力波砲で消し飛ばされた頸部の断面だった。そこだけは硬い外皮がなく肉がむき出しになっていた。飛翔動物は死骸に噛みつくと、大きな肉の塊を食いちぎった。飛翔動物はハゲワシのような腐肉食者だったのだ。
クモ型生物と腐肉食の巨大飛翔動物。牧野たちが去った後もオニダイダラは新しい住人を受け入れていた。オニダイダラの何がこれほどまでに動物たちを引きつけるのだろうか。オニダイダラにとっては、別の惑星から来たホモ・サピエンスという種も、訪れては去って行く一時的な共生生物のひとつに過ぎなかったのかもしれない。
牧野は気持ちを切り替え、テュポーンの死骸の調査に取りかかった。
死骸の腹部は体内で発生した腐敗ガスの圧力で大きく膨張していた。内部からの圧力と皮下組織の分解で鱗の継ぎ目は緩み、腐肉が外に飛び出していた。
腐肉には虫のような生物が無数にたかっていた。蝿の幼虫ウジ虫を思わせるが、ずっと大きく、血のように赤い色をしている。ぐずぐずに溶けた腐肉の中を這い回りながら、鋭い歯の生えた口であたりの肉を貪り食っていた。生き物に対し偏見のない牧野でもこの光景には嫌悪感を覚えずにはいられなかった。トンネルを掘って内部も食い荒らしている恐れがあった。
これではギガバシレウスの体内器官がどれだけ残っているかわからないな。
不安を覚えながらも牧野は無人機に搭載された透視撮影装置を起動した。無人機の飛行高度を変えながら、死骸の周囲を何周もぐるぐると飛び回り、内部の透視映像を記録していく。膨大な画像データは自動的に処理されて精密な三次元画像に変換されていった。
本来であれば実際に死骸を解剖し、この目で内臓や骨格の構造を調べるべきだった。だが、死骸はあまりにも巨大すぎるし、設備も人の手も足りなかった。それに何より、解剖を専門とする動物生理学者の川上を居住区の壊滅で失っていた……。事あるごとに失われたものの重さを実感する毎日だった。
牧野は別のモニターに表示されたギガバシレウスの内部構造の三次元画像を見た。
透視画像のデータが集まるにつれ欠落部はどんどん埋まり、細部の正確さが増していった。危惧したほど内部構造は損壊していなかった。ウジ虫たちが食い荒らしていたのは厚さ五メートルほどの表層部分だけだった。腹部の膨張は消化管内に腐敗ガスが溜まったためだとわかった。
はじめて明らかにされたギガバシレウスの体内は驚くべきものだった。
内骨格の形態は地球の脊椎動物のものに類似していた。背骨のような太く頑丈な骨が頸部から腹部末端まで体の中軸を貫いてまっすぐに走っていた。そこに四肢や翼を支える骨と、肋骨のように内臓器官を囲んで保護する骨が付属していた。骨はカーボンナノチューブの繊維でできているようだった。
地球生物には存在しない奇妙な器官もあった。
特に目立つのは背骨の末端付近を取り囲むように存在する大型の器官だった。何層もの繊維状組織やリング状の骨が組み合わさって構成された非常に複雑な器官で、その中核部は金属を主成分とするトーラス型の中空の構造物だった。
形からの類推ではあるが、おそらくこれが核融合器官だろうと牧野は見当をつけた。
トカマク型核融合炉に似ているようだ。
周囲の繊維状組織はコイルの役割を果たし、そこで発生させた強力な磁場によってトーラス内部で核融合反応を起こすのかもしれない。トーラスから伸びる管は七本の尾に繋がり尾端で開口していた。この管を通って核融合反応で加熱された推進剤が噴射される仕組みだろう。
しかし、この推測は工学に関してはずぶの素人である牧野の見立てでしかないので、正確な分析はエンジニアたちの研究を待たなければならないだろう。
体中にはいたるところに極細の繊維が走っていた。神経系と思われたがその素材はガラス繊維だった。つまり、ギガバシレウスは光ファイバーでできた神経系を持っていたのだ。普通の生物が使うニューロンの活動電位では情報を伝達するにあまりに遅く、この巨体では脳から出た信号が全身に伝わるまで何分もかかっただろう。だが、光ファイバーならば光の速さで情報を伝達できるので迅速に反応することができる。これまでの戦闘で見せた素早い反応も、この特殊な神経系があればこそ可能だったのだ。
この巨体を制御する脳はいったいどんな構造をしていたのだろう。ドラゴンスレイヤーの攻撃で頭部が失われてしまったのが残念で仕方がなかった。
頸部には長さ数十メートルに達する鉄塔のような長大なトゲが何本も生えていた。その内部には太い神経繊維の束が走っていることから、ただの防御用の武装ではなく何らかの感覚器官の役割を果たしていると考えられた。トゲの組織には金属が多く含まれており、電磁波をとらえるアンテナとして機能している可能性が高かった。
やはりギガバシレウスは電磁波に対して強い感受性をもつ生き物のようだった。
全体として見ると、ギガバシレウスの体はまるで宇宙船のようだと牧野は思った。
以前、抜け殻から回収した遺伝子から、ギガバシレウスがあさぎりの生物と共通の祖先を持つことは判明していた。しかし、宇宙を飛行するなど生物として常識を逸脱した特徴をもっていたことから、これが百パーセント自然の存在なのかについては疑問が持たれていた。特に安全保障班の井関などはあさぎりの巨大生物をベースにして異星人が造り出したサイボーグ兵器ではないかと疑っていた。
だが、今回の調査ではっきりしたことだが、天然に進化したとは信じられないような核融合器官なども有機的な形状をしていて周囲の器官とも違和感なく繋がっており、何者かが意図的に器官を継ぎ接ぎしたような不自然さはまったくなかった。
ギガバシレウスは造られた存在ではない。あくまで自然の進化の産物であり、長年をかけて宇宙という過酷な環境に適応した結果、人工物である宇宙船に収斂進化した。牧野はそう結論づけた。
その後も牧野はコンピュータ上に再構築されたギガバシレウス体内の三次元画像をつぶさに観察し続けた。見ていて興味が尽きることはなかった。
彼はふと、ある器官に目を留めた。腹腔内に収まった小さな臓器で、これまで巨大な消化管や核融合器官の影に隠れて見落としてしまっていた。
表面に網状の光ファイバー神経系が絡みついた袋の中には丸い物体がいくつも詰まっていた。
「まさか……卵か」牧野はつぶやいた。