第83話 真空崩壊
ドクターが凍結されてから船内時間で数日が経過した。
あさぎりからの撤退論は向井が欠けたことで求心力を失い急激にしぼんでいった。
探検隊の方針を揺るがしかねない大問題はあまりにもあっさりと立ち消えになった。この点でドクターの目論見は十分に目的を達成したことになる。
そして、ドクターの目的は清月総隊長の意向とも一致していた。あまりに鮮やかすぎる解決と相まってそのことがある疑惑を呼んだ。
向井の殺害未遂は総隊長とドクターが結託して仕組んだシナリオではないのか、と。
たしかに隊員の対立や反乱は宇宙探検において何よりも避けるべき事態だが、そのために総隊長が隊員の殺害を謀るはずがない。清月総隊長はそんな人ではない。ある隊員からその話を聞いた時、牧野はそんなものは馬鹿馬鹿しい陰謀論だと一蹴し、まともに取り合わなかった。
だが、もしかしたら……いや、そんなはずはない。牧野はこれまで通り清月総隊長を信頼し続けることにした。
ともあれ、今後の方針は定まった。
我々は惑星あさぎりに留まり、再び居住区を建設して定住し、この星系における人類の橋頭堡となす。
再びこの惑星に定住するのに先立ち、船内ではそれに向けた計画が始動していた。
今度は絶対に犠牲者を出さないという決意のもと、準備は入念に進められた。
これまでとは異なり、船内には物々しい雰囲気がただよっていた。三年前に最初の居住区を建設した時が科学調査を目的とした野外キャンプの設営だったとすれば、今回はまるで軍事侵攻作戦の前線基地の設立だ。
そう、これはまさに人類とあさぎりの生物との戦争だった。
居住区の襲撃により多くの隊員が失われたことで大きな穴の開いていた組織図は刷新され、一部の隊員たちのポジションは大幅に変更された。以前とはまったく違う役職に異動になる者や、異例の大抜擢を受ける者もいた。
恒星船の生産モジュールでは、新しい居住区建設で必要な機材や物資、建設作業に使われるヒト型重機などが機能強化された大型ナノ合成機で次々と製造されていた。
居住区の監視と防衛、敵性生物の排除にあたる強化型防衛ドローンや、全員を同時に収容できる脱出用の高速飛行艇も開発された。これまで安全保障班のメンバーしか携帯していなかった銃火器も全員分が支給されることになった。
先の戦闘で破損した乾のドラゴンスレイヤーは修復が進められる一方、攻撃能力を強化するためドラゴンスレイヤーの二号機と三号機が作られることも決定した。二号機のパイロットは橘に、三号機は平岡に決まった。平岡ははじめ生体改造手術に難色を示したが、強大な機械を操縦する魅力には抗えず結局は受け入れた。ドクターが凍結されたため、万能医療機は隊員が操作せざるをえず手術には乾の時の倍以上の時間がかかった。
この戦争で最大の懸念は、もちろん外惑星から飛来しつつあるギガバシレウスの大群だった。
星系内の観測が進むにつれて、惑星間を飛行するギガバシレウスの個体数は増えていく一方だった。それらの軌道を解析すると、接近中の複数の群れはある宙域で集結したあと、巨大なひとつの大群となって一挙にあさぎりに到来すると推定された。
計算によると、その日は三百十三日後。あさぎりの暦で一年二ヶ月と十七日後だった。
数千体ものギガバシレウスがあさぎりに降りてくる。想像を絶する事態だった。
先にあさぎりにやってきた六体が見せた活発な捕食行動から推測すると、それらはあさぎりの生態系を根こそぎに食い尽くしてしまうだろう。まるで異常繁殖したバッタの大群のように。
これらの大群にいかに対処し、生存するかが問題だった。これをしのぐことができなければ、再定住計画も人類の橋頭堡も水の泡と消える。
数日前、あさぎりから逃亡したギガバシレウス、ケツァルコアトルの追撃を主張する乾に清月総隊長は言った。
数千頭の大群でさえ一挙に殲滅できる究極の暗黒兵器があると。
清月はついにその兵器の詳細を明らかにした。
真空崩壊爆弾。
それはあらゆる物質を消滅させる、物理学的に防御不可能な大量破壊兵器だった。
量子論によると、物質がなにも存在しない空間自体、すなわち真空もエネルギーを保有しているという。これを真空のエネルギーと呼ぶ。現在の宇宙空間の真空は安定状態にあるが、これは偽の安定状態に過ぎなかった。何らかのきっかけで安定状態から抜け出すと、膨大なエネルギーを放出しながら、よりエネルギーレベルの低い安定状態にむかって相転移していくと言われている。この仮説上の現象は真空崩壊と呼ばれている。
空間のある一点で真空崩壊が発生すると、放出されたエネルギーが真空崩壊の連鎖反応を引き起こし、泡のように球状に膨張していく。光速で拡大する境界面はすべての物質を破壊するだけでなく、その内側の空間では物理定数さえ変化し、いかなる粒子も存在できなくなる。物理学で知られている限り最も完璧な破壊的現象だった。
さすがにこれには強硬派の井関でさえ戸惑いを覚えたようだった。
「ちょ、ちょ、ちょっと待ってくださいよ。たかがギガバシレウスの駆除のためにそれはあまりにも……まさに牛刀をもって鶏を割くがごとき大袈裟さ。そもそも、たしか一度発生した真空崩壊は止まらずに宇宙全体に波及していくだったはず。ギガバシレウスを殲滅するために宇宙そのものを破壊してしまってはあまりにナンセンスです」
清月はそれに答えた。
「それは古い学説だ。たしかに二十世紀にはじめて真空崩壊という現象が発見された時はそのように考えられていたようだ。だが、二十二世紀のベイリーの拡張量子重力論によるとそれは否定されている。真空崩壊の泡はある程度膨張した後で新しい宇宙となってこの宇宙から分離し、その跡はまったく痕跡を残さず閉じるのだ。この宇宙の中で真空の泡がどれだけ膨張するかは、放出される真空エネルギーの落差の大きさで決定される。真空崩壊爆弾では使用するエキゾチック物質の量によりその大きさを調整できる」
「しかし、あまりに不安要素が大きすぎます。もし真空崩壊の制御に失敗したら……」井関が言った。
「心配はいらない。その点ではこれを開発した彼ら小惑星人は信用できる。二十世紀、最初の原子爆弾が開発されたときも同じような不安を抱く者がいた。一部の科学者は核分裂反応の連鎖反応で大気中の窒素が酸素に変わって燃焼し、地球上のすべてを焼き尽くすと考えたのだ。その後、最初の核実験でそれは完全に否定された」清月は言った。
つまり、真空崩壊爆弾はすでにどこかで実験されたことがあるのだ。仮想ではなく現実の宇宙で。おそらく太陽系の最果て、オールトの雲のさらに外側の恒星間空間で。地球の人間が誰も気付かぬうちに、小惑星人たちは宇宙そのものを破壊しかねない危険な実験を行っていたのだ。牧野は背筋が寒くなった。
「真空崩壊爆弾を使用するタイミングだが、ギガバシレウスのすべての群れが一か所に集結する時を狙う。大群の中心部に真空崩壊爆弾を送り込み起爆する。爆発半径を0.3天文単位に設定すれば大群の97%以上を一挙に殲滅できる計算だ。それ以上大きくすると第三惑星まで消滅させてしまうし、けた違いに大量のエキゾチック物質が必要となる。群れ全体をカバーできないので少数の個体は残存するが、それはこの船やドラゴンスレイヤーの武装で各個撃破していく」
「爆弾の材料となるエキゾチック物質ですが、どこから調達するんです?現在の宇宙にはほとんど存在しないはずですが」航宙士の吉崎が言った。
「これから我々が作るのだ。月で」清月が言った。
恒星船はあさぎりを周回するふたつの月のうちの一つ、オボロに到着した。
恒星船は一機の無人機を発射した。それは背後に極細の黒いフィラメントを引きながらオボロの赤道に沿って飛び、月を一周した後で地表に着陸した。その後を追うように黒いフィラメントも降下し、ぐるりと月の赤道を取り巻くように長々と地面に横たわった。
長大なフィラメントに点在する微小な結節点にむけて、恒星船から制御信号が送られた。
フィラメントは直線上に連鎖したナノマシンの集合体だった。信号を受けてナノマシンは活動を開始した。月の表土を分解して取り込みながらナノマシンは自己増殖し、フィラメントの太さを増していく。やがて、その内部に精密な構造が構築されはじめた。
ナノマシンが作り出しつつあるもの、それは月の赤道を一周する巨大な粒子加速器だった。
それが完成し稼働を開始した暁には、その内部を限りなく光速に近い速度にまで加速された粒子が飛び交うことになる。光速の粒子が正面衝突した瞬間、ビッグバンの瞬間にも匹敵する超高エネルギーが発生し、現在の宇宙にはほとんど存在しない奇妙な粒子が生成される。負の質量を持つそれこそが真空崩壊爆弾に必要なエキゾチック物質だった。
すべてが順調に進めば、粒子加速器の稼働まで約二百日。そして必要なだけのエキゾチック物質を蓄積するまで最短で約五十日。一方、ギガバシレウスの大群が到来するまで三百十三日。タイミング的にはかなりぎりぎりだった。
この約三百日間で、今後のすべてが決まる。